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ペルージャの逃亡者~『ボルジアの紋章』より

 フィレンツェ共和国の書記局長はミーサ川に渡された橋の向こうへと騾馬を追い立て、シニガッリアの町の入り口で手綱を引いて止まると其処から目を凝らした。彼の右手、西の方角では遠く霞むアペニン山脈の稜線へと太陽が沈みゆき、天上から投げかけられた燃えるような輝きが都市から吹き上がる炎と混じり合っていた。

 書記局長はためらった。彼の本来の性質は、学問と思索の徒となった事でもわかるように穏やかで内気に近いものであり、自分自身に関しては彼の理論の無情なまでの直截さとは著しく対照的なのであった。オリーブ色の知的な顔についている間隔の広い観察力に長けた両眼を慎重に動かして、彼は眼前の光景を見渡しつつ、はたして事態はチェーザレ・ボルジアにとってどのように運んだのであろうかと不安に思った。騒乱の声は彼の耳まで届き、燃え上がる炎を見て予期した暴力沙汰は現実のものであったのが証明された。既に彼に対して注意を向けていたいかめしい門兵は、そのぐずぐずとした態度を不審に思い、とうとう用件をあれこれと問いただした。彼が身分を明かすと門兵達は敬意を示し、門を通って公使の特権を享受するようにと申し渡した。

 そう言われて彼はためらいを捨て、騾馬を急かせて積雪でぬかるんだ出入り口を通ってボルゴ(集落)に入り、多少の落ち着きを取り戻すと、打ち捨てられた市場を過ぎて城へと向かった。

 喧騒は全て町の東の区域から聞こえて来るようであったが、彼の知る限りでは――なにぶん、このフィレンツェ人はおそろしく博識な紳士なので――その辺りはヴェネチアの商人と裕福なユダヤ人が居住する地区のはずであった。それゆえ彼は論理的に――彼は常に論理的なのである――推理を展開した。大局は既に決し、あの騒ぎは兵士達の略奪によるものであろう。そしてヴァレンティーノ公爵の家臣達には略奪行為が厳しく禁じられているのを知っていた為、公爵の指揮による全ての権謀術策は通用せず、既にボルジア軍は反逆したコンドッティエーリ(傭兵達)と遭遇し敗北した、というのが彼にとって唯一の論理的結論に思われた。にもかかわらず、彼の知性と人間というものについての知見により、たとえ如何に多くの事実が受容を迫ったとしても、マキャヴェッリにはそのような結論を受け入れるのはためらわれた。反逆者達と和睦を結び、諸条件について話し合う事を名目としたシニガッリア来訪は、チェーザレ・ボルジアの何らかの企みであろうと彼は推測していた。彼は公爵が裏切りに備えていた事を知っていた――常に彼は罠にかかったふりをするだけで、そのバネ仕掛けを操作する者は彼自身であるように図っていた。にもかかわらず、その仕掛けが彼の頭上で閉じたなどとは、書記局長には到底信じられなかった。たとえ公爵により禁じられているはずの略奪が現実に行われていようとも。

 驚愕しつつも、マキャヴェッリは城に向けて急勾配の道を上り進み続けた。間もなく彼の前進は阻まれた。狭い道は人でごったがえし、塞がれていた。大群衆が邸宅の前に押し寄せていた。そのバルコニー上に、彼は遠目にぼんやりとひとりの男の姿を認め、そして男の身振りから、書記局長はその男が群衆に向かい演説をしているのだと結論した。

 マキャヴェッリは群集と離れた処にいた百姓に鞍上から尋ねた。

「何が起きているのだ?」

「悪魔のみぞ知るでさぁ」問われた男が答えた。「公爵様がヴィテロッツォ様とそのお仲間達と一緒に二時間前にお館に入りましたんで。そしたら公爵様の傭兵隊長の一人――ダ・コレッラってお人だそうですが――が兵隊を連れてやって来て、で、その傭兵達がボルゴ(集落)に入ってフェルモの殿様の部隊がいる方に行ったらしいんでさ、で、フェルモの殿様も御館に入ってって、明日は正月だってぇのに。聖母様、新しい年がこんな物騒な始まりなんて、何てこった!奴等はこのボルゴを地獄に変えるまで、放火に略奪、暴れ放題、御館の方がどうなってるのかは悪魔のみぞ知るでさぁ。ジェズ・マリア(イエス様、マリア様)!くわばらくわばら。旦那、みんな言ってまさぁ……」

 物憂げで探るような目で見つめられて不安になり、男は唐突に口をつぐんだ。改めて質問者をまじまじと見た彼は、書記局長の衣装にふんだんにあしらわれた毛皮が黒貂である事に気づき、その賢しげな、頬骨の目立つ髭のない顔に対し直感的に不信を抱いて、これ以上調子に乗って噂を吹聴せぬ方が賢明であろうと思った。

「いや、でも」彼は突然話を打ち切った。「みんな色々言ってるようですが、アタシにゃよくわからないんでさ」

 男が不意に沈黙した理由を察し、マキャヴェッリの口は微笑でほんの少し横に広がった。彼はそれ以上の情報を求めなかった。実際、これ以上は聞く必要がなかった。コレッラ指揮下の公爵の部下達がオリヴェロット・ダ・フェルモの兵の方に向かって行ったというのなら、既に彼の予想通りの結果になっているはずであり、裏切りには裏切りをもって対抗するチェーザレ・ボルジアは反乱を起こしたコンドッティエーリ(傭兵達)を打ちのめしているだろう。

 突然に巻き起こった人波がフィレンツェの雄弁家とその百姓を引き離した。群衆のどよめきが高まった。

「ドゥーカ!ドゥーカ!(公爵様!公爵様!)」

 鐙(あぶみ)に立ち上がり、マキャヴェッリが遠目で館の前に見たのは、武具の輝きとボルジア家の雄牛の紋章が描かれた小旗のはためきであった。槍は二列縦隊で群衆をかき分けながら進み、書記局長の歩みを阻んだ地点に向かって敏速に街路を進んできた。

 快速船のへさきの前の水のように群衆は慌てふためき右往左往した。人々は互いにぶつかり合い、悪態をつきながら押しあい、一瞬、荒々しい叫び声と沸騰する怒りが場に満ちた。だがしかし、それを上回る歓呼の叫びが上がった。

「ドゥーカ!ドゥーカ!(公爵様!公爵様!)」

 金属音を響かせて輝く騎手達がやって来た。そして彼等の先頭には、力強い青毛の軍馬に跨り全身に鋼をまとった華麗な姿があった。目庇(まびさし)は開かれており、その中にある若く白い顔は揺るぎなく厳しいものだった。美しいハシバミ色の目は真っ直ぐに前を見つめ、彼に向けられた雷のような歓呼の声を一顧だにしていなかった。しかしその目は何も見ないようでいて全てを見ていた。彼の視線がフィレンツェの雄弁家の姿をとらえると、その目は突然、燃え上がるように輝いた。

 マキャヴェッリは脱帽し、かの覇者に敬意を表する為に騾馬の背すれすれまで己の頭を下げお辞儀をした。白く若い顔が浮かべた微笑は概ねが意識的な自尊であった。何故なら公爵にとって、このような瞬間をフィレンツェの目とも言うべき人物が目撃しているというのは歓迎すべき事であったのだから。彼は公使の前で手綱を引いた。

「オラ、セル・ニッコロ!(やぁ、ニッコロ殿!)」彼は呼びかけた。

 槍兵達が群集を下がらせ速やかに道を開くと、マキャヴェッリは召きに応じて騾馬を前に進めた。

「やったぞ」公爵は告げた。「私は心に期した以上を果たした。我が決意が何であったかを教えて進ぜよう。私は己の好機を作り出し、そして自ら作り出した好機を利用した――ヴィッテリ、オリヴェロット、グラヴィーナ、ジャンジョルダーノの賊どもを一網打尽にしたのだ。他のオルシーニ一族、ジャンパオロ・バリオーニとペトルッチも後に続くであろう。私の投げる網は広いぞ、最後の一人に至るまで裏切りの代償を支払わせずに置くものか」

 彼は言葉を切ると相手の発言を待った。それはマキャヴェッリ自身の意見ではなく、このような報にフィレンツェ政府が如何なる反応を示すかを知る為であった。だが書記局長は賢明な自重を保った。彼は不用意な発言は一切しなかった。その表情からは何ひとつ読み取る事はできなかった。彼は声明を受け入れるのみで意見を述べる立場にない者として、無言で一礼した。

 彼を見つめる美しい両目の間で、わずかに眉がひそめられた。

「フィレンツェの書記局長よ、貴国政府もさぞ喜んでくれるであろうな」彼は半ば挑発的にそう言った。

「共和国も知る処となるでしょう、閣下」それが雄弁家のそつのない答えであった。「そして私が閣下に共和国よりの祝辞をお伝えする誉を得る日を心待ちにしております」

「多くを成したが」公爵は再び口を開いた。「成すべき事は未だ多く残っている。そして私にそれを語るのは誰あろう?」彼は助言を求めるような目でマキャヴェッリを見た。

「私にお尋ねでしょうか?」

「そうだ」公爵が言った。

「論をお求めでございますか?」

 公爵は正面から見据え、それから破顔した。「論をだ」彼は言った。「そなたが私に実践をまかせているものだ」

 マキャヴェッリの目が細まった。「私が論について話す時は」と彼は前置きした。「それは私自身の個人的な意見であって――フィレンツェの書記局長としての公的な発言ではありません」そして彼はいま少し近くへと顔を寄せて「君主が敵を持つ場合」と静かに語り始めた。「彼は二つの方法のうちのいずれかによって彼等と相対さねばなりません。すなわち、彼等を友人にするか、あるいは敵対する者を上回る力を持つか」

 公爵はわずかに微笑んだ。「そなたは何処でそれを学んだのだ?」彼は尋ねた。

「私は感嘆と共に閣下の偉業を拝見して参りました」フィレンツェ人が答えた。

「そしてそなたは、私の未来を律する為に格言の中に私の行動を鋳込んだのか?」

「それに留まりません、閣下。未来の全ての君主を律する為に」

 公爵は黒い両眼と目立つ頬骨のある、血色の悪い知的な顔を正面から見た。

「時折、そなたがどちらであるのか迷う事がある――廷臣か、それとも哲学者か」彼は言った。「だが、そなたの助言は正鵠を射ている――彼等を私の友とするか、あるいは彼等を上回る力を持って敵となし続けるか。私には彼等を再び友として信頼する事はできなかった。そなたも理解するであろうが。それゆえに…」彼は不意に言葉を切った。「だが、この話の続きは後でしよう、私が戻った時にな。コレッラの兵が暴走している。彼等は放火とボルゴ(集落)の略奪に走った。兵達を鎮める為に行かねばならぬ、さもなくば、ヴェネチアは略奪による商人達の損失を取り戻す事を武力行使の名目にするであろうからな。そなたは城塞で寛ぐがいい。其処で私を待て」

 槍で指し示し、公爵はくるりと向きを変えると己の務めを果たす為に馬の歩調を速め、他方、衆目の中で公爵の知己として遇されたマキャヴェッリは群集が彼の為に開いた道を易々と通り反対方向へと立ち去った。フィレンツェ人は指示された通りに城塞へと向かい、そして其処からフィレンツェ共和国に宛てて一連の事件について報告した有名な手紙をしたためた。彼はチェーザレ・ボルジアが己の信頼を裏切った者達に対し、一気にその立場を逆転させる為に採った策を報告し、チェーザレの絶妙な手腕によって如何にしてオルシーニ家の三名と、ヴィテロッツォ・ヴィッテリ、オリヴェロット・ダ・フェルモが捕縛されたかを語り、そして最後にこのような一文で結んだ。『私は彼等のうちに、朝まで命長らえる者がいるであろうかと、大いに疑います。』

 程なくして彼は、己の全洞察力をもってしてもチェーザレ・ボルジアの権謀術策の真の深みを測り損ねていた事を悟るのである。明敏なる一観察者としての認識は、オルシーニ達を即座に絞殺すればローマの隅々まで驚愕と警戒心を広める結果となり、危機を感じた有力枢機卿のジョヴァンニ・オルシーニ、その弟ジュリオ、そして(この稿で特に関心の対象とされる人物である)甥のマッテーオは逃亡し、更には共謀し報復する事によって我が身の安全を図らんとするであろう、というものであった。

 マキャヴェッリの誤った未来予測においてチェーザレが直面せざるを得ぬとされた事態の想定は、実際の公爵が政治的手腕においてどれほどこのフィレンツェ人を上回っていたかを物語るもう一つの証左といえるだろう。

 フェルモとカステッロの僭主はマキャヴェッリの予測通りに扱われた。彼等は形式的な裁判にかけられ、君主に対する反逆によって有罪と裁決されて、その夜のうちにシニガッリアの公邸で締殺され――背中合わせに、同じロープで行われたといわれている――その後、彼等の遺体は儀式に従いミゼリコルディア病院[註1]に運ばれた。しかし両オルシーニはこの時点では、未だ反乱の同盟者達と運命を共にしてはいなかった。彼等は更に十日間の命を与えられたのである。チェーザレがオルシーニ枢機卿と残りのオルシーニ一族が無事捕縛されたというローマからの報せを受けるまでは。そしてアッシジ――その時までに公爵が兵を進めていた地――において、直ちにグラヴィーナ公フランチェスコとパオロ・オルシーニは処刑人の許に送られた。

 その夜、シニガッリアでマキャヴェッリに語った通りに、公爵の網は広く投げかけられた。それでも尚、四名の者がその網を逃れていた。ジャンパオロ・バリオーニは病を理由にシニガッリアで公爵を待ち伏せするのを拒否したが、その病は同盟者達の致命的な現状に比べれば重篤とはほど遠い事が証明された。シエーナの僭主パンドルフォ・ペトルッチ――反逆者同盟の中で公爵の意図を疑うだけの知性を備えていた唯一の人物――は徹底的に守備を固めて自都市の城壁内に避難し、次なる事態に備えていた。ファビオ・オルシーニはペトルッチの後に従った。そしてマッテーオ・オルシーニ、ファビオの従弟にして枢機卿の甥である彼は既に行方をくらまし、誰もその所在を知らなかった。

 公爵は所在が知れている三人に狙いを定めて狩り出した。マッテーオは優先度が低く、後回しにされた。

「だが私は神にかけて誓う」チェーザレは、丸顔のアガビト不在時に代理秘書を務めるフランチェスコ会修道士のフラ・セラフィーノに言った――「必ずや、イタリア中の全ての巣穴を徹底的に探り、何処までも追い詰めきゃつを狩り出してくれると」

 これは彼が反逆者のグラヴィーナ公フランチェスコ・オルシーニとオルシーニ一族の庶子パオロの絞殺を命じたその日、アッシジでの出来事であった。その同じ夜、密偵の一人が携えてきた情報は、マッテーオ・オルシーニがピエーヴェに潜伏し、遠い血族であるアルメリコの城にいるというものであった。このアルメリコとは、オルシーニ一族とはいえ公爵の注意を引くにはあまりにも高齢の隠居状態にあり、学究の徒として大量の書物と一人娘と共に隠遁に近い生活を送り、野心とは無縁の、目下イタリアを苛み続けている全ての争いと流血に乱されぬ平穏のみを求める人物であった。

 公爵が滞在しているロッカ・マッジョーレ、狭間胸壁を備えた灰色の大城塞は、都市を見下ろす急勾配な丘の頂きに建ち、そのごつごつとして傷だらけの断崖上からウンブリア平野を睥睨していた。その敷物もなく寒々しい、広い石造りの間(ま)に、彼は使者を迎え入れた。奥行きの深い大きな暖炉で焚かれている激しい炎は、がらんとした部屋の空間に橙色の光を放射し、頭上の円形天井まで届いた光は穹稜(きゅうりょう)の形を浮かび上がらせていた。それでも尚、使者が己の発見について報告する間、物思わしげに行きつ戻りつゆっくりと歩く公爵は、防寒の為に山猫の毛皮で縁取られた緋色のマントをきっちりと着込んでいだ。窓の近くで樫材の文机を前にして座り、羽根ペンの先端を切り整えているフラ・セラフィーノは、一見作業に集中しているようであったが、其処で話されている事を一言も聞き落とさぬようにしていた。

 その使者は知的かつ勤勉であった。マッテーオ・オルシーニがピエーヴェにいるという情報を掴んだだけで済ませずに、噂話の断片を求めてボルゴ(集落)を探索し、公爵が今まさに――間接的な表現で――尋ねた質問を自分の頭であらかじめ予測して、その問いに即答できるような裏付けを用意していた。

「『そしてこれは、ほんの噂ですが』」チェーザレは冷笑した。「『消息筋によれば、マッテーオ・オルシーニはピエーヴェにいるといわれております』。私は『消息筋』とやらとその眷族の死を呪うぞ。『消息筋』とやらの申す事がまことであった例(ためし)がない」

「しかしこの話は、恐らくは信憑性が高く思われます」使者は言った。

 公爵は歩みを止めた。彼は炎を上げる薪の前に立ち、心地よい暖かさに片手を差し出した――その繊細な手、ほっそりとした長く形良い指が、蹄鉄をへし折る事が出来るほどの強さを持つとは到底信じられないだろう。そのような彼の立ち姿は、飛びはぜる火の粉を緋色の外套の上に踊らせて、彼自身が炎と化したかのように見えた。黄褐色の頭を振り返らせた時、彼の美しい目には夢想するような色は既になく、使者に対してしっかりと焦点が定められていた。

