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2019年夏カザフスタン・キルギス旅行~ヌルスルタン編~

〇出発

・通貨


 当日は朝成田を発つ飛行機に乗るので、前日に関東へ出ておく必要があった。前日夜は佐倉市の志津駅近くのネカフェに泊まった。ここでは通貨についてや、現地の都市内の路線バス等について調べた。カザフスタンの通貨はテンゲだが、日本でテンゲに換えられるか怪しく、現地で日本円を換えてくれるかも怪しいので、成田で米ドルに換えておくべしとのことだった。キルギスの通貨はソムであるが、これも同様。成田ではとりあえず残りの予算の2万円程度を米ドルに換えた。

・現地での交通機関


 カザフとキルギスでの移動には、バス(トロリーバスも走っている)やマルシュートカが便利である。路線バスや、都市間の乗り合いのものが走っている。市内でどこに行くときどのバスに行けばよいかは、「2GIS」というスマホアプリを使うのがおすすめである。予め当該地域の地図をダウンロードしておけば、現地でオフラインでも使用でき、何時何分に何番のバスに乗ればよいかがすぐにわかる。バス車内ではバス停の名前なぞが表示されるわけではなく、アナウンスされているようだが、ロシア語なので全くわからない。しかし、GPSをオンにしていれば、2GISアプリ内で自分がどこを走っているか把握できるので、それを見て降りる時期を見計らえばよい。運賃は現金かICカードだが、ICカードが主流のようで、どこかで贖い求めることができるそうだ。現金なら、市内なら一律いくらか決まっているようで、降りるときに運転手に適当に小銭を渡せば、足りなければ更なる支払いを要求するし、多ければお釣りをくれる。運転手は大変不愛想だが、助けを求めれば無愛想かつ親切に助けてくれる。困ったら何らかの意思表示をすることが大切である。

 SIMカードを買おうかと思ったが、面倒なのでやめておいた。2GISはオフラインで使えるし、どんなに安いホステルでもWi-Fiは完備されていたので、全く問題はなかった。


・ヒコーキ


 成田空港のチェックインカウンターは、他の航空会社のカウンターからは離れたところにある狭いところだった。ベトナム航空などと一緒だったと記憶している。ヌルスルタン行きのはSCAT航空という航空会社だが、就航したばかりだからか空港内案内板には記載がなく、Eチケットも適当なものだったので探すのに苦労した。多くの人でごった返していた。航空券はA5の普通紙のものだった気がする。
 飛行機内は予想通り狭く、モニターも無かったので退屈であった。はじめは持ってきた書物を読んだりしていたがすぐに飽きて、ウトウトするのと、機内食を食べたのみであった。意外に多くの日本人が乗っていた印象だった。ヌルスルタンに到着してから空港の外にでるまでも万事スムーズに進んだ。

〇到着

・街への移動

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※ヌルスルタン・ナザルバエフ国際空港


 外に出ると日差しが強く暑かった。周りは広々とした植物の少ない砂漠地帯が広がっていた。空港は街から離れているのでバスに乗る必要がある。早速2GISを使うことになるが、私はかねてからモスクなるものを見たいと思っていたので、ハズィレット・スルタン・モスクへ向かうことにした。カザフスタンではイスラーム教徒が国民の7割を占める。
 30分ほどの乗車時間はずっと外を見ていた。荒涼とした風景から急に建物が現れ、車も急に増える。途中、ナザルバエフ大学なる学校が目に入った。民主主義国家に住む私からすれば、大統領と同じ名前の大学が存在するなど、それだけで独裁国家ではないかと思わせる。我らが民主主義国家日本には、アベ大学や、アキヒト大学、ミチコ大学などはない。

・ハズィレット・スルタン・モスク

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※ハズィレット・スルタン・モスク


 モスクの近くのバス停でバスを降りるとそこは都市であった。大きな建物が立ち並び、丸やピラミッド型をはじめとする特徴的な巨大建造物たちが遠く近くに見え、先進的な雰囲気を感じさせる。都市の周りは荒涼とした中央アジアっぽい風景であることを想像すると、なおさら、ここははるか内陸にある文明の進んだ街なんだという思いになる。

