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ぼくとフランソワ・シモンさんの15年。 18. 余談

※ こちらの内容は、ウェブサイト(現在は閉鎖)にて2016年~2019年に掲載したものを再投稿しています。内容等、現在とは異なる部分があります。ご了承ください。

余談・・・
数日前に渋谷の店へ行ったとき、お世話になっている岡本仁さんがお見えになりご挨拶をした際、とてもおもしろいお話を伺った。
時代的に岡本さんがマガジンハウスに在籍されていた時期なので、もしや・・・と思ってはいたけれど、なんとシモンさんの企画を立案されたのが、マガジンハウス編集者としてご活躍されていた岡本さんご本人だった。

このお話には本当に驚いた。
ご縁を感じるなぁと感慨深くなるぼくに、岡本さんは当時の裏話を詳しく教えてくださった。

岡本さんがパリに私用で行かれたとき、マガジンハウスのパリ支局長だった村上香住子さんからシモンさんの話を耳にされた岡本さんは、東京でそれができないだろうかと考えられ、当時のBRUTUS編集長に相談をされたところ、OKをもらえたことでこの企画が実現した。

ぼくが引用した『タンタンのマスクを着け、パリのバスティーユ広場に立つこの人物は・・・その過激さたるや、上司のお気に入りのレストランをこてんぱんにやっつけて大目玉を食らうなんてのは序の口で・・・』というリード文、同様に第二弾のリード文も岡本さんご本人によるものだった。
そして、ぼくが まがまがしさ漂うと形容した表紙のシモンさんの写真、これも岡本さんご本人が撮影されたものだったそう。
ちなみにこの写真、ぼくは意図的にモザイク処理されているものだとばかり思い込んでいたけれど、岡本さんによると「当時のもの(デジカメ)は性能が悪かったので、意図的にでなく不鮮明な写真になっているんです」とのことなので、デジカメの性能の悪ささえも結果的には意図せず助勢したことになる。

ぼくにはずっと気になっていたことがあった。
誌面には批評文、シモンさんご本人の写真と一緒にそれぞれの料理写真が散見するけれど、これらは俯瞰撮影されたもので、ぼくにはそれがどうも判然としなかった。
パンやお菓子ならともかく、料理を皿ごとお店から持ち出すなんてことはあり得ない。とはいえ、この綺麗に俯瞰撮影されたものがお店の許可なく撮影されたものとも到底思えないし、万が一そうだったとしてもお店側がそれを看過するとも思えない。企画を説明した上で撮影許可を得るにしても内容を思うとその時点で弊害が伴うことも十分に考え得るし、それこそ大胆不敵に思える。

ぼくのこの疑問についてもその顛末を岡本さんは詳しく教えてくださった。
レストランで食事をするとその日のうちにシモンさんは原稿を書き、翻訳されたその原稿と編集部の意図を書いた手紙をレストランに送られた。

「こうこうこういう意図でフランス人のレストラン批評家とあなたの店で食事をし、彼はこのような原稿を書きました。もちろん反論のスペースも用意します。ついてはあらためて料理の写真を撮影させてください」

「考えてみればとんでもなく厚かましいお願いです」と岡本さんは仰るけれど、なんて大胆不敵な。
これまでで一番過激な企画であったこと、その過程でいくつかのレストランからクレームが入り事情説明をして説得を、場合によっては謝罪のためにスーツを着て編集長と出かけられたというエピソードも教えてくださった。

ぼくの知る岡本さんは、いつもカジュアルで素敵な装いをされているのでスーツ姿を想像するのも難しい上に、謝罪されている姿など想像に及びもつかない。
すごい時代だなぁと感嘆した。
当時のぼくは読者の1人として「よくこんな企画を実現されたな、さすがマガジンハウスさん。やはり尖ってるわ」と能天気なことを思ったものだけれど、尖っていたのは岡本さんご本人だった。
舞台裏では、こうして苦慮されたことをいまになって知ることになった。

あのCasa BRUTUSが世に出なければ、うちの1軒目の店は間違いなく潰れていた。1軒目がなければ当然それ以降の店も存在しない。新宿の店も、そして岡本さんによくお越しいただく渋谷のレフェクトワールも。
ぼくと周りの人たちの人生を変えたといって過言でない1冊へ繋がる道を遡行すると、20年前の岡本さんに辿り着く。
ぼくは言い知れない不思議なご縁に感謝をするとともに感慨深い思いに駆られた。


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