「信憑性?」彼は言った。「根拠を示してみよ」

 使者は答えを用意していた。

「アルメリコ伯爵には御息女があります」彼は即答した。「この婦人――マドンナ・フルヴィアと呼ばれておいでですが――とマッテーオ殿が許婚の間柄であるというのは、ピエーヴェではよく知られた話です。彼等は婚姻を禁じられるほど近い血縁ではありません。老齢の伯爵もマッテーオ殿を目にかけ、息子のように愛しておられます。そしてマッテーオ殿にとって、このように彼を愛する人々と共にあるよりも更に安全な場所が、このイタリアのいずこにありましょうか?そしてまたピエーヴェは遠く、その領主は世俗の騒乱を忌避する学者であります。それゆえにピエーヴェはマッテーオ殿が庇護を頼んで走るであろう最も可能性の高い地であり、彼を探すべき究極の場所であります。かような事実によって彼が潜伏するという噂は信憑性を増しております」

 公爵はしばし無言で使者を見つめ、彼の述べた事柄を吟味した。

「そなたの推論は理にかなっている」公爵は熟慮の末に認容し、使者は過分の称賛に恐縮して二重にお辞儀をした。「下がってよいぞ。そしてダ・コレッラに私の許に参るよう伝えよ」

 男は再び一礼すると静かに扉へと向かい、姿を消した。重いカーテンが揺れる窓までチェーザレはゆっくりと歩き、そして一月の午後の冷たい光の中で、はるかに広がる荒涼とした風景を見つめた。遠い青灰色のアペニン山脈の上には垂れ込めた雲の切れ目から金色の空がのぞいていた。曲がりくねったチアジ川が、単調な緑の平野の上に銀色のリボンのように横たわるテベレ川へと注いでいた。チェーザレはしばし眼前を凝視していたが、それらは彼の目に入ってはいなかった。それから不意に彼は、つい今しがた切り整えたばかりの羽根ペンの調子を試していたフラ・セラフィーノの方を向いた。

「あやつを捕らえる為には何が必要であろう?」彼は尋ねた。

 それは他者に意見を求める際の彼のやり方であったが、彼自身の考えを超える意見を具申した者は未だいなかった。そして他者の助言が自分の見解と調和せぬ場合、彼は自身の考えに従って行動した。

 骨ばった顔の修道士は突然の問いに驚いて顔を上げた。公爵のやり方を知り、そしてコレッラが既に呼ばれている事を知っているフラ・セラフィーノは2と2を足して、その合計を公爵に回答した。

「十本の槍を送り、ピエーヴェからあの者を連行するべきでしょう」彼は答えた。

「十本の槍――五十名の兵か……ふむ!そしてもしピエーヴェがその跳ね橋を上げ、抵抗するなら?」

「更に二十本の槍と大砲を」セラフィーノが言った。

 公爵は彼を見つめてかすかに笑った。

「お前はピエーヴェについて何も知らず、男達についても知る事が少ないと証明したな、フラ・セラフィーノ。果たしてお前は女達について何を知っているだろう?」

「ああ主よ、御勘弁を!」完全に憤慨して修道士は叫んだ。

「なるほど、お前はこの件については助言者として役に立たぬという訳だな」というのが公爵の結論であった。「お前が一時的に、我が身を女の立場に置き換えて考える事ができるかと期待したのだが」

「女の立場で考えるですと?」フラ・セラフィーノはそう問い返し、落ち窪んだ目を見開いた。

「どのような振る舞いの人間がお前を欺くに最も適しているであろうかを、私に示してほしかったのだ。よいか、ピエーヴェは兎の巣穴のように住宅が密集した地域だ。あそこには兵の一隊を隠す事すら容易であろうし、男一人ならば尚更だ。それに私はアルメリコ伯爵を警戒させて、あの地にかくまわれていると疑われる客人を巣穴に潜り込ませるつもりはない。この困難がわかるであろう?これを解決する為に、私は情が薄く良心に欠けた男を必要としているのだ。己の野心以外の何にも心を動かされず、己の栄達以外の何も気にかけない悪党。そして必須条件として、婦人が好感を覚えやすく、その信頼を獲得する可能性の高い外見の持ち主でなければならない。私は何処でこのような者を探せばよいのだろうか?」

 しかしフラ・セラフィーノは答えを持っていなかった。彼は驚きつつ、チェーザレが己の目的地まで掘り進もうとしている曲がりくねった地下道について考え込んでいた。そうするうちにコレッラが鎧をきしませながら音高く入室してきた。長靴をはき顎鬚を生やした、背が高く屈強で堅苦しい男、コンドッティエーロ(傭兵隊長)の典型的なタイプであった。

 公爵はコレッラを振り返り、そして無言のまま長々と見つめた。最終的に彼は首を振った。

「駄目だな」彼は言った。「お前では不適任だ。お前は見るからに軍人で、見るからに剣士であって、リュート弾きとはほど遠い。いっそ不器量とすら言ってもよい。お前が女であったらば、フラ・セラフィーノ、彼をむくつけき輩であると思うのではないか?」

「私は女ではありません。我が君……」

「見ればわかる」と公爵は否認した。

「それに、もし私が女であったとすれば、恐らく何も考えないでしょう、女が物を考えるなど信じられませんから」

「女嫌いめ」公爵は言った。

「主のお陰をもって」フラ・セラフィーノは敬虔に言葉を返した。

 公爵は傭兵隊長の評価に戻った。

「駄目だ」彼は再び言った。「成功の本質とは作業に適した道具を選ぶ事にある。そしてお前はこの為の道具ではない、ミケーレ。私は剣も振り回せればソネットをそらんじる事も得意とする、見目が良く、貪欲で、良心の欠けた悪党を必要としている。私は何処でその条件を満たす者を見つけるべきであろう?フェランテ・ダ・イゾラ[註2]は適任であっただろうが、しかし哀れなフェランテは彼の冗談の一環として死んでしまった」

「その任務とは何でありましょうか、我が君?」傭兵隊長は思い切って尋ねた。

「その任にかなった者を見つけ、送り出す際に、その男に話す。ラミレスはいるか?」彼は突然に問うた。

「彼はウルビーノにおります」コレッラが答えた。「しかしパンタレオーネ・デッリ・ウベルティが閣下のおっしゃる男に当てはまるように思われます」

 公爵は熟考した。「その者をこちらに寄越せ」彼が手短に言うとコレッラは姿勢を正して一礼し、その使いに向かった。

 チェーザレがゆっくりと炎の前に戻り、暖をとりながら待つうちに、パンタレオーネがやって来た――艶やかな黒髪と鋭く黒い目をした、長身で端正な顔立ちの男であり、その物腰や服装には軍人らしさと同時に、彼の若さには相応のいささか洒落者めいた風も感じられた。

 会見は短かった。「私が受け取った情報から」と、チェーザレが言った。「私はマッテーオ・オルシーニがピエーヴェで彼の伯父と共にいるという目に千ドゥカートを賭けるであろう。私は奴の首にその千ドゥカートを支払う。行け、そしてそれを得るがよい」

 パンタレオーネは呆気に取られた。彼は黒い目をぱちくりさせた。

「私はどのような部下を連れて行くべきでしょうか?」彼はどもりながら言った。

「お前が望む者達を。だが、この任務が力押しで果たせる性質のものではないと理解せよ。最初に武力を誇示すれば、マッテーオが其処にいたとしても土竜(もぐら)のように地下に隠れ、総出で探そうと発見は困難になるかもしれぬ。これは槍ではなく知力を必要とする任務だ。ピエーヴェにはマッテーオを愛する、あるいはマッテーオが愛する婦人がいる。……だがお前は自分自身で好機を見出し、そしてその好機を適切に使うのだ。コレッラはお前がこのような任務を達成する才覚を備えているものと考えている。私にそれを証明して見せよ、さすれば褒美をはずむであろう」彼は下がらせる為に手を振り、そしてパンタレオーネは心に浮かんだ百の質問をこらえて出発した。

 フラ・セラフィーノは物思いに耽りながら、羽根ペンで曲がった鼻を撫ぜた。

「私はあの者に婦人を託さないでしょう、そして婦人にもあの者を託しません」彼は独り言のように口にした。「彼は唇が厚過ぎる[註3]」

「それが」と、チェーザレが言った。「私があの者を選んだ理由だ」

「女の手中で彼は蝋のごとくになりましょう」修道士は続けた。

「私は千ドゥカートの金で彼を固めている」公爵は応じた。

 しかし修道士の悲観的な観測は全く減じなかった。「女の手管は金をも溶かし、液状と化す事もできましょう」彼は言った。

 公爵は一瞬彼を見た。「随分と女に詳しいな、フラ・セラフィーノ」彼は言い、その非難に秘書僧は震えあがって口を閉じた。



[註1]:13世紀フィレンツェで設立された慈善団体。最も重要な活動は疫病患者の病院への運搬と埋葬であり、目だけを出した黒い頭巾と長い修道着を制服とする。ペストの流行に伴い規模を拡大し、多くの都市に支部を持つようになる。

[註2]:フェランテ・ダ・イゾラとその死の顛末は、本書"The Banner of the Bull"に先立つサバチニの短編集"The Justice of the Duke(ボルジアの裁き Vol1)"に収録された短編"The Test(フェランテの試罪)"及び" Ferrante’s Jest(フェランテの悪戯)"に描かれている 。

[註3]:人相学において厚い唇は、好色、強欲、口舌の徒等を表す。


 パンタレオーネ・デッリ・ウベルティはペルージャ山麓の丘に吹き荒れた大雪に乗じてピエーヴェに到着したが、彼の到着は単独でのものだった。その小さな町から2リーグ手前で、彼がアッシジから伴ってきた十人のならず者達とは既に別れていた。パンタレオーネはその者等には二、三人に分かれてピエーヴェまで彼の後を追うように、そして各々の組が別の宿に泊まり、互いに面識のないふりをするように指示を与えた。彼は必要とあらばすぐさま彼等を召集できるように合図を取り決め、オステリア・デル・トロに宿を取った三人組は少なくとも一人を宿に待機させて、如何なる時でもパンタレオーネと連絡を取れるよう手配した。

 パンタレオーネとは、御覧の通り、実に周到な男であった。

 更に彼は部下達に実際の身分を隠すよう命じ、自身もまた部下達に課した通りの作戦を採って、数時間後には徒歩で、ぐしょ濡れになり、疲労の極致で足を痛めたかのような様で跳ね橋を渡り、要塞の中庭にふらふらと歩み入った。従僕に入城を許された彼は、アルメリコ・オルシーニ伯爵の御前によろめき出ると、死に瀕した者が聖なる庇護を求める祈りのごとく、息も絶え絶えに告げたのであった。

「私は追われております、御城主」と彼は虚言を吐いた。「血に飢えた暴君ヴァレンティーノが、このちっぽけな命を彼のヘカトンベ(百頭の生贄の雄牛)の一つに加える事を求めているのです」

 ピエーヴェの老領主の白い手は、彼の座す大きな椅子の彫刻がほどこされた黒檀の肘掛を鉤爪のように掴んだ。毛足の長い眉の下から、彼の刺すような黒い両眼はこの訪問者を凝視していた。彼はパンタレオーネの言及したヘカトンベ(百頭の生贄の雄牛)が何を意味するのかよくわかっていた。問いただす必要はなかった。学問に没頭し、身も心も俗世の煩いから距離を置いているとはいえ、彼がオルシーニ一族である事に変わりはなく、オルシーニに連なる者の血が流されている事態に気づかず無関心でいられるほどには超然としてはいなかった。それゆえに、其処に騒乱の現場からやって来たらしき男が現れれば、ピエーヴェ領主と密接に関わる事件についての情報をもたらす者として歓迎されるはずなのであった。

 いわんやアルメリコ・オルシーニ翁の、この時代――生命の値は安く、そして他者の不幸が顧(かえり)みられるのは稀な時代――にあっては異常とすらいえる個性からすれば尚更の事、伯爵が何より先に気に掛けるのは、この見知らぬ人物の状態のはずであった。痛ましいまでにずぶ濡れになり、蒼白でやつれ、真っ直ぐに立っていられぬほど、酔漢のようにふらついて息も乱れている男――つまりは、見るからに心身の限界に達している男――を見たアルメリコ伯爵は、その男に入城の許可を与えた従僕に素早く合図した。従僕が即座にイグサ張りの椅子を前に押し出すと、パンタレオーネは弱々しく礼を述べて座り込み、びしょ濡れの帽子を大理石の床上に落として、大きな赤い外套を緩め、その下に身に着けた武人の皮製防具をあらわにした。

 彼は感謝を表すようにかすかに微笑を浮かべてアルメリコ伯爵を見ると、次に疲れ切ったように見せかけ重たげに伏せた瞼の下から、その不敵な目を父親の椅子の横に立つ貴婦人に向けた。彼女はまだほんの小娘に過ぎず、柳のように華奢な乙女らしい身体を包むドレスは葡萄酒色のごく簡素なものであり、襟ぐりは若く白い胸元で四角くカットされ、細い胴に緑柱石を一粒飾った留め金で銀の帯を締めたのみという装いであった。彼女の漆黒の髪は金色の紐で編まれたネットで後ろにまとめられていた。その両目、ほとんど黒に近い深青色の瞳は青白い顔から悲しげに彼を見つめていた。

 かようにしてパンタレオーネは初めて彼女を眺めたのだが、彼の好みは豊満で婀娜(あだ)な類の女であった為に、その視線はあっさりと、もう一人の不在の人物を探して高雅な室内を無遠慮につぶさに探る方に移った。

「何故、そなたは私の許に来たのであろうか?」アルメリコは計り難い簡潔さで彼に尋ねた。

「何故?」あたかも問いの奇異なる事に驚いたかのように、パンタレオーネは目をしばたたかせた。「何故ならば、貴方がオルシーニの御一族であるから、そして私の義はオルシーニに捧げられているからです」彼は次に自身の釈明を行なった。「亡きパオロ・オルシーニは我が友でありました」

「『亡き』ですって?」その性急な問いはマドンナ・フルヴィアから発せられた。

 パンタレオーネは深い溜息をつき、そして極度の落胆に陥ったかのように肩を落とした。「御存知なかったのですね。このような忌まわしい報は、とうに全イタリアに知れ渡っているかと思いましたが。パオロはアッシジで昨日絞殺され、そして彼と共にグラヴィーナ公も絞め殺されました」

 老人は鋭い叫び声を上げた。彼は震える腕で己を支え、椅子から半ば立ち上がった。そして、再び力が抜けたように座り込んだ。

「このような忌まわしい便りの担い手に選ばれるとは、神の呪いなのか」悪賢いパンタレオーネは猛々しく怒鳴った。

 しかしその凶報の衝撃による一時の虚脱から回復した老人は彼の涜神の言葉をとがめ、一方モナ・フルヴィアは深い悲しみにこわばったように立ち尽くしていたが、この逃亡者がその死を告げた者達については血族とはいえどちらも直接の面識はなく、結局の処、その悲しみはごく一般的なものであった。

「これが全てではありません」パンタレオーネはアルメリコ伯爵の叱責に対する自己弁護のように言葉を続けた。「ローマからの報によれば、枢機卿はサンタンジェロ城の地下牢に押し込められたとか。ジャンジョルダーノもサンタクローチェと共に捕らえられ、その際に一体どれだけの人数が連座したかはわかりません。ボルジアに慈悲の持ち合わせなどないのは周知の事。オルシーニ家を一つの石すら他の石の上に残らぬほど跡形もなく破壊し尽くすまで[註1]、教皇とその私生子は決して休みはしないでしょう」

「それならボルジアに休息の日は永遠に来ないわ」モナ・フルヴィアは誇らしげに言った。

「そう祈っております、マドンナ、私は心からそのように祈ります――私はパオロ・オルシーニの友人でしたが、不名誉な事に彼と共にあのボルジアの暴君に仕えておりました。その為――ヴァレンティーノ公爵は、私が彼に奉仕したのは私がオルシーニに仕えているがゆえであり、私がオルシーニの家中(かちゅう)であると承知していたので――私は今、お尋ね者にされ狩り立てられており、そして私が連行されればパオロとグラヴィーナ公が殺害されたように、そして聞く処によればマッテーオ・オルシーニが殺害されたように、私も殺されるでしょう」

 探りを入れる為の小細工を忍ばせたこの言説には、パンタレオーネという男の悪知恵の回りようが表れていた。これらを口にする際、彼は懸念と哀れみの表情を浮かべている父娘をしっかりと観察していた。彼は両者が抑え難い驚きにたじろぐのを見た。それから突然、隠しきれない熱意のこもった問いが少女から投げられた。

「皆がそのように申しているのですか?」声を高めて問う彼女の瞳は炎のように輝き、その胸は軽い興奮で上下していた。

「誰もがそう噂しております」悲しげにペテン師は言った。「私はそれが真実ではないように神と諸聖人に祈りますが」

「如何にも…」アルメリコは彼を安心させようとしてか重々しく話しだしたが、すぐに警戒心を起こして唐突に言葉を切った。俗気の欠けた正直な人柄とはいえ、それでも彼には立場と年齢相応の見聞もあり、そしてこの逃亡者は彼に信頼を置く気持ちを抱かせず、尋常でない警戒心を呼び起こしていた。心の告げる警報に従って、彼は言葉の調子と方向を変えた。「礼を申すぞ、そなたのその祈りに」

 だがパンタレオーネは自力で結論を導き出した。チェーザレ・ボルジアの疑いは正しく、マッテーオ・オルシーニがここピエーヴェに、あるいはこの周辺に潜伏しているのだと。彼は三段論法で推論した。その生存を確信していなければ、マッテーオ・オルシーニを愛している女がこのように冷静な態度で彼の凶報を受け止めるはずはない。ピエーヴェにあの男が滞在しているという事実より他に、このような時にこのような確信を与えるものはないはずだ。彼女はパンタレオーネがでっちあげたマッテーオ・オルシーニの死についての噂を熱心に受け入れていたが、それはお尋ね者とされた逃亡者が捜索される危険を減じる可能性に対する歓迎を示していた。

