線でマンガを読むタイトル

線でマンガを読む『古屋兎丸×荒俣宏』

古屋兎丸はマンガ家になる前には美術の教師だったそうだ。絵画の正統的な教養を有するその絵は、人体の質感を細やかに描きだす。表情に線を加えることに禁欲的な作家であり、なまめかしい身体を持つが、感情の読み取れない、人形のような、ヒトであってヒトであらざるようなキャラクターを描いてきた。古屋作品には独特の離人感がある。私の好きなのは、荒俣宏とコラボした『裸体の起源』

「マザーの花がひらく」。トビウオたちが浮足立っている。それは新たな人が誕生することを意味している。このたびは「嘆きのマザー」の花が開くという。人々はがっかりする。嘆きのマザーはいままで醜い人ばかりを生んできたからだ。

『裸体の起源』

しかし、彼らの予想に反して、嘆きのマザーから生まれたのは、とても美しい女性だった。男たちは、手のひらを返すように嘆きのマザーの娘を取り囲む。

『裸体の起源』

面白くないのは、女性たちだ。嫉妬に駆られた彼女らは、嘆きのマザーの娘に嫌がらせを行い、ついに殺そうとまでする。それを助けたのは鳥のイワサザイ。彼女に連れられて、娘は楽園から脱出する。イワサザイは言う。娘はその美しい肉体のために邪魔者扱いされた。「自分は何故 この世界に生まれてきたのか?」「自分自身とはなにか?」その答えを知りたければ裸体の森に行けばいい、と。

たどり着いた裸体の森で、嘆きのマザーの娘と、イワサザイを迎えたのは、多くの思想家、哲学者や科学者。娘と同じく真実を探求するものたちだ。先人たちは自身の着ていたものをすべて脱ぎ捨て、奇怪な姿に形を変えている。

『裸体の起源』

イワサザイは言う。「この肉体を着ている限り、私は飛べない種でしかありえない」だから、捨てよ、肉体を打ち捨てよ、と。

『裸体の起源』

そしてイワサザイに続いて娘も自分の肉体を破り捨て、新たなマザーとなる。

『裸体の起源』

かりそめの肉体の美しさに魅入られた楽園を出て、真実へといたる過程。そこでは服や肉体などいっさいのものが打ち捨てられ、ほんとうの私が現れる。肉体を引き裂いた娘は、その後、グロテスクなマザーとなり、胎内に次世代の種を宿す。この描写の、肉体の精巧な描写と、あくまで淡々とした線で描かれた顔のギャップが印象的だ。痛そうでもないし、楽しそうでもない。無表情だ。ここでも古屋の人間に対する距離感のようなものを感じる。体温が低い。なにかネガティブなことを言っているように聞こえるかもしれないが、そうではない。この体温の低さが、古屋の作家性なのだ。

荒俣は、古屋との打ち合わせでこう言ったそうだ。

「裸体の起源とも言うべき物語。肉体を全て脱ぎ捨て骨だけになってすべてを知る、というのはどうでしょう?」

骨だけになってすべてを知る、という発想が、古屋の冷たい筆致とマッチしたのだと思う。美しい荒俣のインスピレーション。またそれを具象化した古屋の線。見事なコラボといえよう。

※本コラム中の図版は著作権法第三十二条第一項によって認められた範囲での引用である。

(『裸体の起源』所収単行本)


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