「ニセコイ」についての小考察――選択、不条理、そして勝利者は誰か?

はじめに

 
 「ニセコイ」という漫画(アニメ)がある。
 ご存じだろうか。
 流行っていたのは今から2014‐2015前ごろで、完結は2016年。入れ替わりの激しい漫画界では、すでに過去の産物となってしまっているのかもしれない。
 (実際、作中のネタ、展開は今ではありきたりで、今読むと古ささえ感じさせられる)

 しかし、「ニセコイ」の影響は大きい。
 これはよく言われる話だが、「ヒロインと主人公が過去に関係していた」とか、「ヒロインと主人公が秘密を共有する」とかの形式を持つラブコメを量産させたのは「ニセコイ」だろう。
(そう言った作品は、「ニセコイ」以前にもあっただろうけど、影響を与えたという点で)

 そんなラブコメ界の金字塔たる「ニセコイ」を、最近になって、ちょうど完結まで読み切った。若干文字が多かったが、めちゃくちゃ面白かった。

 なので、今回はその感想をつらつら書いていこうという趣旨の文章である。

 今回語るのは、まずはヒロインを選ぶことについて、それから恋愛の構造について、そして最後にまとめとして「ニセコイ」物語世界における最大の勝者について述べたいと思っている。
(勢いで書くので、内容が変わるかもしれないし、対して検討はしないので、おかしいところがあれば優しく言って欲しい)

ヒロインの選択


 まず初めに、本文では、ネタバレをすることを喚起する。
 よって、「ニセコイ」を読んでいない人は是非「ニセコイ」を手に入れて読んで欲しいし、なんとなく読んだことがある人は本棚から引っ張りだして再読して見て欲しい。

 前置きはここまでにして、唐突だが、ぼくは「ニセコイ」で重要なのは、(というか、あらゆるラブコメ作品で重要なのは)ヒロインの選択だろうと思う。
 つまり、主人公が誰を選ぶかだ。

 ぼくらはラブコメを読むとき、主人公と誰がくっつくのかを(ひとまず)最終的なゴールと想定しながら読む。
 作者もそれがわかっているから、主人公と誰がくっつくのかを分からないように、でもヒロインはヒロインとしての風格を失わないようにしながら、作品を造り上げていく。

 よって、ラブコメにはある種の推理要素があって、それを明確に示したのは「ニセコイ」の功である。
 しかし、「ニセコイ」に罪があるとすれば(そもそも作品に罪なんてないのだけれど、欠点と言う意味で)、ダブルヒロイン制にしたのにも関わらず、主人公の思いがやや傾いているように読めたことが原因だろう。

 そのことを考える前に、ここで一度関係性を整理しておく。

 「ニセコイ」には主にヒロインが二人存在する。
 一人は主人公が中学校からずっと好きだった小野寺小咲。(以下、小野寺)
 そしてもう一人がある日突然転校してきた美少女の桐崎千棘。(以下、千棘)
 「ニセコイ」は、つまるところ、この二人のどっちを選ぶのかという話である。

 そして、あらすじは以下の通り。(恋愛要素のみを抜き出した)
 主人公である一条楽(以下、楽)は、最初は小野寺が好きだった。(というか、後半までは明確に小野寺のことが好きなままである)
 しかし、物語が佳境に入るにしたがって、やがてどちらとも好きであることに気づく。
 そして、最終的には、幼き日に約束していた相手である小野寺ではなく、千棘を選ぶ。

 この心理の動き。非常に人間的である。
 要は、楽にとって憧れの相手は小野寺だったが、実際に愛することができたのは千棘だったというわけだ。
 この感覚は、わかる人には理解できるだろうし、実際そういう話は先例がいくらでもあるだろうから、問題はないと考える。