 落胆を装いつつも、パンタレオーネの不実な心は彼が必死に追いかけている痕跡の手ごたえに、そして間もなくマッテーオ・オルシーニと千ドゥカートが己のものになるであろう見込みに小躍りしていた。

 しかし今は城主からの御下問に答えなければならなかった。アルメリコの不信は彼について更に多くを知る事を要求した。

「そなたはアッシジから参ったのか?」彼は尋ねた。

「その地にあるヴァレンティーノ公の宿営地より」使者は答えた。

「そして彼等がパオロとグラヴィーナを絞め殺した時、そなたは堪え切れずに逃げ出したと?」

「そうではありません」パンタレオーネは罠の存在を察知した。機転を試されるゲームにおいては、彼はピエーヴェ領主のような隠遁の読書人が十人がかりで挑んでも勝てる相手ではなかった。「それは最前申し上げたように、昨日――チェーザレ・ボルジアが私のオルシーニに対する忠心の証拠を手にする前の事件でした。とはいえ、同様の献身と能力を提供していれば、私はあの暴君に仕えるコンドッティエーロ(傭兵隊長)のままでいたかもしれません。しかし私はシエーナのペトルッチに対するヴァレンティーノの計略についてたまたま知ってしまったのです。私はペトルッチに警告の手紙を送ろうと試みました。その手紙は途中で奪われ、私には処刑人の使いが連行しに来る前に馬で逃げ出すのがやっとでした。その馬はここから1リーグの地点で乗りつぶしました。当初はシエーナのペトルッチの許に向かうつもりでおりました。しかし馬を失い、絶え間ない捕縛の危険にさらされて、私は別の道を採ってこちらに避難所を求めるべきではないかと考えたのです。しかしながら、御城主」彼は肉体的な苦痛と苦悩の高まりを巧妙に見せつけて、次のように締めくくった。「私をかくまった為に、貴方にヴァレンティーノの執念深い報復の手が伸びる事を御懸念ならば、私は……」彼は暇乞いをするような素振りで外套を拾った。

「待て――しばし待つのだ」アルメリコはためらいつつ言った。そして彼はこの軍人を引き止める為に身を乗り出し手を伸べた。

「ヴァレンティーノが何だというの?」衝動的な怒りによってその瞳を炎に包まれたサファイアと化し、少女は叫んだ。「あのような男を誰が恐れるというの?元はといえば私達のせい、貴方が被っている災難は、私達の血族に連なる者への友情ゆえにとられた思い遣りある行いの結果なのですもの、私達が貴方を苦しめているのと同じだわ。ピエーヴェに屋根のある限り、貴方はその下で安心してお休みになるとよろしいわ」

 ドン・アルメリコは再び椅子に背を預け、彼女がその衝動的な熱弁を終えるとうめくように不満を鳴らした。娘はあまりにも性急だ、彼は思った。聖地を求めてやって来たこの男を追い払わねばならぬ決断で彼が心苦しさに沈んでいる間に、モナ・フルヴィアは巡礼者の宿について行き過ぎた挙に出た。

 彼は燃え上がる丸太に向けて白く透けたような片手を広げ、もう片方の手で考え込むように鬚のない顎を撫でた。それから彼は異邦人を真正面から見た。

「そなたの名は?」彼は素っ気なく尋ねた。

「私はパンタレオーネ・デッリ・ウベルティと呼ばれております」真実を嘘の一部として利用するのが安全なやり方であるという世知を身につけている山師は言った。

「誉ある名だ」老人は頷きながら独り言のようにつぶやいた。「うむ、うむ!御身の分別に訴えたいのだ、必要以上に長くはピエーヴェに滞在せぬようにとな。私は己の身は惜しまぬ」彼は自嘲するように肩をすくめて微笑んだが、それは尊ぶべき年輪を重ねた顔の中にわずかに消え残った若さの輝きのような、並はずれた魅力のある笑顔であった。「私は老いているのでな、残されたわずかな天寿など、ひとりの高潔な男の命に比べれば軽いものだ。しかし、この子の事は考えてやらねばならぬのだ、そなたがここで発見される危険を…」

 しかし彼女は衝動的に彼の言を遮り、若さゆえの大胆さと女らしい深い思い遣りで口をはさんだ。

「大きな危険を冒そうという時に、そのような些細な事を」彼女は叫び、パンタレオーネは全身を耳にした。

「主に誓って!そうではないのだ」父親は答えた。「我々は我々自身に余計な注意を引きつけるような事をすべきではない。そなたもわかるであろう……」

 再び呼び起こされた警戒心によって彼は突然言葉を止め、訪問者に対して鋭く目を光らせた。

 しかしパンタレオーネの顔は木偶人形のように無表情なまま、内心の満足を微塵も表わしてはいなかった。何故ならば、頭の回転の速い彼は難なくピエーヴェ領主の言い淀んだ言葉の続きを察し、それが既に確信していたマッテーオ・オルシーニの存在を裏付けるものであるのを悟っていたからである。

 不信の目で見られていると気づいた彼は、その瞬間を選んでふらふらと立ち上がった。彼は横によろめき、片手を額に当て、もう片方で支えを求めるように力なく手探りした。そして近くに置かれていた青銅製の机に衝突し、それを1ヤードかそこら大理石の床を滑らせると、支えを失った彼は派手に横転して床の上にぐったりと横たわった。

「ひどく、つかれて」彼はうめいた。

 その場にいた全員――アルメリコ、彼の娘、背後で控えていた従僕の三人――は、すぐさま彼に駆け寄った。そして彼女の父親が病人に手を貸す為に衰えた脚で跪く間、マドンナ・フルヴィアは呆然としている従僕にきびきびと命じた。

「マリオを連れて来なさい、早く」彼女は命じた。「葡萄酒と酢とナプキンを持って来るように言って。さあ!」

 パンタレオーネはだらりと垂れていた頭を持ち上げ、アルメリコの膝でそれを支えた。彼は虚ろな目を開くと、彼等に心配をかけてしまった事に対するとりとめのない詫びの言葉を口にした。彼の状態と相まって、このような時にまで自分達を気遣う態度に皆は深い感銘を受けた。丘上の雪が四月の太陽に解かされるように、これはオルシーニ翁の消え残っていた不信を解かした。この男の苦しみは切実かつ明白であった――彼の語った試練の他に、何がこのような苦しみを与える事ができるであろうか?

 やって来たマリオは――頑丈な短躯の男であり、土気色をした顔には天然痘の痕による酷い凸凹があり、まるで人間の顔つきをグロテスクに真似た醜い仮面としか思えなかった。彼は名目上はピエーヴェの城代であった。だが実際には何でも屋であり、彼のこなす雑務の中には医術とヒルを用いた瀉血(しゃけつ)治療と床屋も含まれていた。彼は頑固で実直、忠実にして、己を頼む心が強く、そして無学な男であった。

 彼は従僕、マドンナ・フルヴィアの侍女、小姓のラッファエレを従えてやって来た。彼等はフラスコとフラゴン(葡萄酒入れ)、ナプキンと銀のたらいを運び入れた。皆がパンタレオーネの周りに集まり、マリオは病人の横で片膝をつくと、重々しく威厳ある表情で脈をとった。

 この診察は、もはや立派な無言劇の一場であった。マリオがどのような脈の乱れを発見しようと、彼の処方は全て同じであろう。全く乱れがなかったとしても、やはり処方は同じなのである。

「極度の疲労ですな。フム!」彼が診断した。「少し瀉血すれば回復するでしょう。6オンスも抜けば楽になり、万事問題ない」彼は立ち上がった。「ヴィンセンツォ、手を貸せ、我々でこの男をベッドに連れて行こう。ラッファエレ、お前は我々の先を照らせ」

 マリオと従僕は二人がかりで我等が紳士をかつぎ上げた。小姓は背伸びをして金箔をきせた燭台の一本を手に取ると、先頭に立って歩いた。しんがりは侍女のビルジニアが務め、そしてかようにある種の厳粛な作法を用いて運ばれたパンタレオーネ・デッリ・ウベルティは、ピエーヴェ城内のベッドに納められたのであった。


[註1]:新約聖書マタイによる福音書 第24章より「汝ら此の一切の物を見ぬか。誠に汝らに告ぐ、此處に一つの石も崩されずしては石の上に遺らじ」ローマ軍がエルサレムを破壊し石造りの神殿が完全に崩される光景を予言したキリストの言葉。

 パンタレオーネは翌日、爽快な気分で目覚めた。自分の役割を演じる為に、マリオの診断に従い6オンスの血を抜かれたにしては悪くない体調であった。

 彼は部屋が一月の朝の青白い日光で満たされ、バーベナを漬け込んだ薬効酢のすがすがしい香りがほのかに漂っているのに気づいた。それを使っているのは小姓のラッファエレという、愛嬌のある生意気そうな顔に、キンポウゲ色のさらさらした髪の品のいい少年であった。

「人手が足りないので、僕が貴方のお世話を仰せつかりました」小姓が自己紹介をした。

 パンタレオーネはぴったりとした緑の上下を着たしなやかな姿をしげしげと見た。

「それで君は?」彼は不思議そうに訊いた。「蜥蜴かい?」

「回復なさってるようで安心しました」と少年が言った。「へらず口というのは、みんなが言うには、健康のしるしだそうですから」

「そして皆が君にそれを言うって事は、間違いなく君は必要以上に健康なんだろうな」意地の悪い微笑を浮かべてパンタレオーネはそう言った。

「ジェズ!(イエス様!)」少年は天を仰いだ。「殿様に貴方がすっかり回復なさったとお知らせしなくちゃ」

「待つんだ」パンタレオーネはある問題について尋ねる為に彼に言った。「君が私の世話をする為に送られたというなら、まずは食べる物をくれないか。私はある意味、これまであの教皇に仕えていたのだから、信心に欠けたキリスト教徒なんだろうが、レント(受難節)の断食をしろと言われても我慢できないし、他の節だったとしても無理だよ。向こうに湯気を立てている鉢があるだろう。それを本来の目的の為に使おうじゃないか」

 ラッファエレは澄んだスープの入った鉢を取り、それを小さな小麦パンと共に大皿に載せて運んできた。少年は水を満たした銀たらいとナプキンも取って来た。しかしパンタレオーネは邪険に手を振ってそれを下げさせた。彼は宮廷ではなく兵舎で育ち、度の過ぎた清潔好きの気取り屋とは気が合わなかった。

 彼は騒々しくスープを一口飲み、パンをちぎってがつがつと食べながら、慎重に小姓を見定めると、己の任務である情報収集に取りかかる事にした。

「人手が足りないので君が私の許に送られた」彼は考えつつ言った。「どうしてピエーヴェは人手不足なんだい?アルメリコ伯爵は力のある領主でいらっしゃるのだから、従僕に不自由してるのはおかしいじゃないか。人手は何処にとられているんだろう?」

 少年はベッドの上に腰掛けた。「どちらからいらしたのですか、パンタレオーネ殿は?」彼が尋ねた。

「私?私はペルージャからだ」コンドッティエーロ(傭兵隊長)は答えた。

「ペルージャでは、アルメリコ伯爵が何よりも平和を――平和と書物を愛する御方だとは知られていないのでしょうか?伯爵様の御関心は、イタリアの僭主達よりもセネカ[註1]にあるのです」

「誰に、だって?」パンタレオーネは尋ねた。

「セネカに」少年は繰り返した。

「誰だい、そいつは?」そう問うてパンタレオーネは目をしばたたかせた。

「哲学者ですよ」ラッファエレが言った。「我が君は全ての哲学者を愛しておられます」

「ならば彼は私の事も愛するだろうな」パンタレオーネはそう言うとスープの残りを飲んだ。「それで、さっきの質問の答えだが」

「それが答えですよ。人が我が君の御身分から想像するように、ここに一族郎党を集めて養ったりはしていらっしゃらない、と言いたかったのです。殿様の御用は四人の従僕だけで済ませているんです」

「なるほど」パンタレオーネが言った。「四人のうちの一人は私の世話に使っていただいたようだが」

「ああ、それなら、貴方をベッドに連れて行くのを手伝ったヴィンセンツォは殿様の御世話係です。ジャンノーネは馬屋番、そしてアンドレアはマドンナのお言いつけでボルゴ(集落)に行っています」

「それでは三人だ、君は四人いると言わなかったか」

「四人目はジオベルティです。でもジオベルティは消えてしまったんです。彼は一週間前に姿を消しました」

 パンタレオーネは見るともなく天井を見た。このジオベルティの消失とマッテーオ・オルシーニの消失とが同時に起こった事に関連性はあるのか、そして二人を結ぶ環が存在するのかどうかと思案しながら。

「首にされたって事かい?」彼はつぶやくように問うた。

「そうは思いません。それが謎なんです。その朝ここで大騒ぎがあって、それ以来、僕はジオベルティを見ていないんです。首になったんじゃありませんよ、だって僕は彼の部屋に行って、服が全部残っているのを確かめましたから。それに彼がピエーヴェを出て行ったとすれば、歩いて行った事になるんです、馬屋からいなくなった馬はいませんからね。それどころか正反対で――これは誰も答えてくれない、もう一つの謎なんですが――ジオベルティが消えた翌朝、僕はいつも六頭いるはすの馬屋に七頭の馬がいるのを見つけたんです。ジオベルティが出て行ったのかどうか確かめる為に、馬を数えに行ったんです。僕は魔法なんて信じませんから、ジオベルティが馬に変えられたなんて説明を信じるつもりはありません。僕がもっと馬鹿なら信じていたかもしれません――そんなに大がかりな変身の魔法はいらなかったでしょうからね。つまりこういう事ですよ。二本足の生き物が消えて、代わりに四本足の生き物が増えた。不思議な話でしょう」

 パンタレオーネの顔には、ピエーヴェで逃亡者の存在を間接的に物語る新たな情報の断片を聞いた興奮は一切表れていなかった。彼はもの憂げに少年に微笑んで、彼のお喋りを更にそそのかす為におだてにかかった。

「神かけて」彼は少年を認めて見せた。「君はほんの子供だけど、大人並みに知恵が回るね。まったく、私の知っている大概の男より頭がいいよ。きっと出世するぞ」

 少年はベッドの上で緑の脚をくつろがせ、嬉しそうに微笑んだ。

「君は目ざといよ」パンタレオーネはけしかけた。

「ちょっとはね」と、少年が同意した。「実はもっとあるんです。たとえば、マリオの奥さんも姿を消してるんです。マリオは城代で――昨夜、貴方をベッドに運んで血を抜いた痘痕面(あばたづら)の人です。マリオの奥さんは台所をまかされていたんですが、ジオベルティと一緒に消え失せてしまいました。僕は今、この事で頭を悩ませているんです」

「君がもう少し大人だったら、それほど不思議には思わないかもしれないな」パンタレオーネは自分自身でも信じていない憶測を、単に少年を刺激する為だけにほのめかした。

 ラッファエレは振り返ると、小馬鹿にしたように軍人を見た。

「貴方は僕の事を大概の男より知恵が回るとおっしゃいましたが」彼はパンタレオーネに含みのある指摘をした。「男なら、もちろん、ここでうっかりと下世話な結論に飛びつくでしょう。よろしいですかな、閣下!僕は少年で、フレスコ画の無邪気な幼子ではありません。でも貴方もコロンバ――マリオの奥さん――を見れば、ジオベルティが相手であれ他のどんな男が相手であれ、彼女の貞節が絶対のものだってわかるはずですよ。貴方もマリオの素敵な御面相を見たでしょう、悪魔が真っ赤に焼けた馬蹄を付けた脚で踏み荒らしたみたいな。奥さんの方はもっと酷い有様なんです、マリオが天然痘にかかった時、彼女もうつされましたからね、病気が治った後も天然痘の痕は夫婦仲よく分かち合っている訳ですよ」

「おませなお猿さんだ」パンタレオーネが言った。「君の演説は哀れな軍人の耳には破廉恥過ぎる。君が私の息子だったら折檻棒を持ってくる処だ」彼は少年の頭の上に被さるように寝具を投げつけると、自分で服を着る為に立ち上がった。ラッファエレから得られる情報は既に全て聞き出した。

「全てが謎で、僕にしてみれば興味津々なんですよ」臆しもせずに小姓は他愛ないおしゃべりを続けた。「貴方にはこの謎がを解けますか、パンタレオーネ殿?」

「そうするつもりさ」タイツと苦闘しながらパンタレオーネは言ったが、しかしラッファエレの早熟をもってしても、その答えの冷酷さには気づけなかった。

 さて、御覧の通り、我等の冒険家はかようにして相当の確実性があるように思える幾つかの事実を入手した。従僕のジオベルティ、そしてコロンバという女の行方不明は、厩舎での馬の増加と同時に起きており、それは恐らくマッテーオ・オルシーニのピエーヴェへの到着により、彼の世話がその二人の使用人にゆだねられた事を示していた。何故なら、仮に現在、マッテーオ・オルシーニが城内にいるとすれば、そのような人手を割く必要はないであろうし、其処から更に以下のような推論が導き出されるはずであった。彼は既に――疑いなく、より厳重に秘密を保つ為に――他の場所に、恐らく(馬の存在がその根拠となるが)要塞の構内の何処かに滞在していると。

 パンタレオーネはここまでを確信しており、既に自分の仕事の半分をやり遂げたものと考えた。次にすべきは、その場所がロッカ(城塞)の外の、どの辺りかを確認する事であった。

 彼は自分ひとりで衣服を着た。それは小姓が台所から運んできたものであり、入念に乾かされていた。裸足なので必然的にブーツをまたはかねばならず、陽気が冷え込んでおり、これから戸外で活動する為に、彼はアンズ色のダブレット(上着)の上に、更に革の鎧下をしっかりと着込んだ。最後に彼は鋼の帯に長剣を吊るし、右の腰には大振りのダガーを差して階下に降りていったが、この不遜な物腰で闊歩する見目よい騎士が、昨夜ピエーヴェの領主に保護を懇願した、ぐしょ濡れで衰弱しきった逃亡者と同一人物であるとは誰にも認識できなかっただろう。

 小生意気なラッファエレは、アルメリコ伯とマドンナ・フルヴィアの御前に彼を案内した。二人は心から彼を歓迎し、彼の明らかな回復ぶりに偽りない喜びを表した。全てのためらいと不信は老人の態度から拭い去られたように思われ、其処からパンタレオーネは、既にピエーヴェの領主はマッテーオと相談し、パンタレオーネの証言は――事実上、誰にも否定できないはずなのだから――恐らく真実であり、そして自ら語った通りにパンタレオーネはこれまでパオロ・オルシーニに好意的であったという裏付けを得たのではと推論した。これによって彼はマッテーオの存在についての確信を益々深めた。

 任務に専念する為に、彼は新鮮な空気を吸いたいと言ってそのまま外に出ようとした。しかし其処で土気色の顔をしたマリオが医者としての威信を振りかざして尊大に口をはさんだ。

「何ですと?外に出るですと――あんたの容態で?気違い沙汰だ。昨夜あんたは熱を出して血を抜かれたんですぞ。休んで回復に専念せんと、命の保証はしませんぞ」

 パンタレオーネは笑った――彼は呵々大笑したが、それは彼が他者と共に笑うのではなく他者を笑いものにする際に容易に引き起こされる類の笑いであった。彼は自分が衰弱していて凍えるような外気に傷つけられるだろうという懸念を笑い飛ばした。太陽が輝いているではないか?彼はすっかり本来の自分を取り戻したではないか?

