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クラウス・リーゼンフーバー先生と今道友信先生の思い出

 本稿はいつもお世話になっている京都漱石の會の丹治伊津子会長からのご依頼で会報『虞美人草』の第30号(2022年12月発行)に寄稿した「夏目漱石と西田幾多郎 (2) クラウス・リーゼンフーバー先生と今道友信先生の思い出」の加筆修正版である。2024年3月は『存在と思惟 中世哲学論集 』(講談社学術文庫)や『中世哲学の射程 ラテン教父からフィチーノまで』(平凡社ライブラリー)など、クラウス・リーゼンフーバー先生の著作の刊行が相次いでおり、希代の碩学であるクラウス・リーゼンフーバー先生や今道友信先生から直接学ぶことができた若き日の幸運な体験を読者諸賢と分かち合うことで、多大なご学恩に僅かでも報いることができれば、これに勝る喜びはない。

「夏目漱石と西田幾多郎 (2) クラウス・リーゼンフーバー先生と今道友信先生の思い出」

 去る二〇二二年三月三一日は東西の神秘思想に通暁したクラウス・リーゼンフーバー先生(一九三八~二〇二二)と吉永進一先生(一九五七~二〇二二)がお亡くなりになり、生涯忘れることのできない日となった。奇しくも本年は最晩年の西田幾多郎と交流があった今道友信先生(一九二二~二〇一二)の生誕一〇〇周年と没後一〇周年に当たり、本稿の締め切りである二〇二二年一〇月一三日はご命日である。私は吉永先生の西田幾多郎や鈴木大拙に関するご研究については不案内なので、この大きな節目の年に西田哲学の研究者でもあった我が恩師リーゼンフーバー先生と今道先生の在りし日を偲びたい。

クラウス・リーゼンフーバー先生の思い出

 中世哲学研究の大家にしてイエズス会の司祭であるリーゼンフーバー先生は上智大学で長年に亘って教鞭を執り、多くの後進を育成した。カトリック禅のフーゴー・ラサール(一八九八~一九九〇)の後継者として、構内にあるクルトゥルハイム聖堂で坐禅会を主宰し、研究・教育・出版・宣教活動など多方面でご活躍されたが、とりわけ重要なのは、上智大学中世思想研究所の所長時代に伝説的な編集者である二宮隆洋氏(一九五一~二〇一二)と共に、監修者として『中世思想原典集成』(全二一巻)を刊行したことであろう。このシリーズには、日本だけでなく、世界で初めて近代語に翻訳されたテキストも含まれており、日本の西洋中世研究に残した功績は計り知れない。岩波書店から半世紀ぶりに出版された『西田幾多郎全集』(全二二巻)の編集委員でもあった。
 前号で私は西田のジェームズへの関心は大拙からの影響ではないかと仮説を立てたが、この『西田幾多郎全集』の新収資料である断章ノートには、ジェームズ『宗教的経験の諸相』の書名がメモされており、尚且つ西田が大拙宛の書簡で本書に強い関心を示し、日記にも「ゼームスのVarieties of rel. Experiencesといふ書物をかりてきてよみ始めた」と書かれているとの記述を見つけたので、あながち間違ってはいないのかもしれない。

 ただ漠然と思想史の研究者を目指していた若き日の私は、リーゼンフーバー先生が定年退職される前年の二〇〇八年から上智大学の聴講生として開講科目の大半を受講した。月曜日はピーター・ミルワード先生(一九二五~二〇一七)の聖書勉強会、火曜日はライデン大学から交換教授として来ていたW・J・ボート先生(一九四七~ )の江戸思想史の講義、水曜日は隔週でアルフォンス・デーケン先生(一九三二~二〇二〇)のキリスト教講座や、加藤信朗先生(一九二六~ )の講座でアウグスティヌスを読み、週末も何らかの学会に参加するという慌ただしくも充実した日々だった。

