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【3.11】見知らぬ「誰か」に

「山茶花と椿って何が違うんだろ」
「ほら、葉の形が違うでしょ」

 これは、つい最近した私と祖母の会話である。祖母の家にはお庭があり、花を咲かせた山茶花と咲きかけた椿があった。

 小学生のころの私より、今の私のほうがたくさんの花の名前を知っている。あのときだって、きっといろんな花を見ていた。それでも名前やその違いを知ってはいなかっただろう。

   ・ ・ ・

花は 花は 花は咲く

「花は咲く」作詞・岩井俊二 / 作曲・菅野よう子

 中学3年の夏、カナダにホームステイをした。出かけた先の公園で、聞き馴染みのある曲が聞こえて足を止めた。東日本大震災の際つくられた、復興支援の曲「花は咲く」。海外で聞くことになるとは思わなくて、私はつい聞き入った。

 小学3年のとき、宮城県に住んでいた私は東日本大震災を経験し、その曲は何度となく聞いた。そしてたぶん自分も歌った。その曲の中で、こんな歌詞がある。

誰かの歌が聞こえる
誰かを励ましてる
誰かの笑顔が見える
悲しみの向こう側に

   ・

誰かの思いが見える
誰かと結ばれてる
誰かの未来が見える
悲しみの向こう側に

 その当時は「誰か」なんて曖昧な、と思っていた。それは誰なんだい、と。

 けれど、22歳になった今、その「誰か」が身にしみてわかるようになった。上京し、色んな人と出会い、仕事をしてみて、その「誰か」がどんなものなのか、ちょっとずつ理解してきたような気がする。「誰か」は、この世界にたくさんいて、私自身もその「誰か」なのだと。

 その「誰か」に支えられたり、支えたり。傷つけられたり、傷つけたり。私自身が「誰か」になって、仕事をして大切な人と出会い、洋服についてる毛玉よりも小さなところを変えていく。私は、「誰か」を嫌いになり、好きになり、そしていつかいなくなる。 

 「誰か」と出会う瞬間を、このことに気づく前に体験したことがある。

 高校生のとき、仙台市図書館で借りた『勉強の哲学』(著・千葉雅也)に、洋型封筒が挟まっていた。宛名も裏書きもなく、封もされてなかったその手紙を、好奇心で開けた。中には本を読んだメモが、便箋にびっしり書かれていた。通常の罫線に2行書き込まれた小さな文字は、本を読んだ感想、というより哲学的な自己問答で、それにスッキリするような答えはなかった。

 それはまぎれもなく「誰か」だった。懸命に生きようとし、哲学書から学びを得ようとしてこんがらがってしまった「誰か」。そんな手紙を、東日本大震災を経てたまたま生きている私が読んだのだ。

 「誰か」が生きていることを知った、それは私がおとなになった証なんだろう。

  ・ ・ ・

 「誰か」がつけたであろう花の名前を、その違いを、今祖母に教わったこと。そうやって季節が変わっていくこと。それが13年で何回も繰り返され、私がいる。

 また春が来る。あたたかな春を、「誰か」が迎えられますように。


昨年末、宮城県七ヶ浜にて

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