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純粋に、幸せと感じた過去のこと。

この1年くらいはしんどいことも多かったのでふと、幸せを感じた時のことを思い出してみようと思い書いてみます。

漠然と抽象的な表現でいうと、私が幸せを感じるのは「つながった!」と感じた時だ。つながる相手は、もちろん人の場合もあるし、人でない場合もある。本を読んでいるときに思いもかけず「そうそれっ!それが言いたかった」や「自分の感性にとてもしっくりくる」考え方や表現に出会ったとき。ロジックな部分をもっと深めていくとその論理の世界でつながることももちろんあって、会話をしている中で実は頭の中で同じロジックが走っていた、と気づいた瞬間「つながった!」となって脳内でジュワッとセロトニンやドーパミンが出る音がする時がある。

一度、ドーパミンを無理やりドバドバ出す薬を処方されたことがあって、本当にジャバジャバ音がするように脳内で何かが出た感じを体験したことがあるけれど、それは絞り出しているからなのかなんなのか、夜は瞼がギンギンになって眠れないし、脳が休息を求めるころには身体の方はもうくたくたになってしまうので、私には制御し切れるものではなかった。今のテクノロジでは、幸せの感覚を人工的に作るのはまだよしたほうがいいように思った。

あとは芸術やアートに触れているとき。特に音楽に傾倒してきたので音と音が絶妙に巧妙につながっている作品や演奏に出会ったとき、気付いたら涙が流れている、というか目頭が熱くなって堪えきれなくなる。そしてそのまま涙を流すと心が少し浄化された感覚になって”なんということだ、ありがとう”と思う。ただ、親バカで息子の拙い演奏にも目頭は熱くなるのだけれども、これは親と子がつながった、つながりを確認したということなのだと思う。

”つながった”という感覚はほんの些細な会話の中でも突然やってくることもある。そんな時は”あれ、この人、俺がこんなふうに思ってたこと、気づいてたんだ”というような台詞が頭をよぎる。
なんだか辛い気持ちになっている時に自分の中にできている隙間にそっと温かい言葉を置いていってくれる人もいる。その気持ちと連鎖してまた瞼がじわっと熱くなり辛いという感覚が涙と一緒に流されて、次の一歩を踏み出せる。逆に辛い気持ちにとらわれて身動きが取れなくなっている人がいたら、せめて最初の一歩を踏み出すきっかけになるような気持ちを添えてあげられるといいなと思う。

やっぱり思った通りだ。幸せを感じた時のことを思い出して言葉で表現してみるとそれだけでも穏やかな気持ちがスッとやってきた。
少し詰めて作業をしていて、体に力が入りすぎて張り詰つめてて、目標に向かって進んではいるけど、進めば進むほどゴールにたどり着くには最初は見えていなかった障害が見えてきて、少し息切れしていた。

幸せについて改めて考えてみてよかった。
過去のことを思い出しながら書き進めてみて、思ったより抽象的な表現になったので、未来にもつながる時間になった。

最初、バンドで自分がボーカルで歌ってたときにお客さんが喜んでくれたとき、嬉しかったよな、みたいなことを思い出してみようと思っていたけれど、そうじゃなくて抽象的な文章になった。

でもね、最近はエヴァンゲリオン完結編の映画をみて、とても複雑な幸せを感じたとか言いたかった。使命宿命運命を背負った登場人物がそれぞれの役割の中で全力でもがき苦しみ、全力で戦い、全力で祈る、でも決していつも「全力」である必要はない、何もしない権利だって私たちにはある。そしてすべての生はどこかにつながっている。私にとってそんな物語でした。

そして、
私の幸せは「(ある意味死を覚悟して)表現すること」なんだと思った。
誰かの「決死の表現」と精一杯共存する行動なんだと思った。

おわり。

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