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「周波数が合わない」と自分のなかで言語化することにした。

「悪気がない」という表現がとても嫌い。悪気、あるでしょ。おそらく、多くの人が語る「悪気がない」状態は、言い訳をするほどの状態に陥っているはず。過度に故意にこの表現を遣う人間を、私は嫌悪したい。

例えば、ランチに遅れてきた相手が、「この店でカレー頼むなんてあり得ないよね」と言ったそばから、私が注文したカレーが運ばれてくるとか、私が乗り遅れるエレベーターで、いつも「閉」ボタンを押すのが同じ相手だとか・・・これを、「悪気がない」と表現し、だとしても、そもそも誰も「悪気がない」などと口にもしない。「悪気がない」ならば、それ以前の問題におさまるはずで、気にも止まらないほど些細なことになるはずなのだ。

仕事でもそうだ。やることなすこと、自分と合わないと感じさせる相手について、「悪気がない」などという故意の言い訳よりも、「周波数が合わない」と自分のなかで言語化することにした。特に仕事では、敢えて、そのように考えることで、自分と合わない相手は、自分と周波数が合わないのだと割り切ると、本当は嫌だが、意外と相手を受け入れるモチベーションが上がる。かなりしっくりくるので、気持ちが少し楽になった気がする。

個人的には「仕事ができる相手」よりも、「会話が成り立つ相手(議論になる相手)」の方が、関係性が構築できるので、本当は嫌だが、自分の心の持ち様を変える意味でもとてもいいと思った。相手が仕事ができるからこそ、会話が不要になる場合もあるが、それはある意味で例外的で、運命的で、会話をしなくても有意義な関係になることが多い。毎回の出会いで、その運命を待っているわけにはいかない。


本当は嫌だが。

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