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Ⅶ パスクイーノは詠う


 緑と金の服を着た金髪の若者の指先がリュートをかき鳴らした。彼の若々しい声が歌うのはフランチェスコ・ペトラルカのマドリガーレであった。

『ノン・アル・スオ・アマンテ・ピウ・ディアナ・ピアケ、クアンド・ペル・タル・ヴェンチュラ・ツッタ・イグヌダ・ラ・ヴィデ・イン・メッツォ・デル・レ・ゲリデ・アケ(彼はディアナに心奪われた、思いがけず一糸まとわぬ乙女を、冷たき水間に見つけし時に【註1】)』

 この時、かの詩人の言葉に触発されてか、ファルネーゼ枢機卿――ハンサムな放蕩者――はスクイッラーチェの公妃に顔を寄せ、大仰に溜息をつきつつ、彼女の耳にこっそりと何事かをささやいた。

 舞台はヴァチカン宮殿の広々とした諸教皇の――サラ・ディ・ポンテフィチ――、大きな半円形を描くように建つ柱廊コロネードが美しいベルベデーレ庭園を見下ろし、見事なフレスコ画が描かれた天井には歴代教皇の業績を称える銘文を刻んだパネルが飾られており、それを異教の神々を描いた多くのパネルが囲んでいた。雷を落とすジュピター、太陽の二輪戦車を駆るアポロ、ヴィーナスと鳩の群れ、ディアナとニンフたち、セレスと小麦の束、そして翼ある帽子をかぶったマーキュリーや軍装でかためたマルスもいた。その間に織り交ぜられているのは黄道十二宮と四季を象徴する図像であった。

 時は初秋、いくらか涼しい微風が吹き始め、太陽が獅子座に入る季節の暑さでうだるようなローマ平野を覆っていた不快な湿気を、そっと運び去ってくれた頃である。

 大勢の人々が、この高貴なる一室につどっていた――千変万化する万華鏡の模様を生み出している破片は、きらびやかな生身の人間たち――高位聖職者の紫、鎧で身を固めた兵士たちの灰色、色とりどりの絹をまとった廷臣たちの生み出す虹色、そしてあちらこちらにいる僧職や大使が身に着けた地味な黒もあった。

 部屋の最奥にある低い壇上には、この世の支配者にして神父達の神父、アレクサンデルⅥ世ことロドリーゴ・ボルジアのひときわ目立つ姿があった。彼は教皇の白い礼服をまとい、大きな頭には白い室内帽をかぶっていた。七十代の高齢でありながら、彼は奇跡的な活力を維持しており、未だ男盛りのように見えた。スペイン系の黒い瞳――ガスパリーノ・ダ・ヴェローナ【註2】が数十年前に雄弁に描写したその危険な魅力は薄れていなかった――は炎のようにきらめき、その声は豊かに響き、恰幅のいい長身の背は真っすぐに伸び、この驚くべき七十代の男性が未だ総身に若さを保っていることを示している。

 その間近、チュートン人の式部官が自ら金布上にクッションを置いた腰掛けには、金色の髪をした美しいルクレチア・ボルジアと、そして金髪も美しさも負けず劣らぬジュリア・ファルネーゼ、同時代人から麗しのジュリアジュリア・ラ・ベッラと呼ばれた美女が座っていた。

 ルクレチアが身をつつんでいる金襴ブロケード胸衣ストマッカーには色とりどりの夥しい宝石が散りばめられており、それが彼女に野蛮なまでに絢爛たる輝きを与えていた。彼女は目前に繰り広げられる光景を眺めつつ、青い瞳にうっとりとした表情をたたえて少年の歌声に耳をかたむけ、宝石で飾られた手に持った駝鳥の羽扇をゆっくりと動かしている。今年で二十二歳になる彼女は、既にひとりの夫とは離縁、更にもうひとりの夫とは死別していたが、それでも尚、無邪気で少女めいた類稀たぐいまれな魅力を保ち続けていた。

 部屋のすみ、壇から離れた右手には、彼女の弟であるスクイッラーチェ公ジョフレド(ホフレ)が立っていたが、この痩身で優美な蒼白い顔の青年は、アラゴンから迎えた妻がファルネーゼ枢機卿とはしたなく戯れる姿を遠目に見ながら唇を噛みしめ、きつく眉を寄せていた。

 ヘンナで染めた髪の赤みによって血色の悪さが際立って見えるが、ある種の奔放な美というのがドナ・サンチャの生まれ持っての資質なのであった。豊満な肉体とぽってりとした赤い唇、濃い茶色の大きく潤んだ瞳、物憂げにまどろむようなまぶたは彼女の多情な性質を物語り、絶え間ない嫉妬による夫の苦悩がゆえなきものではないことをうかがわせる。

