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The Lost King~失われし王ルイ=シャルル第一部(4)代理官ショーメット

Ⅳ 代理官ショーメット

「市民ショーメットに会うといい」フーシェからそのように告げられたラサールは、その助言に従うように、翌日、ショーメットとの接触を試みる事になった。

 コミューンの代理官を待ち伏せする目的で、さりげない風を装いつつ、テュイルリー宮のホールをうろついていた若い画家は、件の要人から声をかけられて、人の少ない場所に連れ出された。

「君がフーシェに話した、プチカペー誘拐の陰謀というのは、どんな内容なんだね?」

「ああ、その事ですか!多分根も葉もない噂ですよ」

 彼らは宮殿の階段上に出た。

 十二月のその日、晴れてはいたが気温は低く、恐らくはそのせいで、中庭の浮浪者の数はいつもより少なかった。其処にいたのは少数の雑多な集団であり、その大部分は、理想郷ユートピアを築く試みによって大量に生み出された、飢えて痩せこけた失職者たちだった。特に目立っているのは、女たち――やかましく攻撃的な年配の女たち――であり、彼女らは下町の魚売り女ポワッサルドに至るまでが、いっぱしの政治家と化したかのように解放という幻想を共有していた。二、三人の新聞売りが記事の内容を大声で叫んでいるが、それはコーブルク【註1】や不実なピット【註2】による共和国に対する陰謀が発覚したという、日課の如き声明だった。門口を出た外にあるカルーゼル広場では、乞食たちが哀れみを請い、その内の何人かは、同情を買う為に己の傷や不具になった手足を見せびらかしていた。彼らの存在はショーメットにとって悩みの種であった。彼はラサールに、あの連中は貴族の陰謀で集められ、行進させられているのだと毒づいた。社会が貧困に陥っているような錯覚を引き起こし、共和国の信用を失墜させるのが目的なのだと。

 サン=ニケーズ通りでは、怒れる騒々しい女たちの間を通り抜けるのに少々難儀した。パン屋に殺到した女たちは、列を守らせようとする四名の警備兵が発する命令や、彼らが振り回すパイクにすら猛然と抵抗していた。ラサールは、これも反革命派の仕掛けた工作なんですか?と皮肉っぽく尋ねた。

「あの女どもは」と、皮肉に気づかずショーメットは答えた。「もう手に負えん。増長した挙句、男の領分にまでしゃしゃり出て来やがった。女の持ち場は家の中、祖国を守る為に子供を生み育てるのが本分だよ。法律でその点をはっきりさせんとな【註3】。それはともかく、君が話した貴族連中の陰謀だが……」

「貴族の陰謀については話してませんよ。俺は貴族が関わってるとは思ってません」

「君は愛国者が例の少年を誘拐しようと企んでいると言うつもりかね?愛国者が、あの少年と何をしようというんだ?」

「本気で訊いてるんですか?」ラサールは、ショーメットの単純さを笑っているようだった。「考えてもごらんなさい、我が友よ、オーストリアの伯父一族【註4】は、少年の身柄にどれだけの金を支払うでしょうね?少なくとも、百万は確実、多分五百万、一千万までいくかもしれない。しかもオーストリア金貨で、ですよ、ショーメット、アシニャ紙幣なんかじゃなくて。金持ちになりたい人間にとっては大金を手に入れる近道でしょ、権力が欲しい人間にとっても、多分これは権力を手にする近道ですよね。もし反動勢力が優勢になって、共和国が圧倒される情勢に転んだら、『国王の保護者』の立場を手に入れた人間はどうなると思います?」

 ショーメットの無骨な顔が瞬く間に深刻になるのを見て、ラサールは再び笑いだした。「動機が充分なのはわかったでしょ。貴方の囚人を良く見張ってください、ショーメット。貴方の囚人から目を離しちゃいけませんよ」

「もちろんだ、そうするとも!もっと詳しく話してくれ。公安委員会に持ち込む証拠が欲しい」

「確たる証拠はないんです。つまり、特定の人物を告発するだけの材料がないんですよ。何人かの名前が挙げられるのは聞きました。でも、はっきりとした根拠があるわけじゃない。こんな状況で個人名を出して嫌疑をかけるというのは、まずいでしょう」

「共和国が大きな危険にさらされたままの方が、もっとまずかろう。無実の人間の頭が何個か落ちる方がマシじゃないか」ショーメットは愛国的信念を譲らなかった。「公安委員会に出頭して、君が聞いた名前を証言したまえ」