 では、なぜこんなにも楽の選択が批判されているのか。

 それは二つの問題があると考える。一つはぼくらの固定観念。そして、もう一つは作話上の問題である。

 まずは固定観念について

 ところで、皆さんは「愛」と言われるとどんなイメージを持つだろうか。
 おそらく大半の人が、愛とは神聖で、完全に個人の自由であり、何人も阻止することのできない権利であると考えるだろう。
 言い換えれば、愛はキラキラしていて、ピュアで、なんとなく光が差しているようなものだと大勢が思うに違いない。
 しかし、「愛」についてぼくらが持っているイメージは、近代になって輸入されてきたものである。明治になって海外から輸入されてきた「愛」は名だたる作家(そうでない作家もいっぱいいたけど)たちによっていつの間にか神聖なイメージを付与され続けてきた。
 その理由は主に女性の解放である。
 家と家を繋ぐ道具にされ、性的に搾取されてきた女性を解放するための自由な「愛」。人間は「愛」に基づいて婚姻を結べば、今のように女の人が苦しむことはないはず。
 そういう考えのもとで、「愛」は流布されていった。
 前時代的な考え方と愛の対比は「ニセコイ」の中でも扱われている。
 そう、橘万理花(以下、万理花)の一連の件だ。

 家の道具として結婚させられようとする万理花がかわいそうだから助ける。

 この論法は、完全に近代的愛観に基づくものと言っていい。
 つまり、「ニセコイ」は近代的な愛を前提とした物語であるし、悪意を持って言えば、作者の一方的な愛の考え方を押し付けてくる恋愛物語だと言ってもいい。
(すべてのラブコメはその側面を持っているけれど、特に「ニセコイ」は、という意味)
 だからこそ、近代的愛を理解している読者の大勢は、小野寺が選ばれると思っていた。
 いや、信じたかった。

 日本に「自由な恋愛」という概念が入ってきたとき、作家たちはどう描いていいのか困ったという。なぜなら、自由に交際する女性など存在しなかったからだ。
 だから明治の作家たちは、彼らが唯一関係することができた芸者をヒロインに据えた。しかし、それでは「自由な恋愛」を描けない。なぜなら芸者はプロの女性であり、男女関係に精通した女性であった。
 そんな女性たちを参考に「自由な恋愛」を描くことがどうしてもできなかった。もし書こうとすれば、あらゆる男と交際する女性を書かねばならない。それでは愛の自由さは失われてしまう。
 どこかに「自由な恋愛」を書くことのできる女性はいないのか...

 そんな苦悩の最中、とある作家によって、とある設定が生まれた。

 そう、幼馴染ヒロインである。

 ヒロインを幼馴染にすることで、芸者のような玄人の女性ではなく、純粋で「自由な恋愛」を描くことができるようになったのである。加えて、幼馴染であれば恋愛に発展する動機付けも容易である。なぜなら最も近くにいる女性だからだ。接触する機会が多くなれば、それだけ発展する余地が生まれる。
 この偉大なる発明は反響を呼んだようで、だんだんと幼馴染ものは一般化されていき、やがて幼馴染といえば年下でなんとなく主人公を慕っている女性という風にテンプレ化していった。
(この辺の話は、佐伯順子という人がなんだか長い本で書いていたはずなので、そっちを参考にしてほしい。鵜呑みにしないで!)

 このテンプレートにぼくらも馴染みがあるはずだ。
 現代では主人公と同学年にする方が話の都合がいいから同級生であることが多いが、幼馴染といえば、なんとなく一途に主人公のことが好きな女性像を想像する。

 ここまで言えば、わかるだろう。

 小野寺とは、こうした幼馴染像に一番合致するキャラクターなのだ。
 じゃあ、その幼馴染像は何故生まれたのだったか。
 それは「自由な恋愛」をスムーズに描くための発明であった。
 そして自由な愛という言葉に、ぼくたちは神聖で、不可侵なイメージを抱いている。
 だから、ぼくらは小野寺のことを無条件に信じてしまったのだ。
 だって、今の時代に生きているぼくらは、恋愛とは神聖で純粋でピュアなものだと思い込んでいる。その体現者である小野寺がヒロインとしてふさわしいと思ってしまいがちなのだ。

 次に作話上の問題について

 これは簡単だ。さっき言った話ともつながっていることでもある。
 要は、主人公が千棘を好きだと認めるのが遅すぎたのだ。これがもし、話の中盤で、千棘への愛を自覚していたら読者の感想は大きく変わったに違いない。
 そして、もしそうなっていれば、ここまで意見が二分することはなかっただろう。実際、三回目のヒロイン選挙では千棘が一位になっていることからもそう予想することができる。

