午前5時の“ハングリー・ハート”

夢を見終えたのを区切りに5時前に目が覚めてしまった。
冷や汗をかいて目覚めるような悪夢と違って、幸福な夢は寝不足のままであっても気持ちよく目が覚めるものだ。
眠りに就いたのは午前1時過ぎだったというのに、まだ夜が明けないままの暗さの窓の外を見ても、どこか気分が満たされているように感じた。

元々、いつでも好きな時に暗室として使えるよう、光が多く入る窓には暗幕が吊るしてある。
普段はタッセルで端に止められているが、レースのカーテンと普段使いの光が抜けるカーテンとの三重構造なので、暗幕まで引くといつでも夜同然の暗さになる。
起き出してしまって、さて何をしようと考え、まずは散らかったデスクの片付けをした。
収納すべきものは所定の場所へ収納し、不要なものは処分する。
捨てるには忍びないもの—— 個人的な記録としての価値しかないものは、可能な限りノートに貼りこむ。
余白に一言二言、思いついたことを書き込み、そうしてノートは物質的な重みを増していく。

ノートに貼りこむのは撮りっぱなしだった写真やら、映画のチケットやチラシ、友達の個展のDMなど様々だ。統一性もなければ、丁寧に作業されてもいない。半ば機械的に貼り付け、機械的に何かを書き込んでいく。
今となってはやる気になれば何かのWEBサービス、noteのようなプラットホームでも楽々できる作業ではある。
だがこの「重み」だけはどうやっても出てこない。そしてそれが決定的な違いになっている気がする。

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先日オンエアされていたのをすっかり忘れていた村上春樹の「村上Radio」をradikoのタイムフリーで聴いた。
最初に流れたのはローリング・ストーンズの懐かしいライブの曲、“Goin' to a Go-Go”だった。そして数曲後にはスプリングスティーンの“ハングリー・ハート”が。
「朝の6時前に“ハングリー・ハート”だなんて、聴く時間を完全に間違えた!」と思ったのだけれど、これが意外なほど良かった。手を動かしながら聴いたからかもしれない。いや、眠っている間に見た夢とのバランスのおかげか。
それでもやはり“ハングリー・ハート”から始まる朝というのは、短編小説に仕上げられそうなほどの微妙さがある(良かったけど)。

さて、暗幕を寄せて、部屋を明るくしましょ。


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