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※街の交差点


 モスクは巨大施設で、メインの入り口を探すのに歩き回らなければならなかった。看板によると、中に入る際のドレスコードがあるらしいが、周りの人を観察していると案外カジュアルな格好の人間も中に入っている。女性は入り口で貸与される全身を覆う青緑の服を着用する必要があるようだ。私も中に入ってみた。靴は脱いで入る。

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※モスク内部空間


 外と対照的に中はひんやりとしていて涼しく、静かで快適だった。広い内部空間にはじゅうたんが敷かれており、人々が座ったり寝転がったり思い思いの姿勢で過ごしている。私も座って休んでいると、広間の一角の格子状の帳のようなもので仕切られた場所で何やら説法が始まった。観察していると、聞きたい人は仕切りに入口でいくらかのお布施を払って中に入り、有難いお話を聞くようだ。しかし、帳の外にいても声はしっかり聞こえるので、外でフリーで聞いている人も多くいた。説法は1回10分ほどで、何度も繰り返される。私もフリーでそれを聞いたが、何語で話しているのかすらわからなかった。途中、聴衆が決まった動作をするので、私もその動作を真似て、如何にも真剣に聞いているような素振りを見せた。

〇宿へ

・街なみ

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※街を眺める


その日の宿は、ネットで一番安い街中のゲストハウスを見つけて予約した。1泊400円程度のくせに、ELITE HOSTELという名前だ。
 まだ日が高かったので、チェックインする前に街を歩くことにした。大きな都市だが空間が広く、公園のような広場が至る所にあった。ピラミッド型の建物を見たり、大きな川沿いを散歩したりした。道路は広く、走っている車は日本車やドイツ車が多い。路線バスも多く目につく。立ち並ぶ建物は新しい。キリル文字が読めないので何のための建物かわからないことが多かったのが残念だ。あまり観光名所のようなものはなさそうなので、明日の夜行列車の発車時間まで時間が余ってしまいそうだと思った。


 宿の中はきれいでシャワーもあり、寝具も清潔で快適だった。中には欧米人バックパッカーとアジア人が半々くらいだった。適当に挨拶とシャワーを済ませ、ご飯を食べようと再び外に出た。近くにバーガー屋があったので入ってみたが、他に客はおらず、不気味なほど静かだった。店員は英語が通じず(この旅行で英語が通じたことは少なかった)、メニューもロシア語であるが、黒パティのバーガーと白パティ―のバーガーがあることがわかり、私は黒を選んだ。ほどなくして出てきた黒パティバーガーは具が大変多く、焼き立てで、見た目からしてジューシーであった。使い捨てビニール手袋が付属しており、手を汚さず食べられる配慮がなされている。味は覚えていないが確か美味だった。

・タバコ事情

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※タバコ箱


 宿に戻り、玄関でタバコを吸った。私は海外で日本のタバコを吸いたいと思い、わざわざ普段は吸わぬHILITEなんぞ買って得意げに吸っていた。カザフ、キルギスではPARLIAMENTがよく目についた。同じくタバコを吸っていたカザフ人と1本交換して、カザフのタバコ箱を見て驚いた。箱にはタバコに侵された臓器の生々しいや病気の赤ん坊の写真がプリントされており、タバコの健康への害悪が強烈に訴えられていた。だが現地で買ううちにすぐに慣れてしまった。タバコに興味がある非喫煙者には抑止効果があるのかもしれないが、喫煙者に対する効果はほとんどない。

・食事


 タバコを交換したカザフ人が、身振り手振りで、ご飯を作ったから食べろという。果たしてキッチンへ向かうと、ラグマン、サラダ、肉の焼いたものが用意されており、有難くいただくことにした。ラグマンは小麦麺にトマトなどの野菜が入った汁をかけたもので、あっさりしていて美味だった。野菜の風味が心地よい。肉は脂身が多く、旨かったがヘビーだった。大皿から常識的な量を取り分けて食べたが、有難いことに、やれもっと食えとしきりに言ってくる。本では中央アジア人のおもてなしの厚さについては読んだが、これもその文化の表しなのだろうか。すでに直前に1食食べたばかりなので、苦しかったが、身も心も満たされた。