(これは可能性の話でしかないから、無意味な指摘かもしれない。
 なぜなら物語世界の可能性について論じることは所詮印象批評でしかなく、批評とはそもそも政治的(社会的)レベルに触れていないと意味がないからだ。
 だが、「ニセコイ」はあくまでもエンタメだ。ならば、僕らもそういった想像の海で自由に泳ぎ回ってみてもいいではないか)

愛の不条理さ


 ぼくが「ニセコイ」という作品を読んで感じたことを端的に言えば、

 愛の不条理さ

 となるだろう。

 だって、万理花はあんなにも全力を尽くしたのにあえなく友達の名のもとに葬られてしまうし、誠士郎だって頼りになる味方兼友人という域を脱することができない。
 そして、愛の不条理さの最たる具現者は小野寺である。小野寺は彼女の中高6年間(もしくは一生)を愛によって蹂躙されたのである。
 小野寺は何度も愛を告げようとした。それなのに、ありとあらゆる障害が彼女の前に現れる。
 ああ、どうして小野寺はあんなにも愛に弄ばれなければならなかったのか。
 今回はそんなことを考えてみたいと思う。

 まあ、例によって先に答えを言っておくと、小野寺が愛に翻弄され続けたのは、彼女が愛を自由なものだと思い込んでいたからである。

 そこで、皆さんは思うだろう。
『いやいや、愛とは自由なものでしょ。お前、前にそんなこと言ってたやんけ』
 と。


 確かにそうだ。
 例えば、今付き合っている人がいて、最近別に気になっている人がいるという場合。
 ぼくらは今付き合っている人と付き合い続けてもいいし、今の交際相手を振って、新しい人と付き合い始めてもいい。なんなら、どっちとも付き合わなくて第三の相手を見つけてきてもいい。
 こういう自由をぼくらには与えられている。
 だから、恋愛市場での競争は、自由で、公平で、個人に裁量権が全て委ねられていると、みんな思っているだろう。

 しかし、この思い込みが小野寺を悲劇的な結末へと導いてしまったのだ。

 まず恋愛市場というものは、まずもって開かれていない。
 僕らは意識的に(時には無意識にも)市場にいれる商品(相手)を選別している。それは顔、性格であったり、資金力や家柄などの多様のファクターによって選別される。
 だから、楽の恋愛市場に商品を持ち込めなかった万理花や奏倉先生は、相手にもされなかった。

 逆に言えば、ぼくらは恋愛をしたい相手がいるのなら、一番に、自分が相手の恋愛市場に入っているかどうかを知らなければならないのだ。そして、市場に入り込んでいないとわかったら、どんな手を使ってでも恋愛市場に入り込むようにしなければならないのだ。

 そして次に、恋愛市場において、取引は公平でない。
 なぜなら恋愛市場とは、一社独占が(一般的には)ルールであり、独占をすることができなかった他社は排除されるいびつな市場だからだ。
 よって、恋愛市場に入り込むことができたら、次に目指すべきは「ありとあらゆる手段を講じて、一番に契約を結ぶ」こととなる。

 しかし、小野寺はそれができなかった。

 なぜか。

 小野寺は真面目過ぎたのだ。いや、正確に言えば、「自由」という言葉に引っ張られて、正しい恋愛のルールを知らなかったのだ。

 そのことは最終巻でも明確に現れる。
 小野寺は楽の約束の相手が自分だったことを知る。しかし、その過程で千棘が遠慮していたことを思い出し、また「譲ってもらう」ことに対して罪悪感を覚える。
 この場面。
 非常に感動的なのだが、同時に、小野寺の弱さが全部露呈している。
 恋愛において、同時に契約を結べるのは一社だけ(ということになっている)だから、遠慮でもなんでもしてもらっていいから、自分のいいようにやるべきなのだ。決して、自由競争などしてはいけない。
 それができなかったから、小野寺は失恋してしまった。
(実際には、小野寺が告白した時点で、楽は千棘のことを選んでいたから、遡るとすればもっと前なのだけれど)
 
 以上のことから、恋愛とは全然自由ではない。むしろ、歪な形を成しているものなのだ。
(だから、ハートは心臓の形を模した💛で描かれるが、ぼくはこの形は愛の歪さの形象なのではないかとこっそり思っている)
 だから、恋愛市場でうまく立ち回れなかった小野寺は楽と結ばれることができなかったのである。