 リーゼンフーバー先生は「名は体を表す」といわれるように、二メートル近い長身で、文字通りの意味でも「巨人」(riesen)であった。ドイツ語訛りの流暢な日本語を話され、どの講義もハイレベルな内容だったが、問題は『超越に貫かれた人間』(創文社 二〇〇四)の中で「私の声は小さいとよく言われるのだが、それは皆さんが自分の理性でもってこの声を判断しているということである」と述べているように、マイクのスイッチがオンになっているとは思えないほど声が小さかったことである。可能な限り先生の学問を吸収したいと意気込み、一言も聞き漏らすまいと毎日のように始発の電車に飛び乗って一限目の講義から最前列に陣取ったが、教室内をよく移動なさるし、ただでさえ小声なのに、重要な箇所に入ると、だんだん声がフェードアウトしてしまうため、聴き取るのが非常に難しかった。「中世哲学史」の講義初日、予鈴が鳴るまで学生達は賑やかに談笑していたが、先生が入室されると一瞬にして静まり返ったのが強く印象に残っている。お一人だけ異空間にいるかのような、独特な存在感で、「歩くサンクチュアリ」と表現したくなるほど、いつも神聖な雰囲気を醸し出していた。

 ゼミでは「スコラ学の父」と呼ばれるカンタベリーのアンセルムス(一〇三三~一一〇九)の『プロスロギオン』や『モノロギオン』、『クール・デウス・ホモ』の日本語訳を講読した。先生には『知解を求める信仰』(ドン・ボスコ社 二〇〇四)という著作もあるが、このタイトルはアンセルムスの言葉で、理性と信仰の調和を重んじるリーゼンフーバー哲学の根幹となる概念である。一度だけこのゼミで西田に言及されたが、この講義に限らず、西田については発言しなかったように記憶している。二〇一五年に開催された没後七〇年記念シンポジウム「西田幾多郎を語る」にはリーゼンフーバー先生もご登壇されたが、私は事前申し込みが必要なことを当日になって知り、泣く泣く参加を断念した。せっかく西田の研究者に直接学びながら、西田については何も継承しなかったことは一生の不覚である(今年四月の時点では講演の模様が収録されている石川県西田幾多郎記念哲学館の雑誌『点から線へ』(六五号)が購入可能だった)。

 リーゼンフーバー先生はマルティン・ハイデガー(一八八九~一九七六)の孫弟子に当たり、二〇〇七年に行われたハイデガー・フォーラムで「私はかならずしもハイデガー学派の一人だとは言えないかもしれませんが、しいて言えば、ミュンヘンで哲学を学んだときに、最も多くを教えていただいた教員、指導教官を含めて三人の私の先生は、ハイデガーの直接の弟子でしたので、その影響を私も間接的に受けたはずです」と述べている。『クラウス・リーゼンフーバー小著作集』の第六巻『キリストの現存の経験』(知泉書館 二〇二一)にはイエズス会ドイツ管区が行ったインタビューの日本語訳が掲載されているが、本書でも「先生には非常に恵まれました。哲学では、ハイデガーの弟子だったマックス・ミューラー(Max Müller 一九〇六-九四年)。私自身はハイデガー派では全くありませんが。また、私の在学中に、ちょうどカール・ラーナー師(Karl Rahner 一九〇四-八四年)がインスブルック大学からミュンヘンにやって来て、二年間いました。そこで、私もラーナーの講義を聴くことができ、ゼミナールにも参加して、個人的に話す機会にも恵まれたのです。それが私の神学、思想に強い影響を与えています」と語っている。ラーナーについては、夏の暑い日に部屋を訪問した際、海パン姿で神学の本を執筆していたと伺ったこともあるが、普段あまり個人的なことはお話にならないので、二〇一八年に土曜アカデミー(聖イグナチオ教会で二〇〇九年~二〇一八年まで開講された思想史の連続講座)のハイデガーの回の終了後に勇気を振り絞ってご質問したところ、三人の先生のうち、二人はマックス・ミューラーとカール・ラーナーだと即答されたが、もう一人のお名前はとうとう思い出せなかった。ご本人にも確認したが、リーゼンフーバー先生がカール・ヤスパース(一八八三~一九六九)やハンス・ゲオルグ・ガーダマー(一九〇〇~二〇〇二)に師事したという噂はデマである。残念ながらこの日が最後の会見になってしまったが、リーゼンフーバー先生は一九六七年にヴァルター・ブルッガー(Walter Brugger一九二八~ )の『哲学辞典』(Philosophisches Wörterbuch)の分析哲学の項目を執筆しており、もう一人の先生はおそらく、同時期にブルッガーと共著を出したイエズス会士の哲学者でイエズス会が運営するミュンヘン哲学大学(HFPH)の学長であったヨハネス・バプテスト・ロッツ(Johannes Baptist Lotz 一九〇三~一九九二)ではないかと推定している。定年退職して間もなく、リーゼンフーバー先生が土曜アカデミーでハイデガーを取り上げた際、若き日のハイデガーがイエズス会の修練期を辞めたことについて、うつむき加減で残念そうに語られたのを思い出すが、ラーナーやミューラー、ロッツなど、ハイデガーには大成したイエズス会士の教え子が多かったことに気づかされる。今道友信先生もヴュルツブルク大学で講師をしていた頃、先生である反ナチの哲学者ルドルフ・ベルリンガー(Rudolph Berlinger 一九〇七~一九九七)と共にロッツを訪ねているが、戦争中の態度や師匠であるフッサール(一八五九~一九三八)への不義理を理由に「結局はハイデガーに会わないでしまった」と記しており、辻村公一(一九二〇~二〇一〇)を除くと、大井正(一九一二~一九九一)や木田元先生(一九二八~二〇一四)など、戦後にドイツへ渡った日本の哲学者の場合、ハイデガー本人とは会おうとしない傾向が見られる。