・同宿の人たち


 食後、ご飯を作ってくれたカザフ人と、もう一人のカザフ人、2人のタジク人、2人のウズベク人と幾らか交流した。カザフ人とは、私のスマホを使ってグーグル翻訳で会話した。私はスマホに日本語で話しかけ、グーグルが通訳しロシア語に起こす、カザフ人はロシア語でスマホに話しかけ、グーグルが日本語に起こすという具合である。明日街を歩きたいという私に、おすすめの場所をいくつか、フェイスブックのメッセンジャーも使いながら教えてくれた。
 2人のタジク人は私のスマホでYouTubeを見て遊び始めた。何やらタジキスタンのアピールをしたいそうで、タジキスタンの自然公園をタジク大統領とウズベク大統領が共に歩く動画など見せられた。私は負けじと、日本の山の動画を見せ、「見ろ、日本の山は季節で色が変わるんだぞ」などと得意げに説明した。

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※スマホで遊ぶタジク人


 2人のウズベク人は20代半ばの兄弟で、兄は英語教師、弟は空手選手(強いぞと主張していた)だそうで、なんと英語を話すことができる兄弟だった。カザフ人とタジク人に比べ、ウズベク人は顔の色が濃く掘りも深く、比較的イケメンである。兄はここぞとばかりにベラベラと英語を話しだしたが、英語力も乏しい私は理解するのに苦心した。

〇ヌルスルタン観光


・宿のロシア人
 翌朝目が覚めると、「ロースキー」(ロシア人)を名乗る小さな男の子がこちらを見ていた。大部屋の窓は解放されており、その外からやってきたようだ。ロシア語で何か話しているが全くわからぬ。どうもこちらへ来いと言っているようなので、おれはヤポンスキーだと言いながら窓から外を覗いてみると、隣の部屋に母と妹と泊まっているらしく、朝食中であった。邪魔するのも悪いので男の子の言うことは聞かなかったが、男の子は何度もいたずらっぽく現れ、そのたびに母に呼び戻されていた。

・水族館

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※水族館への道中見つけた像

 チェックアウトの時にロースキー母と話をした。私と同じくらい英語が話せるようで、お互いの旅の健闘を祈り、別れた。その後私は、前日夜にカザフ人に教えてもらった観光スポットへ向け歩き出した。まずはAilandという水族館まで暑い中1時間近く歩いて到着した。中には想像以上に多種の魚がいる。海の魚が入った大水槽もあり、人は内部のガラストンネルに入ってあたかも海の中を歩いているような状況で楽しむことができる。海からはるか遠い内陸国なのに、一体どこから海水を持ってきているのであろうか。説明書きには黒海と書かれていたような気がするが、記憶違いかもしれない。


・韓国庭園

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※韓国庭園


 次に、韓国庭園に行った。教えてくれたカザフ人が建設に携わったそうだ。なぜ韓国庭園があるのかと思ったが、ここで「中央アジアを知るための60章」における朝鮮人移住に関する1節を思い出した。
 中央アジアには、60年以上前にロシア極東から追放された朝鮮人とその子孫のほか、第2次大戦中に日本によってサハリンへ強制連行された朝鮮人が中央アジアへ移住してきたケースや、北朝鮮からの亡命者がいるようだ。ロシア極東にいた朝鮮人は、飢饉や日本の植民地支配から逃れて移住してきた貧農や漁民で、彼らはソビエト国籍を取得し、コルホーズと呼ばれる集団農場に組織された。しかし1937年に朝鮮人がスパイとして日本に協力することを恐れたソ連政府は、朝鮮人の中央アジアへの強制移住を命じ、17万人以上が極東から追放され、極東へ戻ることが禁じられ、限定された居住区で暮らすこととなった。1950年代にこの制限が撤廃されたが、極東への大規模な移住は起こらず、多くの朝鮮人が中央アジアに残っている。この庭園がそれらにどう関連するのかはわからないが、朝鮮の独自の民族料理などの文化は、バザールなどを通じて中央アジアでも親しまれているそうだ。

・ゴロツキ氏


 そのようなことをぼんやりと思い出しながら庭園に行った。庭園は解放されているが人はほとんどおらず、静かで心地よい場所だった。ここで次はどうしようかとベンチに座ってタバコを吸いながら地図を見ていると、一人のサングラスをかけ、シャツにジーンズを着用したゴロツキ風の男がチャイニーズかと尋ねながら近づいてきた。タバコが欲しいそうなので1本渡したが、ひっきりなしにお金をせびってくる。米ドルでもいいからよこせと言っているようだ。ゴロツキ氏は酒臭く、およそ善良な市民ではないと想像できた。