 ラサールは首を振った。「その場合、真っ先に貴方の名前を挙げる事になりますよ」

「私?」ショーメットは息を呑んだ。「馬鹿な!私だと?」彼は呆然とした。彼らは角を曲がってオペラ座の入り口前に立っていた。売り口上を叫びながら、栗売り女が近寄ってきた。鍋をボロボロのショールに包み、肘に引っ掛けて運んでいた女は、その包みを解いて茹で栗を差し出した。苛立っていたショーメットは横柄な態度でそれを無下に追い払い、栗売り女は口汚い罵りを返したのだが、その際に、彼が革命政府の飾帯を着けているにもかかわらず、その女は「貴族アリストクラトの豚野郎」と悪態を吐いたのであった。

 ショーメットは女の罵り声が聞こえない場所まで、同行者を強引に引っぱって行った。

「女どもめ!まったく、あの女どもときたら!」彼は再び足を止めた。「私の名前が、その噂の中に出てくると言うのか」彼は激怒した。

「他の人たちに比べれば、ある程度のもっともらしさはありますからね」

「何処にだ?一体全体、それはどういう意味なんだ?」

「タンプル塔はコミューンの刑務所です。貴方はコミューンの代理官、タンプル塔に出入り自由なパリで唯一の人物です。貴方の場合、少なくとも機会はあります。馬鹿げた話とばかりも言えないんじゃないですか?こういう場合に真っ先に疑われるのは、それが実行可能な立場にある人間ですからね」

「なるほど」ショーメットは考え込んでいるようだった。彼は無精髭の生えた顎を撫でた。「そうか、なるほど」既に微量の毒が効き始めたのだろうかと微睡まどろむような目で彼を見つめているラサール青年に向かって、ショーメットはゆっくりと尋ねた。「他の名前は聞いたかね?」

「大物ばかりなので。軽々しく口には出せない名前ですよ」

「私にもかね?ここだけの話という事でも?」

「公安委員会で証言させられるのは、勘弁願いますよ。それが一番危ない。まあ、多分ですけど、事実ではない告発が刺激になって、本物の裏切り者が行動に出る可能性もありますし。何のかの言っても、五百万から一千万の大金ですからね、愛国者としての義務を放棄する人間も少なくないかもしれない」

「確かにな。まったくだ!まったく、その通りだ!うんうん。早まった告発はやめよう。約束する。で、他には誰の名前を聞いたんだ?」

「一人は、バラス【註5】」ラサールは図々しくもでまかせを言った。

「ふん、奴なら噂が本当でも、これっぽっちも驚かんぞ。快楽主義で金遣いが荒く、馬や女に散財してるからな。奴は自分の贅沢三昧の為に数百万を懐に入れているんだ、あの忌まわしい、腐りきった貴族崩れめが。けっ!」彼はこれ見よがしに唾を吐いた。「他には誰が?」

「もう一人は」ラサールは声を低めた。「ロベスピエール」

 ナイフで突き刺されたかのように、ショーメットは飛び上がった。驚愕した彼は、興奮のあまり危険なまでに無思慮な言動を見せた。

「神よ、なんてこった!フーシェの言う通りだとすれば、つまりあの、髪粉を振って絹のストッキングと小奇麗なコートを着た、気取り屋のムッシュー・ド・ロベスピエールは、腹の底では貴族かぶれって事だ」

「フーシェがそんな事を?抜け目のなさでは定評のある人物ですからね、フーシェは。彼の言葉は傾聴に値しますよ、だからって、ロベスピエールが小カペーの身柄を手中にしようと考えているだなんて明言はできませんが」

「だが、奴はやるかもしれん、手に入るものの値打ちを考えればな。君が説明してくれたようにだ。豚公め!奴はやるかもしれん」

「ショーメット、タンプル塔には優秀な監視を置いてください」彼は立ち止まっていた。「俺はここで失礼します。ダヴィッドからアトリエに来るように言われているので。ああ、そうそう、フーシェといえば、昨日、彼のスケッチを描いたんですよ。是非お見せしたいな。それから、近いうちに貴方の肖像画を描かせていただきたいんです、ショーメット」代理官のずんぐりした容貌を値踏みするように見る彼の黒い目からは、眠たげな様子は消え去っていた。「素晴らしい画題ですよ、我が友。描き甲斐がある。いいですか、これは芸術家としての意見ですよ。その、気高く高遠な額。いにしえのローマびとのようだ。形のいい、断固たる決意を感じさせる口の線。この辺りは描き易いんだが。でも、誰もが感じる捉え難い気高さを表現する為に、その炎を、貴方の目に秘めた荘厳な輝きを写し取るのは簡単じゃない。至難の業だ。でも、挑戦する価値はある。ぜひ試させてください、ショーメット」

