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プレゼントは苦手だけれど

 先日、とあるプレゼントを貰った。全く予想していなかったので、感謝の言葉しか出てこなくて気の利いたことが言えなかったような気がする。プレゼントを貰うのは嬉しいけれど、同時に何かしらの反応を期待されているような感じもして、少しだけ苦手だ。後日、調子が上がらずに布団から出れなくなっているときにそのプレゼントの袋が目に入った。その瞬間、私は今まで気にもしなかった、しんとした感情があることに気付く。

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 誰かからプレゼントを貰うと、貰った物が嬉しいとか、その気持ちが嬉しいとか、そういう気持ちの中に、得体のしれない感情が生まれているような感じがする。「これが欲しかったやつだから、嬉しい」「その人に好かれていることがわかるから、嬉しい」「大切な人にもらったものだから、嬉しい」……。そんな、今だけの感情ではなくて、自分の中にもっと前から存在しているような、けれど、言葉にはできないから隠れたままの、むき出しにされてしまえば価値がなくなるような気持ちが、在ることだけはわかるのだ。きっとそれは、「誰かから誰かに何かを渡す」という行為の中に含まれる、潜在的な気持ちなのだと思う。自分が受け取った物の中に、あるいはその物を取り巻く環境の中にあるのではなくて、もっともっと昔から続く「渡す」という行為に含まれる気持ちの重なりだ。

経済の「交換」という脱感情化された領域があってはじめて、「贈与」に込められた感情を際立たせることができる。(中略)この区別は、人と人との関係を意味づける役割を果たしている。
松村圭一郎『うしろめたさの人類学』(P29)より引用

 誕生日プレゼントを貰ったとき、「あなたが生まれたこの日に、あなたが生きていてくれるそのこと自体にお祝いをしたい」という、誕生日に贈り物をするという行為が生まれた感情が引き起こされる。涙が出るほど素敵な音楽を聴いたとき、「この音楽があったから自分は自分でいられるのかもしれない」という、音楽に身を委ねた多くの人の感情が引き起こされる。その行為自体に含まれる感情は、歴史の中にたくさん生まれている。歴史と言っても、壮大なものではなくて、例えば自分のためになんとなく買ったのど飴を喉の調子が悪そうな友人にあげるとか、例えば余ってしまったバレンタインのチョコをその場にいた異性にあげるとか、そういう記録には残らないところで感情は積み重なっていく。その重なりが、今の自分が体感している行為の中に含まれていることを知って、言い表せないほどの気持ちになったのだ。それはあまりにも大きくて、物理的にも口にできないからこそ、私は知らないふりができていたんじゃないかと思ってしまう。

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 様々な時代、時間、場所、空間、気持ちで、私も、そしてほかの誰かも、誰かに何かを渡してきた。それはプレゼントに限らず、会話の中にあったり、こんな文章だったりもするんだろう。実際に会って渡すのは今の時代、そう簡単なことじゃない。渡せた気持ちも、渡せなかった気持ちも、ずっと抱えてきて生きてきたからこそ、「プレゼント」は苦手だ。けれど私は、これまでも、きっとこれからも、「プレゼント」によって励まされるのだろう。

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