 本年四月六日に執り行われたリーゼンフーバー先生の葬儀ミサはコロナ禍のため、リアルタイムで配信され、現在もYouTubeで視聴可能である。弔辞を読まれた教え子の岩本潤一先生は、リーゼンフーバー先生の哲学博士のテーマはトマス・アクィナスに関するもので、神学修士のテーマは「カール・バルトとカール・ラーナーのマリアに関する神学的理解」、神学博士のテーマは「中世における自由と超越」だとご説明された。同じく教え子の一人で、リーゼンフーバー先生の講義音声をYouTubeに投稿されている光延一郎神父はドイツ留学時代にお母様のリザ・リーゼンフーバーから時々お茶に招かれ、ナチスに抵抗したイエズス会の神父で福者のルーペルト・マイヤー神父(一八四八~一九四五)と親しく、結婚すべきか相談しに行く途中、求婚者であるカール・リーゼンフーバー(エボニック・デグサの取締役)と遭遇し、導きを感じたと伺ったそうである。リーゼンフーバー先生やお兄様のハインツ・リーゼンフーバー元連邦議員(一九三五~ 政治家・化学者。第一次ヘルムート・コール内閣の研究・技術大臣)のミドルネームがルーペルトなのは、このことと無関係ではないのだろう。

 私は二〇〇九年二月二八日に行われたリーゼンフーバー先生の最終講義後の感謝の集いが終わるとすぐさま池袋ジュンク堂書店に向かったが、その理由は七〇年代初頭の新左翼論壇において「戦後最年少イデオローグ」として名を馳せた思想家の千坂恭二先生のトークイベントと日程が重なっていたからである。現在もいわゆる千坂派との交流は続いており、今年七月に行われた千坂先生の講演「マフノ運動とウクライナ戦争・アナキズムの精神史・グローバリストとの最終戦争へ」の文字起こしや、私の友人である平坂純一さんからのお誘いで、フランス国民戦線の創始者であるジャン=マリー・ル・ペン(氏はイエズス会の寄宿学校で学んだカトリックである)の回想録の日本語訳の校正を行っており、近いうちにKKベストセラーズから出版される予定であるが、ありがたいことに上智大学の聴講生時代に学んだ哲学やキリスト教の知識が意外な形で今も役立っているのである。

