エリートから降りられないと思った東大生の話

この記事はとみし様の「エリートから降りられない東大生の話」の記事を読んで思ったことを書いています。こちらの記事がとても共感でき、東大生の核心をついていると強く思いました。そして、さらに僕からも付け加えて伝えたいことがある。そう思って筆を取りました(実際はPC上ですが、、、)。私ととみし様とは知り合いではありません。


さて、「エリートから降りられない東大生の話」では東大生はエリート街道を歩むことに慣れていて自分・世間が思うエリート増加ら自分が外れていないかどうかが将来を選ぶ際の一番の判断基準になっている。そのエリートの道が東大生の将来の選択肢を大きく狭めている。選択肢が広がるはずの東大生が自由な進路を持てていないのではないのか、と言う内容でした(勝手に要約)。

この内容に僕はすごく共感しました。進路を考える時に、特にやりたいことがない人にとって、社会的地位が高いか低いかは大きな判断基準になります(僕もそうです)。でもその思いは社会的地位の高い仕事につかないといけないと言う縛りになって、僕を苦しめています。そのことに僕自身嫌悪感を抱いています。

このまま、なんとなくエリートの道を歩み続けてはいけない、そう自分を戒め続けました。

そして僕は、エリートの道から少しでも逃げないとと以下の二つのことを意識するようになりました。
①自分のやりたいことに挑戦する
②大学での環境と全然違うコミュニティに属する
自分の興味を知るために①を、エリートの道から降りるために②を、自分に対する処方箋として意識していました。

その結果というかなんというか、、、


僕は今、和歌山県の人口600人の集落で田舎暮らしをしています。


東大生、ましては大学に進学する人が稀な小さな漁村で、民宿とバーをやっている人の元に居候しています。来て早々にムカデに噛まれたり、複雑な交流関係を垣間見たり、今までいたことのない環境からの刺激を常に受けています。

地方の現状はとても厳しいと言わざるを得ません。若者の流出、高齢者の劇的な増加、新しいことに対する拒絶反応、ノウハウの欠如、荒廃する海、砂浜、森、、、
とても厳しい状況で問題意識を持つ人すら高齢で動きたくても動けないほど田舎は疲弊しています。

ただ、その状況に挑戦する人も少なからず存在しています。

昨年から地域おこしを担うNPOが地元の人たちによって作られました。
また僕が居候しているゲストハウスのオーナーは37歳で和歌山市内からこの村を盛り上げたいとやって来た人です。絶望的な状況の中で頑張っている人たちをみると、僕も何かできないかと強く思うようになりました。

オーナー達と話していて強く感じる田舎の問題点が「アイデアがあっても人材がない」と言うことです。地元の古民家を残さないと観光資源が失われてしまう、でも、なんとかしたくても動いてくれる人がいない。人材不足が露呈しています。ますます、自分にできることがあれば、何かやりたい気持ちが強くなりました。社会的の地位が高くはない、でも自分が心からやりたいと思う、この地域で町おこしをしたい思いは僕にとって初めての「強くやりたいこと」でした。

さらに、この村に対して何か力になりたいと思えば思うほど、自分がただの「居候」であることが挑戦を阻む壁になるように感じました。「責任は誰が取るのか」、「そもそも信頼を得られるのか」という点で、ただのゲストハウスに居候している大学生である僕は非常に無力です。地元の人と飲んで居たときにこの地域の厳しさの話が上がった時、地元のおばさんは僕にこう言い放ちました。

「(イワナギ)は大丈夫だもの。失うものがないから。(ゲストハウスの)オーナーは違うよ、身銭切って、生活かけてるもの。(イワナギ)は失うものないもの。悲しむわけないじゃない。」

この言葉は僕にとってグサッとくる言葉でした。でも、そのおばさんに僕は言い返せなかったし、ムカつくとすら思えなかった。だって事実だから。僕は何もかけていない。ぬるま湯の中で生きている。そんな自分が恥ずかしくもあり、このまま1年間ぬるま湯のままここで生活してハイサヨナラ、でいいのかと思わされました。

