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なぜ私はアウトプットを継続できないのか?

極度の3日坊主です。
「アウトプット」ということに限らず、何かを始めて3日…と言わずとも、1ヶ月以上集中して続けられたことは無いかもしれない。
文章のアウトプット、プログラミングの勉強、ピアノの練習、健康的な食生活、24時間ジム……。
(何かを続けるために一番重要なのは「継続力」ではなく「復帰力」という風に最近切に感じます。それはまた他で記事にしよう。。)

ということで、なぜ自分はアウトプットを続けられないのか?を考察しようと思います。

インプットに対してのアウトプットが浮かんでこない(という幻想を抱く)から

最近NewsPicksの有料会員になって、何か記事を読んでは何かPickコメントせねばと思いますが、「いや、でも特に何も響かなかったな」とスルーしてしまうことが殆ど。

でも、私も人間ですから、「何も感じない」ということはある訳がない。感じようとしないから感じないのだ、と思います。
「考える=書くということである」とは自分でも思うのですが、まずは「書き始める」をしないと、何もアウトプットは生まれないんでしょうね。

「書く」でなくて「話す」も大いにあるなと思っています。
誰かに壁になってもらって、思考の壁打ちをする。そうすると思考が深まり、自分でもまだ自覚していなかったことを思いついたりする。
思い返せば、よく先輩に「壁になって」と言われて会議室にこもることがあります。

アウトプットを習慣化するためのシステムが整っていないから

人間、何かをできるようになるために一番大事なのは、「気合」などではない。「システム」だ。

というのは上司の言葉ですが、これは本当にそうだろうなと思います。
アウトプットを日常にビルトインしないと、継続するのはなかなか困難。

しかもそのシステムを構築するのが難しい。結構クリエイティブなタスクだと思います。
例えば、飲食店で「アルバイトがちゃんと掃除をしてくれない」という問題があるとする。その解決策として「清掃チェックリストを作成する」みたいのがよくあると思います。
でも人間、チェックリストがあるだけでは掃除するようになりません。それよか、「休憩明けには必ずフロアの机を全部拭くルールにする」ぐらいのシステム化をしたほうが清掃が促進されそう。

これを書いて誰が得するんだ?という自問自答を始めてしまうから

noteなどにアウトプットをするのは、本質的には自分のため。でも「誰かから何か反応が返ってきたらいいな」という下心(?)は大いにあると思います。人間の幸福=自分以外の誰かの役に立つことだと、心理学の教授が言っていました。

でも、自己研鑽を目的としたアウトプットをする際に「他人の目」を気にしだすと、良くないことも多いような気がします。(品質が上がるという面では良いことかもしれませんが)

「これを読んだ人に何の利益があるんだ?」「間違ってることを書いていないだろうか?」「誰かが言っていることをそのまま繰り返しているような記事になっていないか?」という自問自答を始めてしまう。アウトプットしない理由を一所懸命作り出してしまう。

そうなってくると、他のもっと楽なタスクに逃げてしまう。Youtubeを見るとか。こうなると一生アウトプットを継続することはできない…。

ということで、特にお金をいただいているわけでもないので、とにかく気楽に自分の思うことを書いていく。とにかく継続する。を大事にnoteを書いていこうと思います。

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