 しかしながら、このような一連のドラマは、この物語と直接の関係はない。この午後に諸教皇の間サラ・ディ・ポンテフィチェで繰り広げられていた、もう一つの嫉妬による悲喜劇の舞台装置に過ぎないのである。

 柱廊コロネードの向こう側では、背が高く浅黒い顔をしたナポリ紳士、ベルトラーメ・セヴェリーノが柱の一本にもたれるようにして立っていた。傍からは歌う少年と室内の人々を眺めているように見えたが、実の処、彼は嫉妬にさいなまれた耳を澄ませて、庭を見下ろす位置にある涼み廊下ロッジアで皆と離れてたたずんでいる一組の乙女と青年の会話を盗み聞こうとしていたのである。

 その青年の名はアンジェロ・ダスティ、ロンバルディア出身の前途有望な好青年であり、青雲の志を抱いてローマにやって来た処を、スフォルツァ=リアリーノ枢機卿に書記として採用されたのであった。機知に富む彼は学究のみならず詩文にも才を見せ、芸術家のパトロンとして名を知られる願望がある雇い主の枢機卿は、アンジェロの筆跡の美しさのみならず文才も評価し、優遇していた。

 スフォルツァ=リアリーノ枢機卿がアンジェロの作る詩によって彼を溺愛するのは、別にかまわない。それについては、彼のライバルであるベルトラーメの関知するところではなかった。この俊敏で情熱的なナポリ人を悩ませていたものは、ラヴィニア・フレゴッシ嬢がその詩とその作者に示す関心だった。というのも、ラヴィニアのアンジェロに対する好感はいよいよ高まり、敗北の苦痛を免れたいならば何らかの行動に出るべき頃合いと思えるほど顕著になっていたのである。

 嫉妬に駆られて盗み聞きという行為に走り、柱に身を寄せていた彼が聞き取ったのは、このような言葉であった。

「……私の庭で、明日……午後……礼拝の鐘アンジェラスの一時間前に……」

 残りは聞き逃した。しかし彼が聞き取ったものだけでも、彼女があのロンバルディアのへぼ詩人――恋敵に対する適切な評価としてベルトラーメがアンジェロにつけた綽名あだなである――と密会の約束をしたと結論付けるに充分だった。

 彼は目を険しくした。もしアンジェロが明日の午後、礼拝の鐘アンジェラスの一時間前に、マドンナ・ラヴィニアと水入らずの心の交流によって至福を味わえると思っているのなら、それは自らに失望の種をいていることになる。ベルトラーメが確実にそうなるように計らうはずだ。彼は飼い葉桶に入り込んだ犬【註3】のような類の男であり、自分が手にしそこねた幸福を他者が楽しむのを許さなかった。

 少年の歌が終わり、室内に拍手と喝采が広がると、二人は柱の間を通って姿を現し、ベルトラーメもそれに合わせて進み出た。彼はラヴィニアには笑顔で、アンジェロには険悪な顔で挨拶しようとしたが、そのようなことは不可能と悟って己が愚かしく感じられ、それがゆえに益々腹が立った。そのような時、突然に彼の注意を逸らす転機がおとずれた。

 きびきびとした足どりに合わせて鳴る拍車の勇壮な音が室内に響いた。人々が後ろに下がることで前方に自然と道が開かれた新来の人物は、存在自体が場を制する力を持つ重要人物に違いあるまい。そしてまた、奇妙な静寂も一同の上に降りていた。

 ベルトラーメは振り返って首を伸ばした。長い部屋の中央を、真っすぐに前だけを見て、深々とこうべを垂れて歓迎する者たちには一瞥もくれずに歩み進んで来た長身の人物は、ヴァレンティーノ公爵であった。黒い服をまとい、長靴ブーツと武具を身に着けた彼は、さながら練兵場を歩むがごとくに教皇の間を大股で歩いていった。彼の顔は蒼ざめ、瞳には怒りの炎が宿り、眉は険しく寄せられていた。その右手には一枚の羊皮紙があった。

 壇の前に到着した公爵は、我が息子の只ならぬ様子の到来を驚きの表情で見守る教皇の前に跪いた。

「そなたの到着を待ちかねていた」アレクサンデルは彼の特徴である、やや舌足らずな発音でそう告げ、そして「だが、かようなものを期待していた訳ではない」と続けた。

「対処せねばならぬ用件あって遅参いたしました、聖下」立ち上がりながら公爵は答えた。「戯歌ざれうたを詠む者がまたも現れました。下劣な中傷者どもからは舌と右手を奪い去り、汚らわしい言葉を口にすることも記すことも二度とかなわぬようにしてやりましたが、それでもまだ甘かったようです。既に模倣者が存在していました――今度は詩人です」彼は冷笑した。「この模倣者に戒めを与えねば、追従者が後を絶たぬであろうことは疑いありません」