「親愛なるラサール君!我が友よ!」芸術家が専門用語を使って話した為に、単なるお世辞とは思いもせず、ショーメットは称賛の言葉で上機嫌になった。「君の都合の良い時に、いつでも。遠慮は無用だよ」

 かくして狡猾なラサールは、代理官をそそのかす為の機会を作り出した。

 そして彼は時間を無駄にしなかった。その翌日――ド・バッツから、熱烈な称賛と共に、更に10ルイの報酬を得て――彼はショーメットが部屋を借りているフィーユ・サン=トーマス通りにある家の三階に、カンバスとイーゼルと絵の具箱を運び込んだ。代理官の住居は、快適かつ、成功した愛国者という身分相応に贅沢なものであった。なにせ、彼は確かに経済的に成功していたのである。役人としての報酬に加えて、彼には政治パンフレット執筆者としてかなりの収入があった。彼の家庭は、妻とおぼしき器量良しで豊満なアンリエット・シモニンによって取り仕切られていた。

 ラサールは、たちまち彼女と親しくなった。彼は労せずして女性を惹きつける類の魅力を備えており、ここで少々それを駆使してみたのである。居間の壁が殺風景なのよ、と彼女が不満を漏らしたので、彼はショーメットの肖像を描く合間に、師ダヴィッドの有名な作品の写しに過ぎない『ルイ・カペーの処刑』と『マラーの死』を含む四、五枚の絵を、即席で描き上げて進呈した。

 その作業中、彼女はラサールの周囲をうろついて甲斐甲斐しく世話を焼き、時にはババロアーズ【註6】、時にはカフェ、そしてファルスブールのノワイヨー【註7】や南洋産リキュール(実際にはフォーブール・サン=ジェルマン【註8】で作られていたのだが)が入った小型グラスプティ・ヴェールなどを出してもてなした。あっという間に彼女とねんごろになったラサールは、その影響によって本命である夫の方との親交も深まり、肖像画が完成するより前に、家族同然の扱いをされるようになっていた。この利点には不利も伴っていた。ラサールの作業中、何かと世話焼きに現れるアンリエットのせいで、この家に出入りするようになった本当の目的となる会話に入るのが難しくなっていたのだ。しかしようやく、妻を市場への使いに出す事によって、ショーメットが自ら、しばし二人きりになれる機会を作り出してくれた。

 これはラサールには予測済だった。何故ならば、ド・バッツとの連携によって慎重に下地が整えられていたからである。

 ショーメットは、栄えある役職の正装姿で描かれる為に座っていた。金ぴかのボタン付きの青いコート、小文字体ミナスキュールで小さく『人権宣言』が刻まれた真鍮板を下げた青白赤トリコロールの衿、青白赤トリコロールの飾帯、一度も抜いた事のないサーベル、そして羽飾りパナシェ付きの帽子の下からは、手入れの悪い黒髪が垂れていた。王侯貴族の厚顔かつ拙劣な紛い物のように、彼は品のない、粗野な汗ばんだ顔をラサールに向けていた。

 アンリエットを計画的に外出させた日、ショーメットはしばらくの間、何やら考え込んでいた。それから突然、彼は沈黙を破った。

「バラスが昨日、タンプル塔にやって来たんだよ」

 それを聞かされた画家は硬直したように筆を動かす手を止めたが、しかし彼の驚きは単なる芝居だった。その訪問は、ド・バッツと内通している公安委員会の秘書セナールが、それとなくバラスに働きかけた結果によるものだった。カペーの子供たちのような、社会的重要性を帯びた共和国の囚人が二名、幽閉されている場所なのですから、公安はコミューンの刑務所の状態を把握しておくべきではないでしょうか、との進言を受けたバラスは、敏速に行動した。