 しかしマリオの反対は微塵も揺るがず、それどころか更に頑強になった。

「あんたがすっかり回復したように感じるのは私のほどこした治療のお陰で、余分な血を抜いたせいで気分よく感じているだけ、あくまでも錯覚だ。自重せんでおると、せっかくの施術が水の泡になる」

 そしてオルシーニと彼の娘までもがマリオの意見に同調し、この上強く反論すれば一旦は払拭された疑いがまたぞろ顔を出すのではと考えて、パンタレオーネは結局、内心でじりじりと焦れながらも表面上は笑顔で折れて見せた。彼はその日を屋内で過ごし、彼を元気づけようとする城主とその娘の暖かな心配りにもかかわらず、酷い時間の浪費と感じていた。

 この父娘が彼に惜しみなく注いだ思い遣りも、彼等が同じテーブルに着き、食事を共にしたという事実も、パンタレオーネにはさしたる感銘を与えなかった。

 彼が行った恐ろしく醜い裏切り、彼等の信頼に徐々に食い込んでいった手段の卑劣さについて、彼は何の痛痒も感じていなかった。ピエーヴェで受けた友人を迎えるようなもてなしも、彼にとっては無価値なものであった。

 このパンタレオーネという男は、感受性の欠落した、現世的な功名以外に何の価値も見出さない、残酷なまでに即物的な思考を持った利己主義者であった。彼にしてみれば、名誉への拘泥は虚栄心の強い人間がかかる病の一種でしかなかった。廉恥とは彼にとって未知の感情であった。マキャヴェッリであれば、目的を達する為には他の一切を顧みない彼の専心に敬意を払ったかもしれないが。

 翌日、遂に彼は未だ外出は賢明でないというマリオの懸念をよそに我を通した。彼はあの小姓を随伴として付けられるだろう、あのおしゃべりは役に立ってくれるかも知れぬと考えたが、ピエーヴェの過度の世話焼きは別の形をとった。外気を吸いたいという彼の望みをかなえる為に、マドンナ・フルヴィアが案内を申し出たのだ。彼は過分な名誉であると抗議した――実際、その通りなのだ。しかし彼女は譲らず、二人は連れ立って城外に出る事になった。

 ピエーヴェの庭園は、城が背負った急勾配な丘の側面上にあるひと連なりの段丘に造られたものだが、その全体が大規模な灰色の突出し狭間付の壁に囲まれており、二百年以上前から存在するその城壁は、過去に幾度もの攻城戦を耐えていた――とはいえそれは、今日(こんにち)のチェーザレ・ボルジアが行っているような砲兵戦時代より前の話である。夏、この台地には檸檬の果樹園と葡萄畑が涼を作り出しているはずだった。しかし今は全てがむき出しになり、枯れ枝で編んだ網状の織物のように一月の陽射しをわずかに和らげているだけであった。それでも緑の芝地はあり、頭上の山も雪融けを迎えた部分では鮮緑がのぞいていた。その下方、わずかに北へと目を向ければ、トラジメーノ湖の輝く水面が広がっていた。

 彼等はゆっくりと一番上の段丘までやってきた――段丘は全部で六段あり、其処からは広い渓谷全体をつぶさに眺める事が可能であった。ここで彼等は西側の壁の下に寒風から遮られた場所を見つけた。深い貯水池――夏の潅漑用に使われているものの一つ――の縁の前に、花崗岩から削り出されたベンチが据えられていた。そのベンチの上方には小さな半円の壁龕(へきがん)があり、其処に置かれた素焼きの聖母像は雨と日光にさらされ続けた為に赤と青の彩色がまだらになっていた。

 パンタレオーネは大きな赤い外套を脱ぐと、同伴者の為にそれを座席の上に広げた。彼女はしばし難色を示した。座席で休まなければならないのは貴方の方ではなくて?空気が冷た過ぎるのではないかしら?外を歩いたせいで熱を出してはいない?かようにマドンナ・フルヴィアは優しい気遣いからあれこれと質問し、彼をたしなめた。だがパンタレオーネは自分を重病人のように扱う彼女を笑い飛ばし、楽天的な笑いで安心させた。

 そして彼等は聖母像に見下ろされ、水晶の鏡のように静かな水を湛えた花崗岩の貯水池を前にして、岩を切り出したベンチに並んで座った。それは一組の恋人達が座る姿のようではあった。しかしマドンナが同伴者に対する恋心を持っておらぬのは当然として――我々の見てきた通り、彼女の献身は別の男に捧げられているのだ――彼のマドンナ・フルヴィアに対する恋心はそれより更に乏しいものであった。筆者は、彼がもとより戯れ事に関してまめでないと言うつもりはない。フラ・セラフィーノが看破したように、パンタレオーネの貪欲そうな厚い唇は逆の事実を物語っていた。しかし第一に、彼の好みは豊満な尻と見事な胸の谷間があるヘーベー(酒場女)[註2]のような女であり、第二には、彼の頭はマッテーオ・オルシーニの隠れ場所の割り出しという問題で占領されていたのであった。

 彼等が高みから丘と谷の、そして湖と川の気高い眺望を得たのは既に述べた通りであった。しかしながらパンタレオーネはまたしても、その眺望を全く気にかけていなかった。彼の鋭く黒い瞳は、もっと近くにある建物を探していた。その視線はロッカ(城塞)の左側に向けて配置されている離れ家を念入りに見渡し、それからその反対側にある奇妙な別棟、さながらホルツス・インクルスス(閉ざされし園)を形作るように、周囲を全て壁で囲われた四角形の土地の中央を占めている建物に止まった。

 彼は長いしなやかな脚を伸ばして、美味なるものを味わうがごとく大袈裟に清洌な山の空気で深呼吸した。それから彼は溜息をついた。

「ハイホー!もしも己の身分を好きに選べるとしたら、このピエーヴェのような地の領主になりたいものだ」

「謙虚な野心ですこと」と彼女が言った。

「より多くを手に入れれば厄介の種になる権力まで持たされて、そのせいで無暗と敵を作ってしまい、敵が多ければ心休まる暇もなく、満ち足りた人生の純粋な喜びを知らずに過ごすかもしれません」

「父は貴方に賛成するでしょうね。そのようなものが父の哲学なのです。それが、父がずっとここに居を構えて、それ以上のものを求めてわずらう事のない理由なのですわ」

「善きかたを選びたり[註3]、という訳ですね、まったくだ」パンタレオーネは同意した。「必要充分なものを持ち、そして足るを知るというのは幸せな事です」

「ああ、でも父が充分に満ち足りていると考える人がどれだけいるのかしら?」

「貴女の御父上はそのようにお考えですし、もし私がピエーヴェの領主であったなら、私もそのように考えるでしょう。貴女と同じようなお立場にあり、同じ御身分にありながらも、それを単なる平凡と感じる方々もありましょう。貴女のものと比べてしまえば確かに平凡でしょう。そこに、あなたの幸福の秘密があるのですね」

「私の幸せを見極めているのですか」彼女は言った。

 パンタレオーネは彼女を見て、一瞬、危うくマドンナ・フルヴィアの個人的な事情という脇道に踏み込みそうになった。しかし彼はそれを乗り切った。

「うっかりしていました」彼はきっぱりとした調子で言った。「私が『あなた』と言った時、貴女だけではなく貴女の御父上の事も指していたつもりなのです。ここには充分なものがありますからね。素晴らしい領地、充分な広さがあるだけでなく中身も充実している。ボルゴ(集落)には年貢を納め忠誠を捧げる領民達、ロッカ(城塞)本体には全ての付属する建物が母屋から伸びた翼のように身を寄せ――向こうの囲まれた庭の中にある別棟は例外のようですが」彼は手振りを除けば他には何の身動きもせず、何気ない風に話をしていたが、ゆっくりと注意深くにじり寄るようにして、遂に彼女の隣に座した時から狙い定めていた目標に飛びついた。「今のあれは」彼は思案を続ける素振りで「奇妙な建物ですね。どんな目的の為に建てられたのか想像もつかないな」と言った。

 その発言には明らかに質問が含まれており、彼女はすぐその問いに答えた。

「あれはラザロの家(伝染病患者の隔離施設)ですわ」

 驚いたパンタレオーネは不安げな様子になり、彼女を凝視する黒い目からは不敵さが失われた。その言葉の恐ろしい響きは一足飛びに不吉な想像をもたらした。

「ラザロの家?」彼は度を失った。

 彼女は説明した。「父がまだ少年の頃です。フィレンツェに疫病が流行したのですが、それがこのボルゴ(集落)にまで入ってきたのです。人々は晩秋の蝿のように死にかけていました。そのような人々を助ける為に、私の祖父は今は既に取り壊された幾つかの建物と共にあの別棟を建てさせて、その土地を壁で囲いました。其処に病から奇跡的に護られた高徳のフランチェスコ会修道士、フラ・クリストフェロが伝染病に苦しむ人々を癒す為においでになったのです」

 パンタレオーネは嫌悪で顔を歪めた。

「そしておぞましい出来事の記念碑として、あれを保存しておられると?」彼は尋ねた。

「おかしいかしら。あそこには他の建物も幾つかありましたが、お話ししたように、それらは取り壊されました。残されたのはあれだけです」

「しかし何故?」彼は尋ねた。

「役に立ちますもの」

 彼は眉を上げて彼女を見て、かすかな疑いを表した。

「あそこに誰かが住めるだろうとおっしゃるのですか?」彼は軽く冗談めかして尋ねた。

「いいえ、違います」

 彼女の返答は早過ぎた、とパンタレオーネは注意を留めた。彼女の声は震え、そしてその深い誠実な目は彼の注視を逃れるようにやましげに視線を落としていた。

「いいえ、違います」彼女が繰り返した。「もちろん、あそこには今、誰もおりません」

 パンタレオーネは視線をそらし、ぼんやりとそちらの方角を眺めた。彼女は嘘をついている、既に彼は確信していた。それでも己の読みをより確かにする必要があった。突然、彼は驚きの声を上げ、半ば腰を浮かせた。パンタレオーネの顔は彼女ではなく囲まれた庭園に向けられていた。

 すると彼は袖の上にマドンナの手を感じた。

「どうなさいました?」彼女は尋ねたが、その声は落ち着かなげであった。

「まさか……いや確かに、貴女は間違っている」彼が言った。「あそこには人がいる。あそこの影の中に誰か、それとも何かが動くのが見えました」

「おお、違います――そんなはずはありません!見間違いですわ!あそこには誰もおりません!」そのしどろもどろの否定は、全ての音節が動揺で震えていた。

 彼は言葉にせずに投げた質問の答えを彼女から引き出したのであった。満足したパンタレオーネは巧みに彼女をなだめにかかった。

「おや、違った」彼はそう言って苦笑した。「ああ、なんだ、わかりましたよ――あの節だらけのオリーブの影を見間違えたようですね」パンタレオーネはその厚い唇に微笑を浮かべて彼女を見た。「ああ!」と彼が言った。「貴女達があそこに埋葬した人の幽霊かもしれませんね、あのフラ……何といいましたっけ」

「フラ・クリストフェロの?」そう言うと彼女は安堵したように微笑んだ。しかし彼女は立ち上がった。「おいでなさい、貴方の体調を考えたら、長居が過ぎましたわ」

「充分に長くね」彼女が懸念したよりも多くの真実を握ったパンタレオーネはそう言って、ここから引き上げる為に従順に立ち上がった。

 彼の言葉の通りであった。パンタレオーネは目的を達成するのに充分な時間を其処で過ごし、そして今、彼女が出発をしきりに促したその唐突さ自体が、既に導き出していた事柄の裏付けとなっていた。パンタレオーネが目撃したのでは、と彼女が思ったものを本当に目にしてしまう前に、マドンナ・フルヴィアはその場から彼を連れ出す事を望んだのだ。かくして彼は快く所望に応じ、いそいそと歩き出したのであった。


[註1]:ルキウス・アンナエウス・セネカ。ローマ帝国の政治家、哲学者、詩人。生年不明、AD 65年に皇帝ネロにより自害を命じられた。

[註2]:ギリシア神話のヘーベーは青春の女神であり、神々の宴においては酌婦を役目とする。転じて酒場女を指して「ヘーベー」と呼ぶ事がある。

[註3]:新約聖書ルカによる福音書より「主、答へて言ひ給ふ『マルタよ、マルタよ、汝さまざまの事により、思ひ煩ひて心勞す。されど無くてならぬものは多からず、唯一つのみ、マリヤは善きかたを選びたり。此は彼より奪ふべからざるものなり』 」

 愚か者は己の判断を疑う事も調査結果に疑問を持つ事もない。愚か者は性急に結論に飛びつき、その結論に基づいて拙速な行動にでる。そしてそれこそが愚か者たる所以なのである。しかし真に狡猾な者はあらゆる要素を検討するまでは自分の推論を盲信せずに、ゆっくりと、一歩一歩を確かめながら慎重に行動する。速やかな結論に至った場合でさえ、必要に迫られぬ限りは実際の行動に移すまで時間をかけるものである。

 さて、パンタレオーネの場合である。彼は環に環を繋ぎ、推論を可能にするような状況証拠の相当頑丈な鎖を組み上げた。第一の――そして確実な――推論とは、マッテーオ・オルシーニがピエーヴェで保護されている事。第二の――こちらの確実性は若干低いが――推論は、マッテーオにはあのホルツス・インクルスス(閉ざされし園)、ラザロの家が与えられたという事。

 無分別な輩ならば直ちに部下を召集し、問題の場所を襲撃したであろう。しかしパンタレオーネは早まった真似はしなかった。彼はまず失敗の代償を計算した。全ての状況証拠に反して、自分の標的があのラザロの家にいない可能性もあると考えたのである。そのような場合、彼は骰子(さいころ)の一投に持ち金の全てを賭けた挙句に裏目を出した博徒も同然となるだろう。彼の正体は露見し、この地を追われ、己が主君に失態の報告をする為にすごすごと逃げ帰るはめになるのだ。

 それゆえ強い確信にもかかわらず、パンタレオーネはピエーヴェでアルメリコ伯のもてなしを享受し安楽に過ごしながら待ち、そして観察していた。朝はマドンナと共に庭を散歩し、午後にはラッファエレが彼にチェスを教えに来るのを許すか、あるいはその授業のお返しとして、金髪の少年にダガーと剣を組み合わせて使う技を実演し、巧くすれば対戦相手を――これは剣技の範疇ではなく、卑怯な小細工だが――あの世に送れる芸当を見せてやった。夜には城主と共に語らったが、それはつまりセネカの哲学やフラウィオス・アッリアノス[註1]の筆によって伝えられるエピクテートス[註2]の教えから学んだ、アルメリコ伯の人生哲学の講義を聞かされるという事を意味した。

 正直に言って、パンタレオーネはこのような談話に少々困惑し、辟易していた。厚い唇をし、その厚い唇の人相学による特質を全て備えた男が禁欲主義者の厳しい哲学に感銘を受けるはずもなく、多少なりとも興味を覚えたのは、その学問によってアルメリコがどのような利益を得たのか、ストア派の教えによる静穏を範とした領主の暮らしぶりがどのように見えるかを観察する事くらいであった。パンタレオーネにはその人生哲学が理解できなかったが、それでも彼は反論をせず、偽りの共感を表して見せた。相手に調子を合わせるのが、尊重と信頼を騙し取る近道であると承知していたのだ。

 しかしながら、そのような苦行の見返りは至極ささやかなものであった。彼が期待していたような打ち明け話がされる事はなかった。マッテーオ・オルシーニの名は彼の前では決して口にされず、そして彼が一度、マッテーオを熱烈に称賛し、その死にふさわしい悲しみを表した時に返ってきたのはよそよそしい沈黙であり、それはこの父娘の優しい性質からすれば、彼が信頼対象とはほど遠い立場にいる現状を示していた。更に彼はこの件について別の徴候も掴んでいた。父娘二人だけの席に彼が不意に訪れた時、彼等は唐突に会話を中断し、気まずい沈黙が後に続いた事が一度ならずあった。