田舎の地域おこしにプレーヤーとして参加することはエリートの道から大きく外れることになるでしょう。でも、それが僕が一番やりたいことならエリートを降りてもいい。そう思いました。

しかし、ある時、オーナーと地元の人たちで飲んでいる時に、オーナーは僕にこう言い放ちました。

「(イワナギ)には、ここでいろんなこと挑戦してほしいけど、ここに居続けて欲しくない。この居候としての1年間すぎてここに滞在するのは俺が止める。(イワナギ)にはエリートの道を進んでほしい

僕はこの発言を受けてすごくショックでした。自分のやりたいことを一番身近であるオーナーに否定され、結局はお前はこの地域にとってお客様でしかないんだぞと通告されたかのように感じました。しかも、自分が降りようとして居たエリートの道に進むことを僕に対して願っていたのです。いろんな思いがぐるぐるしながらも、続くオーナーの言葉を聞き続けました。

「(イワナギ)に求めているのは、ここで一緒に頑張っていくことではないんだよ。ここでの1年間が、何かの糧になって、そのまま国の中枢を担う人になったり、経済界でビックになって、そこで俺らに対して何かしてくれることなんだよ。」

「この1年間は(イワナギ)へのある意味投資なんだよね。俺らにこれから国の官僚とか億万長者になることは難しいけど、実際(イワナギ)にはその可能性が大いにあるわけだからさ、、、」

「(イワナギ)が国に行ったり、国の経済の中心に行ったら、少しはマシになると思ってるよ。俺らとは違う世界を見てきてほしいし、それを教えてほしい。」

そこで僕は再びハッとさせられました。当然僕とオーナーは同じ人間だけど、ある意味一緒ではない。目の前のオーナーは「エリート」の道を駆け上がることはできないのだ。当たり前の話かもしれませんが、それでもその事実はとても大きなことだと気づかされました。

僕がここで「エリート」の道を降りるのは簡単だし、僕の自由である。でも、僕が進める「エリート」の道に進みたくても進めない人がいる。そういう人たちに思いを寄せていただいている僕が「エリート」の道をそれでも降りるのか、、、

結局、誰もが社会的な地位の高さには魅力を感じる。それは東大生に限りません。東大生はエリートの道以外に目が向きにくいのは事実です。ですが僕は他の道を見れば見るほど、自分がこの道を歩む意味、意義を強く感じています。だから、エリートの道を僕は歩みたい。むしろ、外れてなるものか。それが僕が大好きな人たちが僕に求めていることだから。

今も僕はこの地域に対して何かできることがあったらやりたいと思う気持ちは変わっていません。むしろ住み始めて2ヶ月にしてますます気持ちは強くなっています。

でも、自分は「エリート」の道を進みたいと今は思っています。

東大生の中でそこまで思って「エリート」の道を進む人がどれぐらいいるか、多分少ないでしょう。僕は地方の田舎に行くことで、一度「エリート」から降りかけて、始めて「エリート」になりたいと強く思うようになりました。

「前に座ってる経済学徒が『東大経済いて、外銀外コン総合商社デベ官僚以外は落ちこぼれ』と豪語した」というツイートを僕も見かけました。発言者について僕は多くを知りませんが、この人は多分「エリート」を降りかけた上で言っている訳ではないのかなと思います。非常に軽率な発言です。

ただ一方で、僕はそんな外銀外コン総合商社デベ官僚に進みたいです。それが「東大生だからこそなれる」ことだから。それ以外の進路を選ぶ人たちを落ちこぼれだとは思いません。でも、その道に進めない人が日本の中にどれだけいるのかを知ることなく「なんとなく自分がやりたいから」と安易に捨ててしまうのであれば、ある意味「落ちこぼれ」なのかもしれません。

とみし様は記事の最後を「そう言う『エリート』から降りたい」と結んでいます。

僕はその言葉にこう応えたい。
僕も降りたかった、でもやっぱり僕は『エリート』から降りられない

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