 驚きから立ち直ったかのように装い、ラサールは尋ねた。「貴方の許可を得て、ですか?」

「公安委員会の命令だ、私には副署も求められなかった。こんな越権行為は二度と許さんぞ」

 ラサールは深刻に考え込むような目つきになった。「それで、彼は何の用だったんです?」

「ああ!何の用だと?見た処では、奴はぐるっと視察して周る以上の事は何もしなかった。あの少年の個室に入って、次に階上の女たちの部屋まで行った」

「一人で?」その質問には怯えが含まれているようだった。

「いやいや。シモンが同行した。忠実な番犬だよ」

 静寂が続いた。上の空な様子で、ラサールはパレットの上で絵の具を混ぜた。ようやく口を開いた時、彼は無意識に内心の思いを声に出しているかのようだった。「何だか…これじゃまるで……あの噂もあながち……」

「私もそれを疑っているんだ」ショーメットにはラサールがほのめかした噂が何であるかを問い質す必要はなかった。「絶対に尻尾を掴んでやるぞ。ああ、こん畜生めフィシュトレ!まあ、なんにせよ、あの馬鹿は時間の無駄をした訳だがな」

「アナクサゴラス、俺だったら確認しますよ」

「とっくに確認済みだ。私の管理下で、そんな事は不可能だ。あの少年に何かあれば、すぐに気がつく」

「そうは思いますが、でも……有り得ないはずの事が時々起こるのが、世の中ですしね。すぐにでも替え玉を用意した方がいい」

「替え玉?冗談を言ってるのか。替え玉なんぞ、何処で見つけるんだ?」

「そんなの何百万人だって見つかりますよ。結局の処、八歳の子供の替え玉を探すのは、それほど難しい仕事でもないですからね。個性が固まる前の幼い子供なんて、みんな似たり寄ったりだから」

「今度は脅かすつもりかね。君はシモンの存在を忘れているぞ」

「まさか。ちゃんと覚えてますよ。賄賂を使えばいいんです。賄賂を受け取ってる人間が何百万人もいるのを忘れてるんじゃないですか」

「くだらんな!シモンには賄賂は効かんぞ」

「なら、彼には立ち退いてもらいましょう。バラスが彼を移動させるのを希望したって説明すればいい。公安委員会の圧力なら、シモンも抵抗できないでしょ?」

「バラスなぞ好きにやらせとけ。私は自分の立場くらい弁えとるし、対策は自分なりにとる」

 ラサールの顔には、友人であるアナクサゴラスに対する深刻な懸念が表れていた。「俺が貴方の立場だったら、悠長に待ったりしませんよ。貴方には代理官として、あの子供の安全についての責任がある。アナクサゴラス、何処かの悪党が少年の誘拐に成功した場合、貴方の首が落ちるって事、良く考えましたか?それに断言しますけど、現在の情勢は、今まで以上に誘惑が強いはずですよ。我が軍はヴァンデで苦戦しています【註9】。国境では専制君主たちの攻撃に押されているんです」興奮に煽られたように、片方の手にパレットと腕木マールスティック 【註10】、もう片方の手に絵筆を持った彼は、やや乱暴に身振りした。「日和見主義者――バラスであれ別の誰かであれ――は、反革命勢力が優勢になった時の保身を図って、あの子供の身柄を確保する為にとんでもない行動に出るかもしれない。もしそんな事になったら、アナクサゴラス、ギヨティーヌの刃が貴方の衿代わりになりますよ。ああ、なんて事だろう、我が友よ!その時の貴方の姿を想像しただけで、震えが止まらない」

 アナクサゴラスは、暗く深刻な感情に引き動かされた。彼は椅子から腰を上げ、この日はもう、モデルを務めるのをお終いにした。

「確かにその通りだ、畜生め!」ショーメットは背中で手を組んで、ゆっくりとした歩みで行ったり来たりを繰り返し、彼の馬鹿げたサーベルは踵にぶつかってガチャガチャと鳴った。

「警備を倍に、いや三倍にするぞ。それからコミューンは、如何なる者も――公安委員会の者であろうと――私の命令なしではタンプル塔へ立ち入る事は許さない、という法令を通過させるだろう」

 ラサールの目は輝いた。「それなら、かなり安心ですよ、我が友よ」

「かなり!」ショーメットが怒鳴り立てた。「かなり?なんだってんだ、これじゃ充分じゃないとでも言うのか?」

「多分、貴方に好意を持ってる分だけ、つい心配し過ぎてしまうんでしょうが」

「だが、まだやれる事があると?これ以上、私に何ができる?」

「ああ、いや、何もないです。何も」

「その口ぶりは、心からのものじゃないな。君が言う『何もない、何も』は『何かある、何か』にしか聞こえんよ。畜生!遠慮はいらん。これ以上、私に何ができるというんだ?」