 任務に何の進展もないまま一週間が過ぎ、彼はこれ以上無為な時間が続けば早まった行動に出てしまいかねない苛立ちを感じ始めていた。彼の推理の帰結には一片の物証もなく、ラザロの家に人が暮らしている痕跡は麦一粒なかった。そしてある夜、今や彼専属の従者となったラッファエレの明かりに導かれて床に向かおうとしていた時、遂にパンタレオーネは偶然にも小さな発見をした。

 彼の部屋はロッカ(城塞)の広大な中庭を見下ろす位置にあり、それ以外の何処も見晴らす事はできなかった。しかしその部屋に向かう途中で回廊を通り、ホルツス・インクルスス(閉ざされし園)がある南に面した窓の前にさしかかった時、何とはなしにその方向を見た彼は、暗闇の中を問題の地点に向かって動く黄色い光点に気づいた。

 パンタレオーネは疑いを呼ばぬように、無理のない挙動のみに留めた。彼はほんの少しの間、その明かりに目をとめて立ち止まり、次に小姓の注意をそれに引きつけた。

「こんな遅くに誰かが庭で動き回っている」彼は言った。

 ラッファエレは彼の傍らに来ると、硝子(ガラス)に顔を押しつけて暗闇に目を凝らした。

「あれはマリオでしょう」少年が言った。「僕が来た時、扉の近くにいるのを見ましたから」

「で、彼はこんな時間に庭で一体何をしているんだ?この季節に蝸牛(カタツムリ)を採っている訳でもなかろうに」

「確かにそうですね」ラッファエレは同意し、明らかな興味を見せた。

「ああ、まぁ」ラッファエレがうっかりと漏らすような知識を持っておらず、これ以上は時間の浪費と判断したパンタレオーネは言った。「我々には関係のない話だが」彼はあくびした。「もう行くぞ、坊主、さもないと立ったまま眠っちまいそうだ」

 当初、彼は明日になったらこの件にそれとなく言及して、アルメリコと娘の反応を観察してみようと考えた。しかし睡眠はもっと安全な方法を示唆し、翌朝の彼は余計な口をきかず何食わぬ顔を保っていた。彼は常の通りにマドンナと共に庭に出ると、段丘の上段ではないもののラザロの家を囲む壁が遠目に見える場所を歩いた。マドンナは段丘を上った際に彼が過度に疲れて見えたと言い張り、再び庭の高所に行くのを拒んでいた。

 パンタレオーネは常に桜桃より小さな金の香り玉を細い金鎖で首にかけていた。その朝、二人が共に外出した時、彼はいつものようにそれを身につけていた。マドンナには間近で彼をよく見るように仕向けたので、それが消え失せたのが散歩の際であるのを記憶しているはずだ。

 パンタレオーネは夜の九時近くまで失せ物に気づかぬふりをしていた――それは彼等が夕食をとった後、いつもならば床に就こうとする頃であり、そして彼が昨夜、庭で不可思議な光を目撃した時刻でもあった。彼は突然、狼狽の声を上げて立ち上がり、それは父娘の気遣わしげな当惑を招いた。

「私の香り玉!」彼は恐ろしい不運に見舞われたように呆然とした様子で叫んだ。「失くしてしまった」

 アルメリコ伯は困惑から回復すると、微笑した。彼はストア主義者の言葉を引用した。

「人生においてはな、友よ、人は決して何も失わない。時としてそれを返すだけなのだ。至言であるな。うむ、それに、香り玉の場合は金で取り戻せるような些事であろう」

「そのような些事ならば、私はこれほど不安になるでしょうか?」オルシーニが引用した喪失の受容についての哲学にわずかな苛立ちを見せながら、パンタレオーネは叫んだ。「あれは私の御守り――邪眼を退ける力があると言って、亡き母より授けられたものなのです。私はあれを母の加護をうけた神聖なものと思っているのです。私にとっては何よりも大切なものなのです」

 ならば話は別、とマドンナ・フルヴィアは彼が母親に寄せる孝心を称賛し同意した。こうなっては彼女の父親もそれ以上は言わなかった。

「考えろ、考えるんだ」パンタレオーネは剃られた顎の裂け目を指で撫ぜ、上の空で言った。「今朝、庭にあれを着けて出た――少なくとも、出かけた時にはまだあった。私は……そうだ!」彼は手のひらに握り拳を打ちつけた。「庭だ――きっと庭で失くしたんだ」そして退出の挨拶もなしに彼は小姓の方に急いだ。

「角灯(ランタン)を、ラッファエレ」

「日が昇るまで待つ方が賢明ではないかな?」アルメリコがいぶかしんだ。

「御城主」乱暴にパンタレオーネが叫んだ。「私には休む事などできません、あれを取り戻せるかどうかと思い悩んでいては不安で眠れないのです。私は一晩中でもあれを探すでしょう」

 彼等はパンタレオーネを思いとどまらせようと更に説得を試みたが、彼の頑強な主張と取り乱した様子の前に譲歩し、年老いた貴人は大の男がこれほどまでに迷信に振り回されている様子に微苦笑を隠せなかった。すぐにも表に飛び出しそうな彼を見かねて、彼等はラッファエレに供をするよう命じたが、これが親切によるものか用心によるものかはパンタレオーネには判断がつかなかった。

 夜闇に向かって彼とラッファエレは出撃し、それぞれ角灯を装備した二人は、まず段丘の最初の段へと一直線に向かった。彼等は二つの灯りで長い道程を一歩づつ、全く無駄な捜索をした。

「5ドゥカートやるぞ、ラッファエレ、もしあれを見つけたらな」パンタレオーネが言った。「手分けして探そう。そうすれば見つかるのも早いかもしれない。君は次の段の処まで行って、慎重に、一歩一歩探すんだ。もし君があれを見つけたら5ドゥカートだ」

「5ドゥカート!」ラッファエレはわずかに息をのんだ。「あれは半ドゥカートもしないでしょうに!」

「それでも、あれを見つけたら5ドゥカートは君のものだ。私にとってはその値段よりもずっと価値のあるものなんだ」

 ラッファエレは素早く角灯を上に向け、以前に通った場所を再び探し始めたパンタレオーネを残して去った。冒険家は少年の足音が遠くなり、灯火が見えなくなるまで待った。それから彼は屋敷の窓から自分の持つ角灯の光が見えぬよう、箱状に剪定された生垣の後ろを通り、其処で即座に火を消した。音を立てないように注意を払いながらも、彼は可能な限り迅速に庭を横断した。彼は囲いから十歩ほどの場所にある松林の側で足を止め、木々の間で慎重に、用心深く、そして耳をそばだてたまま待機した。

 しばしの間、完全な静寂のままに時が過ぎた。遠い段丘の三段目に沿って、のろのろと動くラッファエレの角灯のぼんやりした光が見えた。ラッファエレはまだ一時間程度はあそこに足止めされるだろう。5ドゥカートの褒美につられて脇目もふらず探し続けるに違いない。仮に城から監視する者がいたとしても、見えるのはあの光だけであり、その誰かはラッファエレと彼が共に探索していると考えるだろう。

 そのような理由により安心し、パンタレオーネは身を隠しながら辛抱強く待った。彼はそれほど長く我慢する必要はなかった。監視を始めてから十分かそこらの後に扉のきしむ音が聞こえ、城の外堡にある小門に、彼はもう一つの角灯の薄光を見た。それは彼のいる方向に素早く進み――何故なら小道はこの松林の横を通っているので――そして、今まさに足音が近づいてきたのである。間もなくパンタレオーネは暗闇の中にうっすらとした男の輪郭を見分けられるようになった。

 身じろぎもせず、落葉松の陰に隠れながら彼は見守った。人影は進み、腕を伸ばせば触れられるほど近くを通り過ぎた。彼はそれが城代のいかめしい痘痕(あばた)だらけの顔であるのを確認し、更にその左腕の肘に籐籠が掛けられているのにも気づいた。籠の上を覆ったリネンがほのかに光り、其処からワインフラスコ(携帯用葡萄酒瓶)の首が突き出ていた。

 男は更に先へ進み例の壁まで達した。丁度その辺りには緑の扉があり、男は中へと姿を消すであろうと予測したパンタレオーネは後をつけるつもりで身構えた。だがマリオは中には入らずに扉から十歩ほど離れた壁の前で立ち止まり、そしてパンタレオーネの耳はそっと手を叩く音と声を低くして呼ぶ声をとらえた。

「コロンバ、いるか?」

 直ちに壁の向こうから女の声が返された。

「いるわよ」

 その後に続いた出来事は今ひとつ明瞭でなく、パンタレオーネは推量で補う必要に迫られた。垣間見た光景を解釈すれば、マリオは既に壁の下に置いてあった梯子を取り、それを壁に立てかけて登り、そしてその天辺から籐籠を囲いの中にいる妻に向かって落とした、という事になる。

 それが全てだった。それをし終えると、マリオは再び地面に降りて梯子を取り去り、脇目もふらず一直線に戻っていった。

 パンタレオーネは自分の読みが全て裏付けを得たと考えた。彼の推測通り、コロンバと従僕のジオベルティは匿われているマッテーオ・オルシーニの世話をしており、彼等の食料――マリオの妻が調理するので食材のまま――はマリオが夜な夜な運び込み、必要最小限の者以外には、このピエーヴェの誰にも秘密が漏れぬように配慮されていた。

 これらは全て日の光のように明らかであった。しかし一方で不可解な点もあった。其処に扉があるにもかかわらず、何故マリオはわざわざ梯子を用意し壁を登ったのだろうか。非常に奇妙ではあったが、恐らくそれは過剰な用心の為であろうと考えて、彼はその疑問点を片付けた。

 その上で、突然、自分自身の状況に意識を向けざるを得ない事態が起こった。マリオは城に戻る途中でためらうかのようにしばし足を止め、ラッファエレが失せものを探している場所を示す明かりに向かって庭の反対側へと直進した。

 今のパンタレオーネにとって、これは由々しい問題であった。注意深く行動しなければ、彼が本当に探していたものを悟られてしまうかもしれない。彼は隠れ場所を出ると極力静かにマリオの後を追った。かようにして段丘の二段目に着いた。そしてマリオが更に上の段まで進むと、パンタレオーネは即座に右に曲がり、彼が角灯(ランタン)を消した地点に素早く戻った。其処に到着すると彼は振り返って逆戻りし、走りながら叫んだ。

「ラッファエレ!ラッファエレ!」

 彼はマリオがぶら下げている角灯の光がそれ以上の前進を止め、それに少し遅れて更に上の段丘で、呼び声に応じて縁に近づいたラッファエレの灯りがほのかに光るのを見た。

「見つけたぞ!」パンタレオーネは――ずっとポケットの中にしまわれていた物を――たった今、発見したかのように叫んだ。

「見つけたぞ……見つけたぞ!」彼は新大陸を発見したコロンブスさながらに馬鹿げた勝利の叫びを繰り返した。

 彼は上方に続く階段のふもとまで行くと、其処で二人を待ち受けた。

「貴方が見つけちゃったんですか?」ラッファエレは落胆して言った。

 パンタレオーネは宙高く鎖を揺らした。

「見よ!」そう言ってから、彼は付け加えた。「だが君の労苦は1ドゥカートで報われるだけのものがある。それで心を慰めたまえ」

「あんたはそれを真っ暗な中で見つけたのか?」うなるような質問はマリオの声であり、パンタレオーネはその中に嫌疑の響きを敏感に聞き取った。

「まさか」彼は問いを文字通りに受け止めたように答えた。「どうやって暗闇の中で見つけられるんだい?私は興奮して角灯をひっくり返しちまったんだ」

 マリオはじろじろと彼の顔を見た。

「そいつは随分とおかしな話だ」彼は言った。「私がこちらに来た時には光なぞ見なかったが」

「私は生け垣の向こうにいたんだ。それで光が遮られたんだろう」パンタレオーネはそう説明し、あまりに言い訳がましくすれば怪しさを増すのを承知していたので、それ以上の言葉を加えなかった。

 彼等は連れだって城に引き返した。落胆で口をつぐんだラッファエレ、考え込み、一連の騒ぎを怪しむマリオ、そしてパンタレオーネはといえば、貴重な御守りを取り戻した喜びを無邪気にまくしたて、彼の母親が如何なる状況で彼の首にそれを掛けたのか、彼女が如何なる言葉で彼の安全を祈ったのか、そしてそれがこれまで如何にして彼を危難から護ってきたのか――さながら泉の水のごとくに、彼の豊かな想像力からこんこんと嘘は湧き出したのであった。

 にもかかわらず、彼がお休みを告げた時に見たマリオの土気色をした顔は、不信に満ちた厳しいものであった。

 彼はその事で思案に暮れながら床に就いた。パンタレオーネは目覚めたまま横たわり、しばらくの間、自分の発見について考え、未だ疑問の残る点を更に深く考察した。別の状況であれば、彼はそれを解明するまで行動に移るのを延期したかもしれない。しかしここで彼は、これ以上の先延ばしは危険かもしれぬと判断した。彼は既に必要十分な証拠を発見したのだと自分自身に再び言い聞かせ、そして次の事を心中で誓ってから眠りに落ちたのである。明日、彼はその発見に基づいて行動を起こし、マッテーオ・オルシーニを鮮やかに縛り上げ連行してみせると。


[註1]:ルキウス・フラウィオス・アッリアノス・クセノフォン。2世紀ローマの政治家、歴史家。エピクテートスに師事し、師の言行を記録に残している。『アレクサンドロス東征記』の著者として有名。

[註2]:エピクテートスは、古代ギリシアのストア派哲学者。AD60年頃に奴隷の子として生まれたが、後に開放され哲学教師となる。135年頃没する。

 その本来の任務を遂行する際にパンタレオーネが採った方法は驚くべきものでありながら、彼のように短気な男としては几帳面といってもよいものであった。

 その日――失くした御守り騒動の翌日――彼はこの城に来てから初めてピエーヴェのボルゴ(集落)に入った。その為の口実として、彼は昨夜の捜索中に破れたブーツを直す必要をしきりと訴えた。(彼は自分のダガーでそれを引き裂いていたのである)

 彼はまず靴屋に向かい、必然的に修繕が済むまでボルゴに留まった。気晴らしを装い、彼は靴屋からオステリア(居酒屋)に向かったが、本当の目的は其処に待機させておいた連絡係を通じて、手下達に指令を出す為なのであった。夕闇が迫るにつれて、十人の捕り手が各々一人でぶらつきだし、怪しまれる事もなく跳ね橋を渡り城の中庭に入っていったのは、このような彼の行動が原因であった。既に語った通りピエーヴェは歩哨を置いておらず、その為、このひっそりと段階的に進められた侵攻は、妨げられもせず、察知すらされなかった。

 手下達が集合したのを確認すると、パンタレオーネは武装し、ブーツに拍車をつけ、帽子を手にして、そして大きな赤い外套を羽織り――明らかな旅支度をして――ロッカ(城塞)の広間、一週間前に彼がまことに寛大に迎え入れられた、あの見事な謁見室にずかずかと踏み込んだ。そして今、彼は写本の一冊に没頭するアルメリコ伯と、その傍らにいるマドンナ・フルヴィアを前にしていた。

 はっとした様子で顔を上げた二人は、パンタレオーネが到来した際の無作法に困惑し驚いていた。彼の雰囲気には微妙な変化があった。常よりも一層横柄で自信満々なのである。ここにいるのは、単なる出世狙いの傭兵ならばめずらしくない過度に肩を怒らせた客人ではなく、権力をかさに着た何者かに見えた。パンタレオーネはもはや、彼等に対する術策を捨てた。

「御城主」彼はあけすけに告げた。「私には果たすべき義務があり、それを助ける十人の屈強な部下がいる。ここに隠れている貴方の甥、マッテーオ・オルシーニをお呼びいただけまいか?」

 父娘はパーテル・ノステル(主祷文)を読み上げても尚、余るほどの長い間、完全な沈黙をもって彼を凝視した。彼等は仰天し言葉を失くしたようであった。それから遂に少女は口を開いた。彼女は眉を寄せ、その瞳は白い顔の中で黒みがかった宝石のような閃光を放った。

「何が目的で貴方がマッテーオを?」

「チェーザレ・ボルジア閣下の御所望だ」彼は無情に答えた。裏切りを覆い隠した仮面は打ち捨てられ、そして今、彼がさらけ出している素顔には、己を恥じる色などなかった。「私はドゥーカ(公爵)の命を受け、こちらにマッテーオ殿の捕縛に参ったのだ」

 再び沈黙が落ち、彼等の四つの目がパンタレオーネの不敵な表情を探るように見つめた。アルメリコ伯は本を閉じると、かすかな、それでも尚、激烈な軽蔑に満ちた笑みを老いた顔に浮かべた。

「では」マドンナ・フルヴィアが言った。「ずっと私達……私達は、貴方に騙されていたのですね。貴方は私達に嘘をついた。貴方の弱りきった様子、貴方が受けたという迫害、全て芝居だったというのですか?」彼女の声には信じがたい思いが滲んでいた。

「緊要の前に」とパンタレオーネは諺をあげて彼女に指摘した。「法なし」父娘の断固とした蔑みの視線によっても恥じ入りも怯みもしなかったが、とはいえ彼はうんざりしていた。「そらそら」彼は乱暴に付け加えた。「俺を眺めるのはもう充分だろうが。さあ、仕事に取り掛かろうじゃないか。お前達が匿っている反逆者を呼んでこい」

 マドンナ・フルヴィアはすっくと立ち上がった。「神様!」彼女は叫んだ。「卑劣なユダ、汚い内通者!それなのに私は貴方と食卓を共にしたのだわ。私達は貴方を家族同様に迎えてしまった」彼女の声はそれまでの恐怖と嫌悪の低い響きから、急激に高まった。「何て下劣な、何て浅ましい犬畜生なの!」彼女は叫んだ。「これが本当の目的だったの?これが…」

