どんなことがあっても落ち着く気持ち

痛ましいこと、悲しいこと、やりきれないことが、自分に起こったわけではないのだけど、どうしてもモヤモヤしてしまって落ち着かないってことが、台風のニュースが大々的に報道されているようなときには、自分の心に生まれてしまうってことがある。

共感する力が自分まで痛みを持たせる。

一方でラグビーで4連勝して準々決勝行きを決めた、今夜のスコットランド戦の戦いを見ていると、興奮して、心配して、歓喜の気持ちをいっぱい心に満たして、嬉しいような気持ちになることがある。

共感する力が自分を喜ばせることになる。


いいときだけ作用しててくれればいいのに、喜ぶ気持ちのセンサーは、悲しむ気持ちのセンサーも兼ねているらしく、嬉しい気持ちをたくさん表現できる人は、悲しい気持ちをたくさん表現することもできてしまう性質がある。

実は意外と感動してないんだけど、周りに合わせて叫んでいるだけの人は、本当は悲しいことも嬉しいこともそんなに反応的ではないんだけど、周りが嬉しそうなのでそれに相槌をうつような気持ちで、反応的に合わせておく。

そしてまた、驚くくらいに周りにことには興味がなく、全く嬉しくも悲しくもないっていう人もいて、事実だけを捉え、感情とかちょっとよくわからんのだけど、悪いけど状態をきちんとわかるように説明してくれないか?的な反応をしてしまう、これもまたひとつの性質。


感情的に豊かだと、人が喜んでくれる。

なぜなら、嬉しそうな顔を、人がみたいと思っているから。


だから赤ちゃんの時とかに、嬉しそうな顔を見ていると、嬉しそうにみんなが反応してしまうので、それに合わせて人は反応的であることがとても良いことであるようにインプットされてしまうんだろうなと思う。

情緒的であることは、人間として、とても人間らしい。美しさも、素敵さも生み出せば、醜さも、みじめさも、酷さもう生み出すものが情緒的な反応。


行き過ぎれば、やはり逆の反応にも行き過ぎる。
大興奮してしまう人は、大憤慨してしまうような性質を持っている。
だけど、だからこそ満面の笑みで人を嬉しい気持ちにもさせたりもする。


なにがいい、という話でもない。
ただ悲しい気持ちをいっぱいにするのはつらい。


冷静になるスイッチみたいなものが、もしも心に備えられるとしたら、時に応じて、人を傷つけないようには、きちんと切り替えられるといいよね。

急に読者の方からサポートもらえてマジで感動しました。競馬で買った時とか、人にやさしくしたいときやされたいとき、自暴自棄な時とか、ときどきサポートください。古民家の企画費用にするか、ぼくがノートで応援する人に支援するようにします。