 彼らは向かい合わせに立っていたが、ラサールの顔には、その考えの尋常でない深刻さが表れていた。「いや、貴方には無理だ。つまり、早い話が……。ああ、駄目だ!」彼はその考えを払いのけた。

「早い話が何なんだ?」ショーメットは食い下がった。

「言っても仕方ない事ですよ。貴方は途方もないって考えるでしょうし、でもやっぱり……考えれば考えるほど……あの餓鬼が絶対盗まれないようにするには、これは良い手なんだが」

「そりゃどういう手だ?」

「誰かに盗まれるのを防ぐ為に。貴方自身で、あの餓鬼を盗むんです」

「私自身であれを盗むだと!気でも狂ったか?」

「気狂い沙汰に聞こえるのは、無理もないですよ。もっともだと思います。それでもやっぱり……やっぱり……もし貴方が、あの少年を音もなく連れ去って、そして何処かに……誰も疑わないような何処かに隠してしまえば、もう誰にも手出しはできないはずだ」

 彼を凝視するショーメットの粗野な顔は、呆然とした驚きから不機嫌そうな思案顔へと徐々に変化した。それから彼は肩をすくめると、ぷいと横を向いた。「やれやれ!気がふれとる!」

「この意見は却下されるだろうな、とは思ってました。でも、これが貴方の身を安全にする確実な道ですよ、貴方が何と言おうとね」

 ショーメットは苛立った。「だが、子供が消えている事がバレたら?その時は安全どころじゃあないぞ?」

「充分安全ですよ。心配なんてないでしょ、貴方はいつでも少年を出して見せられるんですから。共和国の怒りを買うような心配はいらないし、仮にその頃には君主制が回復していたとしても、君主制側の怒りもね。俺はそんな心配なんて思いつきもしませんでしたよ。それはさて置き!」唐突に、彼は絵筆を片付ける為に背を向けた。「今日は、そろそろおいとましないと」

 だがショーメットは息を荒げ、突然ラサールの脇に回り込んだ。

「君はバラスの利益を図って提案してるんじゃないだろうな」

「俺が?バラスの利益を?待ってくださいよ。俺の話した事が?俺は誰の回し者でもありませんよ。可能性の話をしただけです、もし俺が貴方の立場だったら、こうするだろうっていう。けど、まあ、要するに、俺は臆病者なんでしょうね、アナクサゴラス。貴方みたいに不屈の闘志とか、ローマ魂とかの持ち合わせはないんで。絶対安全だっていう保証がないと、夜も眠れない。それだけです」

 それだけで充分だった。常に豪胆そうに振舞ってはいたものの、心底は臆病者である革命闘士に対して、深刻に考えるべき問題を与えるには充分だった。「共和国の怒りを買うような心配はいらないし、仮にその頃には君主制が回復していたとしても、君主制側の怒りもね」というラサールの狡猾な科白は、二十四時間、彼の脳裏にまとわりついて離れなかった。

 その翌日、意図的に完成を引き伸ばしていた肖像画に最後の仕上げをする為に訪れた時、若い画家はアンリエットがまたもや不在である事に気づいたが、その理由は考えるまでもない事だった。

 そしてラサールが自分の仕事にとりかかるや否や、早速ショーメットは本題を切り出した。

「小カペーについて、君が昨日言った事を考えたんだがな、フロランス君。君の提案には立腹したが。しかし君の助言は優れたものだったよ、とはいえ、あくまで実行可能なものならばという話だが」

「何か問題でも?」

「幾つか。まずはシモン、あの少年の世話係だ」

「何も難しい事はないですよ。シモンを任命したのは貴方なんだから。解雇するのも簡単なはずでしょ」

「だがその後は?代わりの人間を指名せにゃならん」

「確かにね。でも貴方はシモンの出発と彼の後継者の到着の間に、わずかな空白の時間を作り出す事ができますよ。その瞬間に交換する」

「おお、それだ。交換。二番目の問題はそれだよ」

「最初のに比べれば、ずっと簡単な問題ですけどね」ラサールはカンバスから離れて代理官の前までやって来た。「この際なので、打ち明けてしまいます。俺は昨日、八歳の子供の替え玉を用意するのは簡単な仕事だって言いましたが、それはつい先週、絵のモデルを探している時に、小カペーの替え玉として使えそうな同じ年頃の子供を見つけたからなんです。本物を良く知らない人間なら簡単に騙されるような。同じように色白でふっくらした顔、同じような藁色の髪と青い目の」