 父親の手が静かに彼女の腕に置かれ、そしてその沈黙によって彼女を黙らせた。彼のストア主義はこれほどの悲痛な折にあっても揺らぐ事はなかった。彼がいにしえびとの叡智に学んだのは無駄ではなかった。

「静まりなさい、幼子よ。誇りがあるのなら、卑しい者を責める為にであれ、己を相手の域まで落とすべきではない」彼の声は冷静で落ち着いていた。「彼が卑劣な裏切り者であり、恥を恥とも思わぬ事がそなたに何の関わりがあろうか?それはそなたの傷となろうか?それは彼自身の他に誰を傷つけるであろうか?」

 彼女には、今はストア哲学を語る時とは思えなかった。彼女は烈火のごとく怒りを燃やし勢いよく父親を振り返った。

「ええ、それは私を傷つけます」彼女は叫んだ。「それは私を傷つけ、そしてマッテーオを傷つけます」

「それは真に人を傷つけ、死に至らしめる事ができるだろうか?」アルメリコは疑問を呈した。「マッテーオは死して尚、生きるだろう。だが一方で、哀れなる生とは生きながら死ぬようなものではないか」

「本題に入ろうか?」パンタレオーネはそう言って、セネカからの引用による生と死についての雄弁な演説が展開しかけた処で水をさした。「あんたがマッテーオ・オルシーニをここに呼ぶか、それとも俺の部下達に命じて、奴がこそこそ隠れているラザロの家から引きずり出してやろうか。抵抗は無意味だし、ぐずぐずしても無駄だ。部下達には奴の居場所を囲んで蟻の子一匹出入りできないようにさせている」

 彼は父娘の表情が変化するのを目の当たりにした。少女の目は見開かれた――それは不安によるものと彼は受け取った。老人は短く鋭い笑いを発した――ストア主義的態度と彼は解釈した。

「ほう」アルメリコが言った。「それほどよく承知しているのなら、自分で自分の破廉恥な仕事を仕上げるのが一番よいのではないかな」

 パンタレオーネはしばし彼に目をやり、それから肩をすくめた。

「そうするとしよう」彼は短く答えると、仕事に取りかかる為に踵を返した。

「いいえ、待って!」新たな懸念に駆られ、鋭い叫びで彼を引き止めたのはマドンナ・フルヴィアであった。「お待ちなさい!待って!」

 彼は従順に立ち止まり、半ば振り返った。パンタレオーネは彼女が張り詰めた様子で立つ姿を見た。彼女は動悸をしずめる為か胸に片手を押しつけ、もう片方の手は哀願するように彼に差し伸べられていた。

「私に父と二人だけで話をする時間をください、私達が……私達が心を決める前に」彼女は息をあえがせながら言った。

 パンタレオーネは眉を上げ、鼻であしらった。

「心を決める?」彼は問うた。「何の心を決めるっていうんだ?」

 彼女は精神的な重圧の痛ましいまでの強烈さに手をもみ絞った。

「私……私達には、貴方に申し出る提案があるかもしれないのです」

「提案?」彼はそう言って顔をしかめた。こいつ等は賄賂でも差し出すつもりか?「主に誓って…」怒りで口にしかけた言葉を彼は其処で切った。生来の貪欲さが早くも首をもたげ、それが彼を駆り立て、そして注意を喚起した。彼は自問自答した。とはいえ、その提案とやらを聞いた処で損はしまい。自分にとって何が得かを取捨選択するのに必要な情報が得られるかもしれないのに、それを聞かずに済ますのは馬鹿だ。結局の処、俺以外にはピエーヴェにマッテーオ・オルシーニが潜伏している事実を確実に知る者はいないのだし、もしも賄賂が充分な値段ならば――かもしれないじゃないか?――この件は俺の胸に収めてやっていいかもしれない。彼は更に検討した。だがそれには、公爵が約束した千ドゥカートの損失だけでなく、任務の失敗によって傷付けられる彼の虚栄心を補償できるだけの価値あるものが必要だった。

 彼の沈黙を見て、それをためらいと解釈したマドンナは懇願を新たにした。「私にわずかの時間を与えたとて、貴方に何の害がありましょう?」と彼女は尋ねた。「貴方は御自分で、その場所が部下達に囲まれているとおっしゃいましたでしょう?生殺与奪の権を握っているのは貴方ではありませんの?」

 彼は背筋を正してお辞儀をした。

「貴女にお時間を差し上げよう」彼は言った。「控えの間でお呼びを待っております」そして拍車を調子よく響かせながら、彼は出ていった。

 残された父娘は、長い間互いに見つめあった。

「そなたは何故、彼を妨げたのだ?」ピエーヴェの主人はようやく尋ねた。「あのような男に哀れみを覚えた訳でもあるまい?」

 彼女の唇は嘲るような微笑で曲線を描いた。「そのような訳ではない事くらい――お尋ねになるまでもないでしょうに」彼女は言った。

「そのような訳ではないと承知しているから、こうして尋ねているのだよ。私はすっかり当惑しているのだ」

「私達があの男を行かせていたら、彼が報復の為に何をしていたかをお考えになって。あの男は手下を集めて、本当にマッテーオを見つけ出すまでこのロッカ(城塞)を荒らしまわったかもしれないわ」

「しかしそれはこれから確実に起こるであろう事態だ。私達は如何にしてそれを防ぐ事ができようか?」

 彼女は伯爵に向かって身を乗り出した。「あのような下劣極まりない輩の、深みのない澱んだ心の底すら見透かす事ができないなら、お父様は何の為に人間性についての先賢の言葉を学んでいらしたの?」

 彼はフルヴィアを凝視し、怯んだ。彼の哲学は、今の彼が直面しているような窮地を如何に処理すべきか教えてはくれないというのに、この子は彼にそれを示す事ができるというのだ。

「おわかりになりませんの――書物の中にこのような言葉はありませんでした?――一度裏切る者は、何度でも裏切るだろうって。裏切り者の役割を引き受けたほど下劣な男ならば、自分の主人を売るだけの下劣さも持ち合わせているでしょうし、自分の利益以外の何にも忠誠心を持たないでしょう、そうお考えになりません?」

「そなたは彼に賄賂を使おうと申しておるのか?」

 彼女は身を起こすと、短い笑い声を上げた。「私達が賄賂を差し出しているかのように思わせるのです!」彼女は白い額に両手を押しつけた。「私、ひとつの未来が見えました。まるで扉が開かれたようだわ。私の手中には武器があるのです、オルシーニに対して行われた全ての悪事に復讐の鉄槌を下す為の武器が」

「しっ、そなたはひどく興奮しておるのだ、幼子よ!ここにはかよわい乙女にできる事など何もない…」

「かよわい乙女――いいえ。違うわ、強き者よ」彼女は衝動的に父の言葉を遮った。「オルシーニ家の女の務めなのよ。お聞きになって」彼女は伝えねばならぬ秘密の為に本能的に声を低め、再び彼に顔を寄せた。彼女はその聡明な頭にひらめいた計画の全体像を手短に説明した。それは細部まで完成された計画であり、全ての環をしっかりと繋げた一本の鎖を成していた。

 彼はそれを聞きながら椅子の上で背を丸め、そして彼女が話を進めるにつれ、転落する者が強打に備えて本能的に身を護るように、より一層背を丸くした。

「神よ!」彼女が全てを語り終えた時、彼は息を呑み、驚きと狼狽が半ばする老いた目で愛娘を凝視した。「何たる事だ!そなたの汚れを知らぬ乙女の心がこの恐ろしい計略を考え出したとは!私はそなたを何も理解していなかったよ、フルヴィア。私はそなたを子供だとばかり思っていた、そしてそなたは…」アルメリコ伯は言葉を失ったかのようだった。力なく、彼は老いて痩せた手を振った。彼のストア主義は既に親心の前に屈していた。

 深い懸念から、伯爵は彼女を、唯ひとりの我が子を思いとどまらせようとした。しかし彼女は決心を変えなかった。あの裏切り者と、その主人であるヴァレンティーノ公爵を一撃で打ちのめす手段について語るにつれて、彼女はとり憑かれたかのような熱意を増した。マドンナはこの解決策に踏み出すのをためらえば、自分にしろ、父にしろ、あるいはオルシーニの名を持つ他の誰にしろ、身の安全はないのだと強く主張した。彼女はチェーザレ・ボルジアに命ある限り、オルシーニ家の者には誰ひとりとして命の保証はないであろうと指摘し、そしてこれは天より己に授けられた使命と信じるとの宣言で結んだ。一介の少女であり、オルシーニ家の最も力なき一員である彼女が、一族に対する理不尽な仕打ちに復讐し、その災いの源を断つのだと。

 だが遂には、衝撃と痛手を受けた彼の心は彼女の熱意の何事かに染まった。少なくとも彼女の成そうとする事に、不承不承に危ぶみながらの同意を絞りだす程度には。

「私におまかせになって」彼女は言った。「チェーザレ・ボルジアとその手下に鉄槌を下してやるわ。だからお父様は、あの二人の冥福を祈っていらして」

 そう約束すると彼女は父に接吻し、そして殺風景な控えの間で苛立ちながら待つパンタレオーネの許にしずしずと向かった。

 何本もの蝋燭を支える銀製の枝付燭台を載せた彫刻のある机の傍らで、彼は高い背もたれ付の椅子に座っていた。蒼ざめて、見るからに動揺した様子のマドンナが入って来ると、彼は立ち上がった。彼女の品の良い美しさにも、彼女のすらりとした体と洗練された身のこなしにも、その愛らしい顔にも、彼は無関心なままでいた。

 彼女は机に身を乗り出すようにして対面にいる彼をじっと見つめたが、彼女の体の他の部分は動揺で震えているにもかかわらず、その眼差しはしっかりと定まっていた。

 これまで見てきたように、パンタレオーネは抜け目なく悪賢かったが、しかし彼女の狡知と比較すれば、彼の狡猾さなど浅知恵に過ぎなかった。彼女のたおやかな外見に隠された明敏な知恵と比べた時、彼の世才ごときは単なる程度の低い悪知恵であった。

 彼が己の正体を明らかにした瞬間、彼女は既にパンタレオーネがどの程度の人間かを値踏みし、そしてその下劣な頭に生えた髪一筋の重さまで正確に見定めていた。その判断に基づいて、今まさに彼女は企みを実行に移したのである。

「私をよく御覧になってください、パンタレオーネ殿」彼女は請うたが、その声は冷静で落ち着いていた。

 それで一体どうなるのかと訝しがりながらも、彼はそのようにした。

「おっしゃってください、貴方は私を見て美しいと思われませんでしたか、私は見目良くはありませんか?」

 ほとんど冷笑に近い笑顔で、彼は一礼した。「確かに、天使のようにお美しいですな、マドンナ。ドゥーカ(公爵)の御妹、マドンナ・ルクレチアも霞むほどに。だが一体それが何だと……?」

「要するに、貴方は私を望ましいとお考えになりますか?」

 あまりにも驚くべきその問いに、彼は息をするのを忘れた。パンタレオーネが答えるべき言葉を見つけるまでにはしばしの時間を要し、そしてその時には既に、嘲るような微笑は彼の顔から完全に消え去っていた。彼女の揺るぎない視線と、それに劣らず揺るぎない彼女に対する評価の求めによって、彼の脈は速まった。彼は今、マドンナ・フルヴィアについて思い巡らし、そしてこれまで彼には見えていなかった、彼女が有する千の美点を発見した。彼はマドンナの清純でたおやかな美が、いつもの彼が魅力を感じるような豊満な女っぷりよりも、繊細な魅力があるとすら感じていたかもしれない。

「天国のように望ましい」遂に彼は、声を落としてそう言った。

「そして私の差し出すものは、そのような移ろい易い美しさだけではありません。私には莫大な持参金がございます」

「貴重な宝石は、釣り合いの取れた貴重な台にはめられるのがふさわしい」彼の心は今や、彼女が誘導するほのめかしに揺り動かされ、鼓動は早鐘を打っていた。

「一万ドゥカートの持参金が私の夫となる方に渡される事となっております」彼女は告げ、その莫大な金額に彼は眩暈がした。

「一万ドゥカート」彼は畏怖するように、ゆっくりと繰り返した。

「私の夫となる方に」彼女は強調し、そして静かに付け加えたのである――「貴方はその方になりますか?」と。

「俺が……?」彼は言葉を切った。いや、いや。こんな事があり得るものか。その問いの衝撃で彼はほとんど仰天した。彼は呆けたように彼女に見とれ、その整った顔は日焼けの下で蒼ざめた。

「当然ながら、条件として」と彼女は続けた。「貴方にはマッテーオ様の探索を断念した上で、御自分の主人に彼を発見できなかったという報告をしていただきます」

「もちろん、もちろんだ」彼は間抜けたようにもぐもぐと言った。それから彼は四散した思考能力を再びかき集め、この謎を読み解こうとした。彼女はマッテーオの許婚であった。彼女はマッテーオを愛していた。だがそれなのに……。あるいは彼女の愛は、世にいう処の――彼はそんなものを露ほども信じた事はなかったが――いわゆる気高い自己犠牲とやらであり、全ては最愛の者を救う為の献身と解するべきなのだろうか?彼にはどうにも納得できなかった。彼は本来、馬鹿正直とはほど遠い性分であった。そして彼は鼻孔を震わせながら頭を振り上げた。突如として彼は危険に勘づいた。こいつは俺をはめる為の罠に置かれた餌だ。短く嘲るように笑い、彼はそっけなくそう言った。

 だが彼女の返答が最後の嫌疑を取り去った。

「御自身で必要とされる措置を講じてください」彼女は落ち着いた態度で彼に請うた。「貴方が不安に思われるのはごもっともです。けれど私達は名誉を重んじておりますし、私は世間がこの事件を忘れるまでマッテーオ・オルシーニが表に出る事は決してないと誓います。その上で必要な措置を講じてください。貴方は人員も武力もお持ちです。あの庭園を取り巻いている兵士達は、そのままの場所に留まらせておけばよろしいわ。今晩そうなされば、明日、私は貴方の妻となる為にカステル・デッラ・ピエーヴェへ共に参ります」

 彼はゆっくりと唇をなめ、そして彼女を貪欲に眺めるにつれて、その不敵な目は細くなった。それでも未だ彼は疑っていた。未だ彼はこの度が過ぎる幸運を信じる事ができなかった。

「どうしてカステル・デッラ・ピエーヴェに?」彼が尋ねた。「何故、ここでは駄目なんだ?」

「何故なら私は、貴方が確実に約束を守るように万全を期さなければなりませんから。カステル・デッラ・ピエーヴェはここから近い場所ですが――それでもマッテーオが妨げられる事なく逃げる為には、充分な距離があります」

「わかった」彼がゆっくりと言った。

「それで、貴方は同意なさいますの?」

 パンタレオーネの鋭く黒い目は、彼女の穏やかな白い顔を刺すように見つめた。それは彼女の心を貫いて、その秘密を探ろうとするかのようであった。信じ難かった。彼に突きつけられた富、富と妻、しかもこのような妻。考えれば考えるほど、彼女は一層望ましく見えてきていた。フラ・セラフィーノは公爵に対し、この男は女の手中で蝋と化すであろうと警告したはずではなかったか?