今道友信先生の思い出

 戦後日本を代表する哲学者であり、国語の教科書に掲載されている『温かいスープ』の著者としても有名な今道友信先生と初めてお会いしたのは、やはり上智大学の聴講生だった頃で、京橋の中央公論新社で定期的に開催されていた新教養講座「世界の古典・名著を読む」の「プロティノス『エネアデス(抄)Ⅰ・Ⅱ』を読む」の回であった。当時のレジュメやノートなどは全て取ってあるが、引っ越しの混乱でどの段ボール箱に入っているか分からず、公式サイトも既に閉鎖されているため、記憶を頼りに書かざるを得ない。私が今道友信先生や加藤信朗先生の講座を受講した理由は恩師である井村君江先生が両先生と交流があり、哲学を志しているのなら、会いに行った方が良いと勧められたからであるが、本当に素晴らしいアドバイスだったと思う。井村先生は青山学院大学に在学中、加藤信朗先生のお父様である精神科医の加藤普佐次郎(一八八七~一九六八)が営む平和寮に下宿しており、加藤信朗先生からラテン語を習われたそうで、加藤先生と今道先生は四歳年が離れているが、非常に仲が良く、今道先生はしばしば平和寮を訪ねていたとのことである。井村先生の夫である井村陽一先生(一九二九~一九六八)はプロティノスの美学がご専門で、日本を代表する美学者である竹内敏雄(一九〇五~一九八二)が後継者にしたいと考えていたほど、将来を嘱望された研究者であったが、若くして病没しており、交流のあった今道先生も追悼文集『陽 : 追憶井村陽一君』(一九六八)に寄稿され、丁重なお手紙を頂戴するも、締め切りに間に合わず、残念ながら掲載できなかったと伝え聞く。こうした経緯もあって、初対面の時に井村君江先生の近況をご報告したところ、今道先生からプラトン『パイドロス』の精緻な読解に感銘を受けたこと、もっとお付き合いしたかったが、早くに亡くなられたので叶わなかったことなど、井村陽一先生との貴重な思い出話を伺うことができたのである。

 本稿のテーマである「夏目漱石と西田幾多郎」との関連性であるが、今道先生は旧制一高時代に安倍能成校長(一八八三~一九六六)の薫陶を受け、東京大学では和辻哲郎(一八八九~一九六〇)に師事していることから、漱石の孫弟子に当たる。西洋古典学者の呉茂一(一八九七~一九七七)の紹介で西田との会見を果たした今道先生は鎌倉の高徳院で行った連続講演を書籍化した『今道友信 わが哲学を語る 今、私達は何をなすべきか』(かまくら春秋社、二〇一〇)の中で以下のように述懐している。

「西田先生が京都大学を退官後、最後に訪ねた学生が私です。私が西田先生のお宅を訪ねた時に、西田先生が大きな声で「人間魚雷は、人間を侮辱する最も卑劣な行為だ」と仰言(おっしゃ)いました。こういう勇気ある発言をされる西田先生のお宅の周囲には、いつも警察がいたのです」。

 このように、今道先生は『断章 空気への手紙』(TBSブリタニカ 一九八三)や『知の光を求めて』(中央公論新社 二〇〇〇)など、折に触れて西田との出会いについて執筆や講演をされているが、管見の限りでは、上田閑照(一九二六~二〇一九)のように、正面切って「西田幾多郎」というタイトルの本を発表していないため、その詳細についてはあまりご存知ない方も多いのではないだろうか。

 私は幸運にも二〇一〇年の七月に西田哲学会で行われた今道先生のご講演「西田先生と私 ― 運命的緊張の永続」を拝聴する機会に恵まれたが、二〇〇九年の夏に末期の大腸癌と診断され、主治医から余命一ヶ月との宣告を受けて、朝日カルチャーセンターや中央公論新社などの講座は全て中止になり、二〇一〇年の一月に最終講義が行われたので、ポスターを目にした時は思わず目を疑ったものである。

 この講演の記録は「西田哲学会年報」に掲載されており、J-STAGEのホームページからPDFファイルをダウンロードすることができるため、詳細についてはそちらをお読みいただきたいが、今道先生は西田から「君も西洋中世を追いかけてみてはどうだ。君は考えるとき、考えるのであって、図式にあてはめてはならぬ。図式で成功するのは科学であって、哲学にはならぬ」といわれ、「この西田の言葉は私にとって中世哲学について研究する動機付けとなった。そしてその成果がこの五月に病床で完成したのである。それが岩波書店から出版された『中世の哲学』という書物である。私の『同一性の自己塑性』という体系的主著も、西田の判断論が弁証論的構造論であるのに刺激されて、命題の機能としての超越論としてある程度の成果を得たことは、体系的思索においても、西田の論理に刺激されたからであると思う」と締め括っている。『中世の哲学』の帯には「構想四十年」とあり、まさにライフワークであるが、あとがきで「哲学的に最も強烈に私に西洋中世哲学の必要性を訴え、かつ命じられたのは西田幾多郎先生であった」と述べ、亡くなる直前の昭和二〇年五月二二日における西田の発言を引用している。