 私はちょっとおちょくってやろうと思い、仰々しく5テンゲ硬貨(日本でいう1円玉のようなもの)を渡したところ、ゴロツキ氏は憤慨し、もっと持っているだろう、よこせと言う。そこで、札を数枚ちらつかせると、必死になってつかみに来るので私は面白くなってしまい、出したり引っ込めたり繰り返してしまった。氏は本気で憤慨し始めたので私は無視して庭園を出ようとすると、喚きながら腕をつかみついてくる。やがて門についたところで氏は私を陰に引き込み、殴るふりをするなど脅迫じみたことを始めた。

「おい東洋人よ。オレサマを舐めてねえで金をよこせ。ボコるぞ。」

「とんでもない。私はお金を持っていませんよ。」

ヘラヘラしているとやにわにヘッドロックをかけられたので、振りほどいて走って逃げた。氏はしばらく追いかけてきたが、すぐに追跡をあきらめた。


 後で出会った人にこのことを話すと、アル中の悪い人たちが観光客から無理に金やタバコをもらおうとする事案が時々あるそうだ。ゴロツキ氏のような人はそれで生活を成り立たせているのだろうか。だとするとカモとなる不幸な観光客が余程多いに違いない。庭園には私のほか欧米人の家族連れがいたが、氏のような反社会的人物はおそらく、一人でいる弱そうなカモを見計らって脅しに来るのだろう。一人で行く東洋人はナタとかピストルとか持って、指1本でも触れさせてたまるかというくらいの気概を身に着けて訪問したほうがよさそうだ。

・バイテレク

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※バイテレク


 程なくして中心部の大通りに出ると、バイテレクという高さ100mくらいのタワーにたどり着いた。ヌルスルタンの象徴的存在だそうだ。ここの展望台に上るとナザルバエフの手形があるそうなので、ぜひ私も手を触れたいと思い上ったが、大人気ナザルバエフの手形の周りは、どうしても手形に触れたい烏合の衆の分厚い壁で防御されており、私は到底近づくことができずにおめおめと退散した。

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※バイテレク展望台

・未来エネルギー博物館

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※未来エネルギー博物館


 この日最も楽しみにしていたことに、2017年に開催された万博に関係のある、未来のエネルギー博物館を見に行くことであった。これは巨大な球形の建物で、見た目から次世代感漂う博物館である。意気揚々と向かうと、何ということか、休館日であった。周りを散歩しただけでここでもまたおめおめと退散してしまった。

・ハン・シャティール

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※ハン・シャティール


 少し寂しい気持ちでバスに乗り、ハン・シャティールという超巨大ショッピングセンターに来た。ここもまた独特な形状の建造物で、人が大変多い。中を歩いたが特に買いたいものもなく、フードコートで晩飯を食って出てきた。

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※フードコートの飯

・夜行列車でアルマトイへ

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※旧ヌルスルタン駅


 この日は、翌朝アルマトイに到着する夜行列車に乗る予定だった。段取りの良い私は出国前にネットでチケットを買っておいたのだ。速度の速い高めの(といっても安い)夜行列車と、時間のかかる鈍行のような夜行列車があるが、短い旅行期間、夜の移動に時間をかける必要がないと判断した私は速いほうに乗った。ヌルスルタンには新旧2つの駅があり、私が乗った夜行列車は旧駅発であった。人は列車に乗る前に、どちらの駅に行くべきかよく確認すべきである。旧駅にてシャワーはないかとダメもとで探していたら、地下にシャワー室があった。入り口で、日本の銭湯でいう番頭さんのようなオバサンに小銭を払って使用する。石鹸などは置いてないので事前に用意する必要がある。夜行列車勢にはありがたい施設だった。

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※夜行列車


 駅のアナウンスはロシア語なので理解できないが、時間と電光掲示板と人の流れを見てホームにでた。乗る前に入り口でパスポート提示を求められたが、駅員は物珍しく日本のパスポートを眺めていた。車内は狭い空間に2段ベッドがあり、寝るだけであれば快適である。アルマトイまで13時間くらいかかったが、ほとんど眠って過ごした。水などは予め駅の売店で買っておくべきである。

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