 なんという莫大な報酬――ヴァレンティーノ公爵との契約を守りマッテーオを捕縛する事で得る利益は、その十分の一に過ぎないではないか?御覧の通り、彼は誘惑に抗おうとはしなかった。彼はボローニャに残してきた若い女――それはレオカディアという名であった――の事など碌に思い出しもしなかった。ラヴェーノで酒場を開いているその女は、彼の息子を産み、結婚の約束をしていた。だがそれは全て、彼がコンドッティエーロ(傭兵隊長)に出世して、チェーザレ・ボルジアの信任を得る前の出来事であった。そして彼が前にしている新たな重要事によって、彼女の存在はとうにぼんやりとした遠景の中で点のように小さくなっていた。それは今やなんの気がかりでもなかった。もし彼がためらったとすれば、それは単にこの提案が信じられぬほどの幸運であった為である。それが彼を当惑させていた。彼の思考力の上には霧が垂れ込めていた。神よ!彼女は一体どれだけこのマッテーオという奴を愛しているんだ!それとも、こういう事だろうか――彼女の目当ては、もしや俺自身なのでは……

 これまで考慮に入れずにいた可能性があった。彼に対する彼女の奇妙な態度の説明になるかもしれないものだ。マッテーオを救う為に彼女は義務を果たしたが、まさにその手段によって、彼女はとっくに飽き飽きしていた恋人をお払い箱にしたのではないのか。

 かように彼の客観性は虚栄心に敗北し、冷酷な判断を失い妄信に陥った。

「同意?」彼はその長い沈黙の後に叫んだ。「同意するかって?主よ御覧あれ!俺が木偶人形だとでも?それとも申し出をはねつけるような愚鈍な間抜けだとでも?俺はその契約にすぐにでも証印を押すぞ」そして彼は腕を大きく広げ、鳩に襲い掛かる鷹のように彼女を捕えた。

 彼女は不意に襲われた恐怖と押し隠した嫌悪により、身を固く冷ややかにして耐えた。彼はマドンナを抱きしめて愚かな口説き文句を囁いた。呼び起こされた熱情の高まりによって、それは優しい抱擁に変わり、彼は自分が彼女の忠実な奴隷と化し、常に彼女を熱烈に崇める恋人となるはずの未来について語った。

 ようやく彼女はその両腕から我が身を解放し、彼から後ずさった。彼女の両頬には紅潮が、心には深刻な恥辱が、そして全存在には汚されたような感覚が広がっていた。彼女の様子を見て、パンタレオーネはわずかにまごつき、そしてまた不審を覚えた。

 しかし扉に辿り着くと彼女は立ち止まり、其処で瞬時に冷淡さを和らげた。彼女の笑い声は部屋の反対側にいる彼まで静かに響いた。

「明日ね!」彼女はそう言い残すと、彼を困惑させたまま姿を消した。



 当惑しつつも冒険家の性分に忠実に、パンタレオーネは己の運命に従って好機をものにする決心をした。その一方で可能な限り裏切りへの対抗策をとり、その晩は彼とマドンナ・フルヴィアが婚礼に向かうまでに獲物が逃げ出さぬ用心として手下を配置してから、一万ドゥカートによって富貴の身となった薔薇色の未来を夢見る為に床に着いた。

 金銭の多寡を人間の価値を決める唯一の基準とする事は、古今東西、その者が真の山師か否かを判別する為の試金石である。人は己の名誉を質に入れ、誇りを質草にし、不滅の魂を売りとばす事によって金銭上は良い取引ができるだろう。それがパンタレオーネの行った事であった。貴方が――御自身であれ、他の誰かであれ――人の値打ちを金銭によって測る者の一人でないならば、このように己の利益ばかりを重んじるこの男の事をいささか哀れと思われるかもしれない。公爵によって約束された千ドゥカートの為に、彼はユダと裏切り者の役割を演ずる事を引き受けた。そして今、目の前にぶら下げられた一万ドゥカートの為に、彼は自分の雇い主を裏切ろうとしていた。そしてこの件における嘆かわしい側面は全て、彼が自分は賢く器用に立ち回ったと確信していた処にある。それこそが、私が読者諸賢に対し彼の為に哀れみを請う理由なのである。彼にはそれが必要なのだ。この段においても、そしてこの後に続く出来事においても。パンタレオーネが己の卑しさを自覚していたならば、彼は単なる悪党でいられたであろうが。しかしそのような自覚とは程遠く、その卑しさが彼に利益をもたらしたが故に、彼は己を利口で価値のある男と思った。彼はまさしくこの時代の申し子であり、そして尚且つ、彼のような人間はあらゆる時代において夥しく存在したのである。

 パンタレオーネが金ぴかの夢を見ている間、階下のマドンナ・フルヴィアは彼ともうひとりの人物の破滅を計画していた。彼女は短い手紙を記していたが、それは意図的に謎めかせて好奇心をそそり、彼女の望む通りの反応を狙ったそっけない文面であった。彼女は教会ラテン語と公共語を織り交ぜてそれを記した。


『マグニフィケ・ヴィル(閣下)、――貴方様は貴方様が裏切りの為に雇った者により裏切られております。カステル・デッラ・ピエーヴェの聖堂前に於いて明日の正午、もしも偉大なる閣下にそれを御受け取り戴く為に御来臨を賜れましたならば、私は貴方様にその証拠を御渡しするでしょう。

セルヴィトリクス・ヴェストラ(敬具)

フルヴィア・オルシーニ
ピエーヴェの城塞にて、1503年1月20日』


 自尊心に迫られて、彼女は署名の下に二つの単語『マヌ・プロプリア(自から記す)』を加えた。そして宛名を記した。


偉大なる君主、ヴァレンティーノ公爵侍史

至急
至急
至急


 彼女はインクを乾かす為に紙を振りながら、暖炉の前に敷いた東洋の絨毯の上で寝転がり足をぶらぶらとさせていたラッファエレを呼んだ。直ちに彼はお召しに応えて駆けつけた。

 彼女は少年の肩に手を置くと、彼の愛らしい顔をしっかりと見つめた。

「ラッファエレ、貴方は私の為に大人の用事ができるかしら?私には男手がいるのだけれど、ここには申し付けられる者がいないの。貴方は今晩、カステル・デッラ・ピエーヴェにあるチェーザレ・ボルジアの駐屯地まで、この手紙を運べるかしら?」

「そんな事で僕が一人前の男だと証明できるなら、やり遂げてみせますとも」彼は言った。

「いい子ね!大好きよ!さあ、聞いてちょうだい。門に見張りがついているかもしれないの、だから貴方は歩いて出て行くのが一番良いわ。誰にも見られずにこっそり出て行ければ最高よ。ボルゴ(集落)まで降りられたら、ヴィラネッリの家に行って。彼に私の使いの為に馬を貸すよう命じなさい、でも、行き先は決して話しては駄目よ。気をつけて、そして急いでね」

「お任せください、マドンナ」少年は上着の懐中に手紙を滑らせて言った。

「ええ、信じてるわ、貴方以外にこのような伝言を任せられる者はいないわ。主は貴方を見守っておいでよ!マリオを私の処に来させてちょうだい」

 彼は直ちに行き、そして間もなくお召しに応えたマリオがやって来た。

「ジオベルティは、今夜はどんな具合?」家令が入って来ると彼女は尋ねた。

 彼は気落ちしたように肩をすくめた。「あの哀れな者が朝までに生きていられるかどうか、疑問ですな」彼は答えた。

 彼女の顔は引きつり、厳粛で、その目は悲しげだった。「可哀想に!」彼女は言った。「主のお召しは本当に近いのかしら?」

「奇跡でも起きぬ限りは。もう長くはありません。しかし奇跡は起こらんでしょう」

 炉床に向かいゆっくりと歩く彼女はもの思わしげな表情で、その視線は床に落とされていた。そして彼女はマリオを待たせたまま、しばらくの間立ち尽くしていた。

「マリオ」彼女はようやく、ひどく静かに話し始めた。「今夜貴方に命じる事があります――貴方とコロンバに」

「仰せのままに、マドンナ」彼が答えた。

 しかしマドンナ・フルヴィアがその命令の内容を伝えた時、彼女はマリオが仰天し後ずさりして、既に病の痕跡によって恐ろしい醜貌となっている顔面を恐怖が蹂躙するのを見た。

 彼女は彼に嘆願し、白熱した雄弁によって己の一族が被った不正を並べ立て、ボルジアの野心を叶え、ボルジアの復讐心を満足させる為に流されたオルシーニの血について語り、そして遂に彼女の意志の前に彼を屈服させた。

「ならば思う通りになされませ、マドンナ。貴女のお望みのままに」そうは言ったものの、話しながらも彼は震えていた。「書き上げた手紙はお持ちですか?」

「まだよ。後でもう一度私の処に来てちょうだい、用意をしておくわ」

 彼は無言で退出し、彼女は文机に戻った。しばらくの間彼女は書く事ができなかった。彼女の手はマリオとの会話の際に引き起こされた興奮によって震えていた。しかし今や彼女は自制心を取り戻し、それからしばらくの間、室内は時折の不明瞭な早口の声と、丸太のはぜる音、そして彼女の羽ペンが紙を掻く音以外は無音であった。

 彼女が書き物を終える前に戻ったマリオは辛抱強く待っていたが、やがて彼女は顔を上げてペンを置くと、彼に完成した書類を差し出した。

「分かって?」彼女は言った。

「分かりました、マドンナ。それが単純な事は神も御存知です――恐ろしい程単純だと」そして彼は、これ程若く美しい彼女がこれ程までに邪悪な計略を考え出し、彼の手助けを求めたという恐ろしい事実に、悲しみのこもった目で女主人を見た。

「では間違いのないように、貴方からコロンバに良く説明してちょうだいね」

「万に一つも間違いはありません」彼は約束した。「私は籐の杖を持っているので、自分でそれを準備いたします。 イバラの棘も簡単に手に入ります」

「では夜明けに私の許にそれを持ってきて。私の部屋に運んでちょうだい。その頃には起きて、旅の仕度を終えているはずよ」

 その言葉で彼は新たな恐慌に陥った。「よもや、御自身であれを運ぶおつもりではありますまいな?」彼は叫んだ。

「他に誰か?」彼女は彼に尋ねた。「このような事を他人任せにできましょうか?」

「ジェズ!(イエス様!)」彼は嘆いた。「御館様はこの事を御存知なのですか?」

「必要なだけ。充分なだけ。今はこれ以上言うべき事はないわ、マリオ。もう行ってちょうだい、そして見守っていて」

「ああ、しかしお考え下さい、マドンナ、貴女がどんな危険を冒すのか!お考え下さい、マドンナ、どうか」

「よく考えた末の事です。私はオルシーニ家の者よ。オルシーニ家の者は、ある者はアッシジで絞め殺され、他の者達はローマで獄に繋がれています。マッテーオの命はあの飽く事を知らない復讐の怪物に狙われているのです。私は救済と復讐を同時に果たすの。決して失敗はしないわ」

「ああ、しかし、マドンナ、私のお嬢ちゃま…」彼は声を震わせて、目にとりなしの涙を滲ませながら言いかけた。

「もう言わないで、私を愛しているのならね、マリオ。私の思う通りにさせてちょうだい。私は決心を変えません」

 その声音は、彼が未だかつて彼女から聞いた事のない――そして彼は、その誕生の瞬間から彼女を知っているのである――断固たる不動の意志を帯びており、彼は抗議を諦めた。彼女は女主人であり、彼はその使用人であり、絶対的な服従の義務を負うている奴隷のようなものだった。そしてマリオは辛い気持ちで彼女の命に従う為に退出し、彼女はそのしばらく後、睡眠によって目前に控えた仕事を成し遂げる力を蓄える為に眠るように努めた。

 その朝、己が花婿と対面する為に広間に入った時には、彼女は蒼ざめてはいたが落ち着いていた。

 ピエーヴェの領主は自室から出なかった。彼のストア哲学をもってしても、パンタレオーネのような者と再び食事を共にし、我が娘がその身に受けるであろう屈辱を目にするのは苦行に等しかった。例えどれ程その目的を――彼は哲学者である前にオルシーニの一員であったので――尊重したとしても、彼はその手段を嫌悪しており、彼等と顔を合わせずに消極的なままでいる事を選択したのであった。とはいえ――彼の為に公正を期して記しておくのだが――もしも彼女の意図を全て知っていたならば、彼がそのような態度ではいられなかったであろう事は確かと思える。彼は娘から計画の一部しか漏らされていなかったのだ。

 パンタレオーネは余りにも突然に己が膝上に投げられた尋常ならざる幸運によって、有頂天と抑えきれぬ疑惑、不信、その信憑性に対する疑いの狭間で苦悶していた。パンタレオーネが彼女の居る場所に入って来た時、彼の外見からはこのような感情を読みとる事ができた。其処からは常のような尊大な自信の大半が失われていた。いささか緊張しているようであった。

 彼はフルヴィアに向かって横柄に肩で風切るようにして歩み寄った。なにしろ、横柄な歩きぶりは彼にとっては自然な事だったので。しかし夫の座を勝ち取った女に対してこの類の男が示すのが当然と思える我が物顔な調子は微塵もなかった。実際、彼が彼女の手を取りそれを唇に運んだ際は殆ど謙虚な調子であり、彼女はそれを昨夜のおぞましい抱擁と同じく氷のように超然とした態度で耐え忍んだ。

 彼等は朝食を摂る為に食卓に着き、スフィンクスのように黙りこくったマリオひとりの給仕を受けた。ラッファエレすら不在であり、パンタレオーネは今朝はあの生意気な少年の奉仕を受けていなかった。

 小姓の様子を尋ねる事で彼等の間の気詰まりな沈黙を多少なりとも和らげようと、彼はそれを話題に出した。マドンナは少年の具合があまり良くない為に未だ床についているのだと弁解した。実際は、少年はカステル・デッラ・ピエーヴェまで手紙を無事に届けに行く為に半時間前に出発していた。

 彼等はそのすぐ後に出発し、カステル・デッラ・ピエーヴェに向かって湿地側の道を通った。彼等と共にパンタレオーネの十人の手下と、マドンナの強い希望により、彼女の従者としてマリオが同行した。パンタレオーネは無口な崩れた顔の使用人を嫌っており、また信用もしておらず、彼の参列は是非とも排除したい処だった。だがしかし、少なくとも神父が結婚を正式のものとするまでは彼女の機嫌を取っておいた方が賢明であろうと判断した。

 彼等は一月の朝の明るい日差しの下、軽快に馬を進め、そして数マイル進んだ頃にはパンタレオーネの精神は高揚し、最後まで残っていた疑いは克服された。欺かれる事について、彼は今や恐れを抱いていなかった。彼女は彼に身を投げ出したではないか?彼等は彼の部下達に囲まれているではないか?そして財産とそれに付随してもたらされる物は、明日の太陽が昇るのと同じように当然付いてくるに決まっているではないか?この確信によって、彼は花婿に相応しい雄々しさを演じてみせようと試みた。パンタレオーネは彼女が冷たく高慢で余所余所しい事に気付き、この佳き日に彼を夫らしく扱わない事に対して不平を言ったが、彼女はそれに答えて彼等二人の間には取引以外には何一つ存在しない事を改めて指摘した。

 興ざめした彼はしばしの間むっつりとうつむき、眉間に皺を寄せて馬を早駆けさせた。しかしその不興は間もなく消え去った。彼の変わらぬ性分は、いつまでも陰気なままでいるにはあまりにも楽天的であり過ぎた。今は氷同様に冷たくさせておけばいい。すぐに彼は彼女に火をつけて生身の女に変える術を見つけるだろう。彼は今まで多くの女達を燃え立たせており、その方面においての才には大いに自信があった。もし彼女が彼の情熱に応えぬままでいたとしても、それは大した問題でもあるまい。彼女の財産はそれを十分に埋め合わせてくれるし、その財産を使えば、彼は別の場所で彼女が与える事を拒んだ情を幾らでも手に入れる事ができるだろう。

 彼等がゆるやかな丘を登ると、その頂上からカステル・デッラ・ピエーヴェのかすかにきらめく赤い屋根が2リーグ程先にようやく垣間見えた。正午には未だ一時間はあり、彼等が現在の速度で進めばマドンナの計画よりも早く着き過ぎてしまうだろう。その為に彼女は、鞍に慣れぬ者が馬を走らせたが故の疲労を訴えて歩調を緩め、進みを遅らせた。彼女はそれを非常に巧みに行い、一行がポルタ・ピアのアーチ型の門を潜り町に入ったのは、丁度ドゥオーモ(聖堂)が正午の鐘を打ち鳴らすのと同時であった。


 公爵の軍は街の東側に野営していたが、一行が大通りに入ってイタリア中部の様々な方言で喋る兵士達が至る所にたむろする姿を目にするまで、パンタレオーネは其処に彼の主君が出向いて来ている可能性に全く思い至らなかった。ピエーヴェで演じていた役目によりパンタレオーネは外界から隔離されていた為に、彼はチェーザレ・ボルジアの所在について全く知らぬままでいた。公爵の側近くに乗り込んでしまった事に突然気付き、彼はのぼせ上った体に冷水をあびせられたかのようであった。何せ読者諸賢も御承知のように、彼には悪魔を避けるのと同様に公爵を避けるべきありとあらゆる理由があったのだから。

 彼は急に手綱を引くと、自分のような愚か者をはめる為にこの白い顔の少女が誘い込んだ罠の存在を悟り、不信の念を込めた眼差しでマドンナの目を睨んだ。痩せた女を信用するものではない、という彼の人生訓が脳裏をよぎった。脂肪が少ないという事は、彼にしてみれば女らしさの欠如を物語るものであり、そして女らしさに欠けた女というのは――万国共通普遍の常識通り――しばしば非常に邪悪な存在なのである。

「お許しいただけるなら、マドンナ」彼は嫌味な調子で言った。「他の場所で神父を探したいのだが」

「何故です?」彼女は尋ねた。

「俺がそうしたいからだ」彼は刺々しく言い捨てた。

 マドンナ・フルヴィアは作り笑いを浮かべた。彼女は落ち着き、自制を保っていた。

「亭主関白ぶるにはまだ早くてよ、それにあまり強情を張らない方が良いのではないかしら――私はカステル・デッラ・ピエーヴェで貴方と結婚するか、それとも結婚をとりやめるか、二つに一つです」

 彼は怒りにたじろぎながら彼女を見た。「くそっ!」彼は悪態をつくと、本音を口に出した。「俺は今まで、悪賢くもなきゃ、ありとあらゆるぺてんを取り揃えてもいない痩せた女なぞ見た事がない。あんた、一体何を考えてるんだ?」

 その時ふいに、だみ声が彼を呼び止め、通行人の中から全身を軍装で固めた浅黒く片目で白髪まじりの兵士が歩く度に鎧を軋ませ金属音を立てつつ頑丈そうながに股で進み出た。それはヴァレンティーノ公爵の傭兵隊長、タッデオ・デッラ・ヴォルペであった。

「良く帰ったな、パンタレオーネ!」彼が叫んだ。「公爵は昨日、お前がどうしているであろうかと話題にのぼせられたのだぞ」

「閣下が、そのような?」とりあえず何か言葉を返さねばならぬゆえにパンタレオーネはそう言ったが、この最も厄介な人物と出会ってしまったが為に逃げ出す事は不可能になり、心中は荒れ狂っていた。

 勇士はマドンナ・フルヴィアの方を見て、その一ツ目をぎょろりとさせた。「お前が護送してきた虜囚か?」彼はそう問うたが、パンタレオーネにはそれが冗談なのかどうか分からなかった。「引き止めては悪いな。お前は公爵の御許に参上したのだろう。俺も同行しよう」

 今やパンタレオーネは窮地にあった。彼は機械的にタッデオと共に前に進んだが、それは彼がしごく当然の衝動に従って己の来た道を後戻りする事が今となっては完全に不可能となったからである。同様に、デッラ・ヴォルペが傍らを大股で闊歩する間、彼はするつもりであったマドンナへの質問もかなわなかった。

 十歩程で彼等はドゥオーモ(聖堂)前の広場に着いたが、其処でパンタレオーネは、武装した兵達がボルジア家の紋章である赤い雄牛の小旗をはためかせた槍を掲げており、その列に続く廷臣の一団の中央で馬上にあるチェーザレ・ボルジアその人の姿が、ほとんど彼の真向かいに位置している事に気付いて不安に震えた。

 彼は罠の中にいた。彼はこの青白い顔をしたオルシーニの小娘に鼻面を引き回されて間抜けのように其処に誘い込まれ、そしてそのバネ仕掛けを折る為に身を縮める事すらかなわなかった。彼が狼狽から思わず馬を止めると、マドンナ・フルヴィアはその前を横切り弩から放たれた矢のごとき勢いで前に進んだ。

「お裁きを!」彼女は頭上に短い警棒のようなものを振り回しながら叫んだ。「ヴァレンティーノ公爵、お裁きを!」

 貴人を囲む者達の間にざわめきが走った。彼女は馬の荒っぽい跳躍によって、ほぼその中央にやって来ていた。

 公爵は手を上げ、騎馬行進は急停止した。彼の鋭い目は彼女を睨み、そして彼の視線には彼女を圧倒するような何かがあった。

 彼女は今、初めてこの男を見た。彼女の一族の敵。彼女が血も涙もない怪物と考えていた存在。彼はスペイン風の黒い衣装を纏っており、その上着は金色の唐草模様で装飾され、天鵞絨の帽子には雀の卵程の大きさの燃え立つようなルビーが一列に飾られていた。その下からブロンズ色の髪が波打ちながら肩にかかっていた。彼の繊細な、それでも尚、本質的な男性美を備えた若い顔は、一瞬の間彼女の残酷な目的を押し留めた。

 穏やかで半ば夢見るような微笑がその気品ある容貌の上に浮かび、そして彼は優しく音楽的な声で話しかけた。

「何の裁きを求めるか、マドンナ?」

 彼の顔と声の甘い魅惑と戦う為に、従兄達がアッシジで締め殺され、他の血族がローマで獄に繋がれ死に追いやられつつあり、そして彼女の恋人マッテーオが捕縛と死の危機に瀕している事を思い起こす時間を彼女は要した。この男が男性美の精髄だからといって、それが何だというのだろう?彼は彼女の血族の敵ではないか?彼はマッテーオの命を求めているのではないか?彼はあの汚らわしい猟犬にマッテーオを狩り立てるように仕向けたのではないか?