「アリストテレスでは論理(ロギーク)がフォルマーレでないことに注意しなければならない。すなわち、ザインとロゴスが合一していた。中世ではザイン(存在)はペルゼーンリヒカイト(人間性)を得て深まったが、ロゴスはそのままであったから、どうしてもフォルマーレ(形式的)となる。カントのローギイクはニュートン物理学の、すなわち自然科学の論理である。まだ本当のザインの論理になっていない。ロゴス自体を深める方向に君は考えてみないか。それはある意味で中世を追いかけることになる。その大事な中世の本当の意味の大哲学者はアウグスティヌスである。時間性も歴史性も意志自由の問題もあそこから深まって来た。それに比べるとトマス・アクィナスは器用にまとめただけの人だ。プラトン、アリストテレス、アウグスティヌス、この三人はどうしても尊敬しなければならず、読めば読むほど深さがわかる。西洋中世の哲学を本気でやらずに、ペルゾーンや時間性、歴史などわかるはずはない。私の独自の考えとしての無や場の問題も、西洋中世の思想の深まりと関係があるのだ」。

 この文章を読んだおかげで、私はすっかり中世哲学にのめり込んだが、それはさておき、今道先生は「ここから田邊哲学への、特にその中世なき歴史観への批判があったが、それは私も同感であった。当時在学中の一高の講堂で「文化の限界」という題で西田の後任、京大教授田邊元の講演を聴いたが、その際、種の論理の説明の一環に、国民と真理を媒介するものとして天皇が話題になり、その天皇も食糧不足で痩せてこられたと言い、流涙してハンカチで目を拭った。彼のその真面目さは、人を打つものがあり、それによって京都大学に進学を決意した友人は多かったが、私にとってはそれこそ愚かの極であって、当然ここに歴史哲学の欠片(かけら)も見ることはできなかった」と厳しく批判している。

 『出会いの輝き』(女子パウロ会 二〇〇五)によると、卒業を控えた今道先生は、安倍校長から進路を尋ねられ、「いいえ、京都には行きません。私は西田哲学に尊敬と興味をおぼえたのですが、田邊先生のお話は何か間違っていると思えるのです」と率直に答え、この問題について議論されたが、安倍校長は「偉大な思想家、特に偉大な哲学者は皆、何らかの意味で宗教を支えとしている。これを忘れてはならない。これがなぜであるかを考えることは、そのまま現在と永遠とを照らし合わせて結び合わせることになるのだろう」、「西田先生にはその宗教が生きていると思うが、田邊君には科学と歴史哲学と国家観だけで、まだほんとうの宗教がないのではないか」と述べたそうである。

 今道先生とは対照的に、同期である読売新聞主筆の渡邉恒雄氏(一九二六~ )は『渡邉恒雄回顧録』(中央公論新社 二〇〇〇)で「元々西田哲学に興味があったから京大に入りたかった。だけど戦時中でやむを得ず東大の哲学科に入った。主任教授が伊藤吉之助で、これは『哲学概論』という本を一冊くらい出したかね。およそつまらん哲学者だった」、「今道君は、一高時代からギリシャ語の原典を読んでいたそうだが、研究室でもラテン語の原書をスラスラと読んでいた。その能力にはとても及ばないと観念したんだ。彼がいたんでは、アカデミズムの哲学では食っていけないと」と回想している。

 『知の光を求めて』において、今道先生は「私の家ももともとは京都の出ですから、当然、京都の大学に入ろうと思っていたのは事実です」、「なぜ京大に行かないで東大に行こうと考えていたのか」について「今は田邊先生が主任教授だと知って、少なくとも私はこの先生のもとではどうしても勉強できないと思いました」と告白しており、もし一高時代に田邊と出会っていなかったら、今道先生が京大に進学し、渡邉氏が東大に残った可能性もあり、歴史が大きく変わっていたかもしれない。
 