 と、ここで逆に考えてみる。
 じゃあ他の奴らはどうだったのかと。

 まずわかりやすい万理花・奏倉先生・誠士郎の三人。
 この三人はみな楽の恋愛市場に入り込むことのできなかった三人である。
 万理花は恋愛市場について完全に理解していただろう。しかし、ありとあらゆる努力をしても楽の市場に入ることはできなかった。だから負けてしまった。
 この万理花と同じような展開を辿った者に、奏倉先生がおり、先生もまた恋愛について理解していたが、姉と言う枠組みを逃れることができなかった。
(ここで奏倉先生も幼馴染だと気が付いたが、この場合は幼馴染というよりも、姉の要素が付与されていると判断した)
 誠士郎は恋愛を知るところから始まったが、自身の愛を理解してからは冷静であり、自ら市場から去って行ったところに、厳しい世界を生きてきたリアリストの厳しさが出ている。
 ともあれ、これら好きなのにも関わらず相手にされない三人は、みな楽の恋愛の射程外から、射程内へ入る努力をしたのだが、敗れ去ってしまったのである。

 次に千棘。
 千棘もスタートは先の三人と同じだったが、千棘は家の事情によって無理やり楽の恋愛市場に入り込むこととなってしまう。
 しかし、千棘自身は恋愛市場のルールを解してはいないようだ。
 なぜなら、最終巻で彼女はまた譲ろうとしてしまうからだ。そこに運よく万理花がいたから、千棘は楽と結ばれることができたのである。

 と、こうしてみると千棘は無理やりに恋愛市場へと向かうように促されていることがわかる。

 これがぼくの思う恋愛の不公平さだ。「ニセコイ」を通じて感じたモヤモヤ感でもある。

 要するに、恋愛において本人の意思など割とどうでもいいのだ。もしくは、「ニセコイ」はそう読み取れる可能性がある作品なのだ。
 問題はどのようにして相手の恋愛市場に入り込み、如何様にして最初に契約を結ぶかでしかない。そしてその努力は自分によってなされなくてもいい。
 ぼくは「ニセコイ」を読んでそう思い、やるせなさを感じるとともに、だからこそ小野寺に肩入れしてしまうのだと思った。

「ニセコイ」における最大の勝利者


 さて、ここからは余談だが、「ニセコイ」の物語に於いて完全に正解に近いムーブをしている人物がいるのだが、皆さんはお気づきだろうか。
 まぁ、ここまで読んだみなさんは気づいているだろう。

 そう、宮本るりだ。

 彼女だけが物語の最初から最後まで、小野寺が告白するように仕向けている。よって、宮本るりは物語の最も早い段階から、恋愛を理解している人物として描かれているのだ。

 そして、宮本るりの恋愛理解度の高さが窺えるのが物語最終番。
 宮本るりは、舞子への気持ちに気づいてからは、まず初めに舞子の好きな人の有無を尋ねる。
 これが市場に入っているかの確認だ。
 そこで舞子の思い人がきょうこ先生であることを確認すると、次にほぼ最速で告白へと移行する。
 しかもこの告白、舞子の気持ちを完全に汲み取ったうえで、舞子の恋愛市場に自分を強引に入れ込むとともに、完全にイニシアティブをつかんでいるのである。

 だから、ぼくは「ニセコイ」とは恋愛の不条理が最もよく描かれた美しい作品であると思うとともに、その作品で最も成功したのは、好き勝手に動きまった一条楽ではなく、ルールを理解し、最適に行動した宮本るりであると評価するのである。

雑記


 以上が、読んだ感想である。
 二部の愛の不条理を語っている場面は、論拠など無く、ほぼ思うがままに書いている。流し読んでもらいたい。
 これまであーだこーだと偉そうに語ってきたが、それほど名作なのだ。「ニセコイ」という作品は。
 正の方向であれ、負の方向であれ感情を動かせる作品を書けるというのは並大抵の才能ではないと思う。それに「ニセコイ」は舞台装置を「ザクシャ・イン・ラブ」と鍵の二本柱で乗り切った。それは本当にすごいことだと思う。
 このような作品を世に生み出してくれた古味直志先生には持ちうる限り最大の言葉で賛辞を贈る。

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