 声に出さぬ質問に対する声に出さぬ答えによって身を引き締め心を固めると、彼女は運んできた筒を差し出した。

「全てはこちらに用意してございます、閣下。この請願でございます」

 彼は侍従達の中から馬を数歩前へ進めると、急ぐ事なく彼女が差し出した物を手に取る為に長手袋を付けた腕を伸ばした。彼は手のひらの上でしばしそれを量るように持ち、思案した。それは両端を塞いだ空ろな杖であった。微かな笑みが赤褐色の顎鬚の下で彼の唇を動かした。

「随分と厳重だな」それが彼の穏やかな論評であり、その目には彼女を突き刺すような問いがあった。

「閣下の尊き御手を道中の埃で汚さぬようにと」彼女は説明した。

 彼の微笑は大きくなった。彼は彼女の言の奥ゆかしさを認めるかのように頷いた。そして彼の視線は彼女を越えて、怯え、恐慌をきたしているパンタレオーネに定められた。

「そなたの後ろに隠れている輩は何者だ?」彼が言った。「其処の者!」彼は叫んだ。「オラ!(さあ!)こちらに参れ!」

 パンタレオーネはびくつきながら手綱を引き、馬を前に進めた。彼のブロンズ色の顔は蒼白になり、こそこそと落ち着かぬ様子であった。実際、極度の不安は彼の全ての皺にくっきりと現れていた。

 チェーザレの眉がわずかに上がった。「おお、パンタレオーネ!」彼は叫んだ。「良く戻ったな、しかも良い折に。さあ、この封を切り、この筒の中の羊皮紙に書かれた文を読み上げよ」

 華やかな随行の一団は好奇心に駆られてにわかにざわめき、マドンナ・フルヴィアが間に入った時、彼等が馬を動かし物見高く首を伸ばす仕草は一段とせわしくなった。

「いいえ、いいえ、閣下!」彼女の声は突然の不安に鋭くなった。「それは閣下に直接ご覧いただく為のものでございます」

 彼はフルヴィアが意識を失うかと思うまでその白い顔を凝視し、今や彼女はその視線によって震えるような恐怖を引き起こされていた。彼はその恐ろしさと同量の言いようのない甘さを込めて微笑し、まことに優しげな声音を用いて彼女に話しかけた。

「マドンナ、貴女の姿を見た為に、私の目は眩んでしまったようだ。パンタレオーネ殿の手を借りて、我が耳によって傾聴する事で満足していただこう」そして突然、パンタレオーネに厳しい声音で命じた。「来い」彼は言った。「我々は待っておるのだ」

 恐怖によっていささか呆然としていたパンタレオーネは震える手でそれを取り、そして異議も躊躇いもあえて見せずに、不器用な指で封の一枚を破った。絹製らしき紐が筒から突き出た。彼は羊皮紙を引き出す為にそれを掴むと、鋭い叫びを上げて手を引っこめた。彼は刺されたかのような声を上げたが――事実、彼は刺されたのであった。彼の親指と人差し指の上には血の点があった。

 マドンナ・フルヴィアはヴァレンティーノ公爵に険しい視線を向けた。ここに至って、彼女は考慮に入れていなかった一つの要因により己の悪辣な計画が失敗するのを目の当たりにした。その要因とはチェーザレ・ボルジアの環境――内密の、あるいは公然の敵達に囲まれながらも、力によるものであれ策謀によるものであれ、その犠牲者となる隙を見せる事なく生活し、活動しているという環境にあった。彼女はよもやチェーザレが、この件においてパンタレオーネを彼の食卓における毒見役同様の役目に任ずるとは思っていなかった。

「そら、どうした」公爵はしり込みするパンタレオーネに一層厳しく命じた。「このような寒い中に我等を一日中待たせて置くつもりか。請願はどうした!」

 パンタレオーネは絶望的に、偶然か仕込まれたものか――放心していた為に、彼はどちらであろうと気にしなかった――絹の撚り糸に刺さった棘を避けるように今度は気をつけながら紐を掴んだ。彼は丸まった羊皮紙文書を引き出し、それが入っていた杖を下に落とすと震える手で請願状を開いたが、勉学に無関心であった彼はしばしの間それを読もうとする努力で額に皺を寄せた。

「どうした、読めぬ訳ではあるまいな?」

 彼は慌ててその言葉に応じ、かすれた声を張り上げて読み上げた。

「『閣下――本状によりて、私はある者に対する貴方様の御裁きを懇願致します。その者は貴方様がその者に御命じになられた務めにおいて不実を演じたのと同様に、貴方様に対してもまた、不実を行っている事が明らかになり…』」

 彼は突然中断し、狩り立てられる者の狂乱した目で見上げた。

「こ…これは事実ではありません!」彼はたじろぎながら抗議した。

「誰がお前に判断するよう命じた?」チェーザレは尋ねた。「私はお前に読み上げるようにと命じた。それだけだ。ゆえに読み続けよ。それにお前が関係していると分かれば、続けてお前の釈明を聞こうではないか」

 そのように権高に告げられて、パンタレオーネは再び羊皮紙の文書に視線を落とし、朗読を続けた。

「『…その者が捕縛を命じられたマッテーオ・オルシーニがピエーヴェに潜伏するものと信じながら、その者はマッテーオの脱出を黙認致しましたが、貴方様のかの者に対する御信頼に対するかような裏切りは、私がかの者の妻となり、また私の持参金がかの者の所有となるという条件の下に同意されました。』」

 彼はまたもや朗読を止めた。「主の御目にかけて、これは偽りでございます!地獄のごとき偽りでございます!」感情の激発によってむせび泣き、割れた声で彼は叫んだ。

「読み続けよ!」公爵の声と物腰は共に恐ろしいものだった。

 再び威圧され、パンタレオーネは羊皮紙の文書に戻った。

「『…マッテーオが無事逃げおおせる事ができるか否かは分かりませぬが、けれども少なくとも、これを御読みの御方は此処までを御読みになったが故に御逃げになる事は叶いますまい。私共はピエーヴェのラザロの家にもうひとかたの賓客を迎えております――即ち、天然痘を。そして本状は一時間の間、その賓客によって死を迎えつつある者の胸の上に置かれておりました、更に…』」

 突然の恐怖による喚き声でパンタレオーネは朗読を不意に終わらせた。伝染病を満載した羊皮紙は突然力を失った彼の手から離れた。それが地面に落ちると、その毒物を円の中心として、それから滲み出る恐るべき疫病の危険から逃れる為に至る所で恐慌をきたして後ずさりする人々の動きがあった。

 パンタレオーネの麻痺した頭を通して、絹紐の棘は偶然ではなかったのだという鈍い認識が彼を貫いた。それはより速やかにそして確実に、あの書状を読む者の血管の中に恐るべき病の感染する道を開こうとする意志に基づいて取り付けられていたのだ。疫病の攻撃を受けて生き延びる可能性は無きに等しい程わずかであり、彼は己が死を約束された命運尽きた者である事を悟った。灰色の顔をして彼は真っ直ぐに前を凝視し、憤慨と恐怖の声を四方に届かせ、沈黙を求めた公爵が手を上げ命じるまで叫び声を上げ続けた。

 チェーザレは唯一人動じぬままでいたか、あるいは彼が感じていたかも知れぬ怒りを、少なくとも表には出さなかった。次に彼が、己が生命に対してこの自棄の企てを仕組んだ白い顔の貴婦人に話しかけた時には、彼の声はそれまでと同様に穏やかで優しく、その顔に戻った微笑は同様に甘かった。そして恐らく、それがゆえに、彼が口にした審判は一層おぞましいものだった。

「無論」と彼は言った。「パンタレオーネ殿は貴女との取引条件を履行したのであるから、マドンナ、今度は貴女が履行するべきであろう。貴女が約束した通り、貴女は彼と結婚せねばなるまい」

 彼女は目を大きく見開いたまま硬直し、彼が与えたものが因果応報という詩的正義である事を理解するまでに長い時間を要した。ようやく彼女が声を発した時、それは嫌悪にかすれた叫びであった。

「あの男と結婚?あの男と結婚ですって!彼は感染して…」

「貴女の毒にな」チェーザレは無下に遮った。そして彼は聞き分けのない子供を諭すように続けた。「貴女自身と彼に対して果たすべき、貴女の義務だ。貴女は名誉にかけて契約したのだ。この哀れな男に成り行きを予測する事は不可能だった。貴女は彼を計画の蚊帳の外に置いていた」

 彼は彼女を弄っていた。その事に気付くと、その冷酷な残忍性に対する憤怒が彼女の中に湧き上がった。彼女は彼の無慈悲について聞かされてはいたが、しかし彼が今見せた無慈悲は彼女の想像を遥かに絶していた。突然湧き上がった怒りは彼女をわずかに奮い立たせたが、それでも尚、彼女は彼に返すべき言葉がみつからなかった。実際、彼は反論を許さなかった――彼の裁きは常にそのようなものであり、それゆえに人々はより一層彼を憎んだのである。

「貴女は裁きを求めて私を呼んだのだ、マドンナ」彼は彼女に思い出させた。「そして貴女はそれを受け取った。不足はあるまい。御満足いただけたかな」

 彼の鉄のごとき冷徹に打ち当たった時、彼女の怒りは成す術もなく砕け散った。それを前にして彼女の気概は完全に霧散し、勇気は水のように引いてゆき、そして彼女は再び恐怖と嫌悪の餌食となった。

「おお、そんな!そんな事!」彼女は彼に向かって叫んだ。「お慈悲を!お慈悲を!御自身が窮境に際して慈悲によって報いられるよう、今、私を見逃して下さい」彼は嘲弄を込めて、心身が麻痺したような様子で馬に跨るパンタレオーネを見た。

「マドンナ・フルヴィアは正直だな、パンタレオーネ」彼は言った。「彼女はお前を自分の花婿に相応しいとは微塵も考えておらぬようだ。それだというのに愚かにもお前は、彼女がお前を夫に迎えると約束した時に、彼女を信じた。お前は彼女を信じたのだ!さて!フラ・セラフィーノはお前について何と申していたかな?」彼は考え込む素振りを見せた。「思い出したぞ!彼はお前が婦人を信託されるに相応しくない、唇の厚い人相であると看破した。フラ・セラフィーノは己の見聞からよく学んでいるな。修道院は観察眼を養うのに良い場所らしい。そしてお前は彼女の約束に屈した!だが安心するがいい。彼女は約束を果たすだろう、彼女がお前を騙そうと目論んで誓った約束をな。彼女はお前をその白い胸に抱きしめるであろう――お前と、お前の運ぶ疫病を」

「ああ神さま!」彼女があえぎながら言った。「貴方は私に死と結婚せよとおっしゃるのですか?」

「どうであろう?」彼は問いかけた。「死はパンタレオーネより不快なものであると思うか?よくよく考えるがいい」彼は彼女に促し、「貴女が私に対して果たせなかった事を、私は貴女に対して徒に行うつもりはない」と淡々とした様子で説いた。彼は慎重に、死を撒き散らす筒を取り扱った水牛皮の分厚い長手袋を脱ぎ始めた。「結局の処」彼は言葉を続けた。「もしも貴女が己の言葉に責任を持つ事に耐えられぬと申すなら――もっともな理由によってな、マドンナ、私は貴女の一族の特徴を良く知っているのだ――貴女にその結果から逃れる方法を示してやろうではないか」

 彼女は彼を見たが、しかしその眼差しには何の希望もなかった。

「私を弄るのですね!」彼女は叫んだ。

「そうではない。これは名誉と矛盾せぬであろう方法だ。貴女が彼と交わした契約を破棄し、貴女が役割を全うする為に彼の抱擁を受け入れるという義務から免除されるのだ」

「破棄?どのように破棄するのですか?」彼女は尋ねた。

「簡単ではないか?私にマッテーオ・オルシーニを渡せばよいのだ。今日、私に彼を引き渡すのだ、そうすれば今夜には貴女は不快な婚礼を免れるだろう」

 彼女は一瞬にしてこの男の悪魔のごとき狡知を理解した。彼が彼女に対するつまらぬ復讐心を満足させようなどとは微塵も意図していない事に彼女は気付いた。彼女は、彼が取り組んでいる複雑なゲームの盤上に置かれた取るに足りぬポーンの駒であった。彼女の感情など、彼にとっては一瞬たりとも見失う事のない目的――マッテーオ・オルシーニの捕縛という目的を果たす為の手段に過ぎない。彼にとっての重要事はそれだけであり、彼女自身に向かう如何なる怒りの要因があったとて、彼がその目的から目を逸らす事はないのである。彼は単に彼女を己の意志に従わせる為にこの言語道断な結婚によって脅し、その恐ろしい運命から逃れる為に彼女が如何なる裏切りの対価でも支払うように仕向けているだけなのであった。

「貴方に彼を引き渡す?」遂に彼女は言ったが、しかし今度恐ろしく辛辣な軽蔑を込めて微笑したのは彼女であった。

「これ以上容易な事があろうか?」彼は尋ねた。「彼が潜む場所を私に告げる必要すらない。私は貴女に彼を裏切る事や、貴女の優しいオルシーニ一族の感受性を傷つけるような行為を求めるつもりはない」彼の皮肉は炎の剣のようであった。「彼に貴女の毒の企てによって、貴女が今如何なる苦境に落ち込んでいるのかを伝えるだけで良い。それだけだ。彼が男である以上、彼は貴女の行動の結果から、代償を払って貴女を取り戻す為にこちらにやって来ざるを得ない。彼は日の暮れる前には着くであろう、さもなくば」――彼は肩をすくめ、泥の中に長手袋を投げつけると、打ちのめされているパンタレオーネに向かって軽く頷いた――「貴女は自分自身の契約を果たす事になるだろう。貴女は彼の脱出に対して約束した対価を支払い、そして私は貴女の為に華燭の宴を用意してさしあげよう」

 彼女は彼の冷酷さとそれを覆い隠す忌々しい穏やかさによって、計り知れぬ程の悪意に駆り立てられながら彼を見た。そして彼女は己の知力を彼の知力と戦う為に奮起させた。彼女は奸智が如何にして別の奸智を破るかを目の当たりにした。そしてその思い付きが昂ぶった心に忍び入った時、鉛色の頬にはゆっくりと血色が戻り、鋭くなった眼差しで毅然として彼の目を見つめた。

「そういたしますわ」彼女が言った。「私に選択の余地はございませんから、閣下」彼女の声は耳障りな調子になり、何処か嘲笑うかのようであった。「貴方のお望みのままに。今から私の従者を彼の許に送りましょう」

 彼は探るような視線を送った。初めそれは由々しくも疑い深げなものであったが、最後にはほとんど軽蔑的な色となって離れた。彼は騎士達に合図を送った。

「行くぞ。ここにはもう用はない」しかし彼は鞍上で身をかがめ、彼の横に侍していたデッラ・ヴォルペに小声で何事かを命じた。それから馬に軽く鞭を当てると広場を横切って前進し、慌てた随行達も彼に従った。彼は軽蔑を抱いて走り去った。彼はオルシーニ一族を知っていた。彼等は皆同じだった。考える事は大胆だが実行に移す段になれば極めて臆病だった。彼等の頭は彼等の精神より肥大していた。彼等の意思の固さなど、一撫でで崩れ去る程度のものであった。


 馬上で背筋を伸ばし身を硬くしたマドンナ・フルヴィアの視線は、広場を横切り馬を走らせて大道に消えてゆく公爵の姿を追った。混乱し半ば唖然としたままその場に取り残された彼女は、パンタレオーネが感染させられたと思われる疫病への怖れから、距離をとりつつ彼女を取り囲み呆然と見とれている群集には無関心なままでいた。

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