 渡邉氏が酷評した伊藤吉之助は今道先生の恩師でもあるが、思想史的にも重要な人物で、第一次世界大戦直後にドイツへ留学した際、ハイデガーを家庭教師に雇っており、帰国に際して岡倉天心の『茶の本』の独訳をプレゼントしたそうだが、ハイデガーは本書に登場する荘子の「処世」という言葉の訳語である‘In-der-Welt-sein’(世界内存在)を主著『存在と時間』にそっくりそのまま転用していることから、伊藤は非常に憤慨していたらしい。今道先生は「ハイデガーが東洋の書物からヒントをえていることはほかにもまだありますが、このくらいにしときましょう。こういう話を私は伊藤先生からずいぶんうかがい、それにもとづき調べたのです」と述べており、近年、いわゆる「東京学派」の再評価も始まったことから、この問題についてはいずれハイデガー研究者たちによる検証が行われることだろう。

 今道先生は鶴岡中学校時代の弁論大会において教員であった日本中世史研究の芳賀幸四郎(一九〇八~一九九六)による高山樗牛に関する講演の中の「彼は『吾人はすべからく現代を超越すべし』と書いているが、私はあえて言う。我々はすべからく樗牛を超越せざるべからず」という言葉に衝撃を受けて以来、パリ大学やヴュルツブルク大学で教えるようになってからも、「文化を包含してこれを超越する宗教こそ、現代の課題でなければならない」との問題意識を持ち続け、一九五六年の夏にモロッコのトゥームリラーン村で開催されたという国際宗教哲学者会議で発表を行ったところ、戦後ヨーロッパを代表するリトアニア出身の哲学者であるエマニュエル・レヴィナス(一九〇六~一九九五)から褒められたそうである。この件について、島田謹二先生を偲ぶ会で息子さんである芳賀徹先生(一九三一~二〇二〇)にご質問したところ、「親父が!?」とたいへん驚いておられたのをまるで昨日のことのように思い出す。芳賀幸四郎の鶴岡中学校時代の教え子の中には小説家の丸谷才一(一九二五~二〇一二)もいたそうであるが、英語学者の渡部昇一先生(一九三〇~二〇一七)が入学される頃は既に都内の小学校に転任していたようである。

 上述したように、私は今道先生から多大な影響を受けているが、もしお会いしていなかったら、今道先生が敬愛してやまない法学者の田中耕太郎(一八九〇~一九七四)に関心を持つこともなく、田中峰子夫人(松本試案を作成した法学者の松本烝治の長女)とご子息である小説家の田中耕三(筆名:ジャン・ミネカイズカ)の旧蔵資料の数々を入手することもなかったであろう。峰子夫人の弟は日本哲学会の会長を務めたスコラ哲学研究の松本正夫(一九一〇~一九九八)で、今道先生は祖父の代から松本家と家族ぐるみのお付き合いがあり、その辺りのことも今道先生がお元気なうちにもっとお聞きしておくべきであったと深く後悔している。

 私は都内でご講演がある度に会場へ駆けつけるいわゆる追っかけの一人であったが、若気の至りとはいえ、余命幾許も無い今道先生が寸暇を惜しんで執筆作業に取り組んでおられた最晩年の時期に、白金台にあるご自宅まで押し掛け、約一時間に亘って、様々なご質問にお答えいただくなど、多大なご無理を強いてしまい、本当に申し訳なく思っている。

 病魔に冒された今道先生は西田哲学会の講演の際、「(西田先生は)どうしてあんなに良くしてくださったんだろう」と涙ぐんでおられたが、私も今道先生から受けた数々のご厚意に対し、ただただ恐縮するばかりである。当日は持参した『中世の哲学』にご署名いただき、「元気で哲学したまえ!」とまで揮毫してくださったが、今道先生やリーゼンフーバー先生から多大な学恩を蒙っているにも拘らず、何の恩返しもできぬまま今日に至っており、慚愧に堪えない。

 思い出すままに書き連ね、取り留めのない話となったが、私の拙い文章が、多少なりとも、リーゼンフーバー先生や今道先生のご業績を知っていただく一助となれば、これに勝る喜びはない。話は尽きないが、天に召された両先生に心からの感謝を捧げつつ、平安を祈念するばかりである。
    
(つづく)

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