「そうか」と、強烈な皮肉を込めてショーメットは言った。「だが、そいつが一言、口を利けば…」

「その子は聾唖者です」ラサールはそう言い、驚いたショーメットは厳しく懐疑的な目つきになった。

 彼はひと呼吸置いてから、先を続けた。「実の処、その少年に気づいたのは、そのせいでした。その子は哀れみを請う為に――父親役の片腕の乞食が指図したんでしょうが――首から下げた板に自分の障害を書いて示していました。ああいう子供は買い取るか、それとも二百か三百リーヴルも払えば、無期限で雇う事ができます。あの子がカペーと瓜二つだとか、物凄く良く似ているなんて言うつもりはありせん。でも、色白で、ふくよかで、黄色い髪をした同じ年頃の少年、大雑把な特徴は同じですよ」

「小カペーの特徴には、幾つか特殊なものが含まれている」ショーメットは激しい調子で言った。「奇妙な種痘跡、片方の腿にある――糞忌々しい聖霊サン=テスプリみたいな――鳩の形に見える静脈、それから変形した右耳は、左の耳たぶの倍の大きさだ」

「でも、新しい世話係と勤務中の委員たちは、それを全部知らされる必要はないし、その子供は坊主頭に裸のまま歩き回る訳じゃない」

 ショーメットは背を丸めて椅子に座ったまま、顎に片手を置き、額に皺を寄せて考え込んでいた。昨夜の彼が夜明けまで人知れず懊悩して過ごした障害は、一気に消え去った。だが、それでも尚、彼は前進をためらった。

「その乞食の子だが、君は連れて来れるか」

「二百か三百フランの用意さえあれば、できるはずですよ。貴方がやると決めたというのなら、俺も手を尽くしますが」

「そう簡単には決められんよ。よくよく考えなきゃならん問題は多い。糞みたいに山ほどあるんだ」

「その間に、例の少年を確保しておきましょうか?」

 ショーメットは怯えているように見えた。「念の為にというなら、そうするといい。うん。別にそれで害がある訳でもないしな。諸事検討するのは、君がその子供を確実に押さえてからでいい」

「任せてください、アナクサゴラス」そう請合うとラサールは精力的に肖像画の方に専念したので、彼はその日の内にそれを仕上げてしまった。本来の目的を達成した以上、もうここに長居する必要はなくなった。既にショーメットは喉の奥まで餌を飲み込んでいた。計画の最初の、そして最も困難な段階は過ぎたのであった。



訳註

【註1】:フリードリヒ・ヨシアス・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト(1737年12月26日 - 1815年2月26日)
オーストリア帝国の軍人。第一次対仏大同盟軍にオーストリア領ネーデルラント陸軍司令官として参加。

【註2】:ウィリアム・ピット(1759年5月28日 - 1806年1月23日)
英国首相(在任1783年 - 1801年、1804年 - 1806年)。在任中にフランス革命が勃発、フランス共和国に対し強硬路線を採りヨーロッパ諸国に呼びかけて対仏大同盟を組織した。

【註3】:フランス革命初期には多くの女性が出版物や集会によって政治運動に参加したが、やがてジャコバン・クラブと対立、女性活動家の多くが反革命容疑により弾圧された。ショーメットは1793年11月に執行されたオランプ・ド・グージュとロラン夫人の処刑を歓迎する見解をパリ市民に向けて公表している。

【註4】:本章の前年に逝去した神聖ローマ皇帝レオポルトⅡ世はフランス王妃マリー=アントワネットの兄。

【註5】:ポール・バラス(1755年6月30日 - 1829年1月29日)
バラス子爵ポール・フランソワ・ジャン・ニコラ。没落貴族出身だが革命勃発後はジャコバン派を支持、国民公会議員としてルイ十六世処刑に賛成票を投じた。本章の時期は派遣議員の立場を利用して汚職と公金横領で私腹を肥やし、ロベスピエールとの対立を深めつつある。

【註6】:この時代のババロアーズ(ババロア)は生クリーム入りの暖かい飲み物。

【註7】:ブランデーに杏仁などで風味をつけたリキュール。

【註8】:富豪の邸宅が集まっているパリの街区。

【註9】:キリスト教信仰の篤いフランス西部では、ヴァンデ地方を中心に革命政府に対する反乱が起き、外国の援助を受けた王党派が抵抗を続けていた。

【註10】:画家が細部を描く際に絵筆を持った手を支える短い棒

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