 彼は持参した羊皮紙を怒りのこもった手つきで広げて見せた。「これはパスクイーノ像【註4】の台座に取り付けられておりました。私に報告が届く前に、ローマ市民の半分がこれを見て、笑ったのです。私はコレッラに命じ、この文書を剥がして我が許に届けさせました。ご覧ください、聖下」

 アレクサンデルは羊皮紙を手に取った。教皇の顔には、チェーザレが事情を説明する間もおさまらずにいた怒りの影響は一切表れていなかった。それを読む間も彼の表情は穏やかなままだったが、読み終えた時には愉快そうな皺が浮かんだのであった。

「聖下、笑っておられるのですか?」彼を愛し、同時に恐れている父に対して、彼だけが向けることのできる腹立たしげな調子でチェーザレは問うた。

 アレクサンデルは完全に笑いだしていた。「やれやれ、一体、これの何がそなたを悩ませているのだね?」と彼は尋ねた。教皇はルクレチアにもその羊皮紙を手渡して、読むように勧めた。しかし彼女の指がそれに触れるや否や、チェーザレは慌ててそれをひったくり、妹を驚かせた。

「僭越ながら――おやめください」彼は言った。「もう笑いは充分でありましょう」そしてもの言いたげに教皇を見た。少なくとも彼は共感と、自分の憤慨への同調を期待していた。だが教皇はその代わりに面白がってみせたのであった。

「さあ」と、なだめるように教皇は言った。「それはなかなか機知に富んでいるし、いつものように下劣なものでもない。誇張されてはいるが、まあ、概ね事実と言ってもよかろう」そして彼は何やら思案するように大きな鼻をこすった。

「ご関心が薄いのは理解できます」チェーザレは言った。「これは、聖下ご自身については言及しておらぬのですから」

「ふん!」と大仰な身振りを交えながら教皇は告げた。「仮に私について書かれていたとして、それでどうせよと?匿名の諷刺詩人たちの処罰に熱を上げよと?よいか、偉人に中傷者はつきものだ。それは卑小なる世界において偉大であろうとする者が支払う代償のようなものだ。中傷者の存在はそなたの偉大さが認められた証と、主に感謝するがよい。下劣な言葉を書き散らす蚯蚓ミミズどものことは――その諷刺が機知に富んでいるなら楽しみ、単に愚劣なものならば無視すればよい」

「どうぞ、ご寛容をお示しなされませ、聖下。忍耐と寛容あらばこその聖座ゆえに」極めて微かではあるが、彼は嘲笑を浮かべているようであった。「なれど、私自身につきましては――このような風刺に対する熱中を一掃してくれようと決意しております。中傷者を彼奴きゃつらにふさわしき寝床である汚泥の中に投げ落とし、我が裁きによって息を止めてやりましょう。主よ、我にこの諷刺詩の作者を突き止めさせたまえ、そして、それが叶った暁には」彼は声を高め、硬く握った拳を天に向けて、その先を続けた。「必ずや、その首を吊ってみせると誓います、たとえその者が――世俗的な意味であると、霊的な意味であるとを問わず――君主であろうとも」

 教皇はかぶりを振ると、この激怒に対し寛容に微笑んだ。

「ならば祈ろうぞ」と彼は舌足らずな発音で告げた。「そなたが彼を見つけださぬようにと。その詩の作者は前途有望だ」

「仰せの通りになりましょう、聖下。彼奴きゃつには絞首刑によって速やかに息の根を止められるという前途が約束されております」

 教皇の温和な微笑は微塵も揺らぐことはなかった。「そなたは私を範とするべきだな、チェーザレ、三文詩人のことなぞ軽蔑の笑いをもって片付ければよい」

「そのようにいたします、聖下。保安官バルジェッリたちは既に、この詩人を草の根分けても探し出すようにという我が命令を受けております。彼らが彼奴きゃつを見つけだした時に、私がその三文詩人めをあざ笑う姿をお見せしましょう。下劣な戯言はこれで終わらせます」

 彼は再び跪き、教皇が差し出した手の指輪に接吻すると、登場した時と同じように、蒼白な顔に常の彼ならば滅多に表には出さぬ怒りを浮かべて退出していった。

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英国の作家ラファエル・サバチニによるチェーザレ・ボルジアを狂言回しにした短篇集"The Justice of the Duke"(1912…

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