「あたりまえ」が「あたりまえではない」ことに気づくとき
そろそろ、あたりまえがあたりまえではない話をしたい。
諸事情で家にいる時間が長くなっている。
家にいる時間が長いので、家族に料理をつくる頻度も増えている。
仕事の合間をぬって買い物に行って、子の帰宅時間にあわせて料理を準備する。ある程度料理はできるけど、レパートリーが豊富にあるわけではない。
似た料理になってしまったり、味付けがあまり変わらなかったりもする。
そんな中で、できるだけおいしく食べてほしいなと思ってつくるがそうもいかない。
子も忙しいので、
遊びに夢中で料理が冷めてしまう
なんだか箸が進まない
食べ始めるものの、食べ終わるまですごく時間がかかる
といった状況が起きる。
この「あたりまえに料理をつくって、あたりまえに食べない」状況にイラッとした。はじめは、言語化できず妻に申し訳なかったが、しっかり相談して、この気持ちをうまく言語化できた。
献立を決める、買い物する、できるだけ美味しくつくる、美味しく食べてもらうというサイクルをうまくまわしたいのだが、自分の期待通りには進まない日が続いていくとなかなか気が滅入る。子がもっと幼かった頃も同じようなことがあったなと想い出した。
それと、自分が子どもだった頃に母親が
「もうお母さんは料理をつくりません!勝手にしなさい!」
みたいなモードになったことも想い出した。
今ならこのお母さんは料理つくりませんモードがよく理解できる。
あたりまえに料理をつくってもらえること
あたりまえの料理に感謝せず、自分の都合を通すこと
悪気はないのだが、
このあたりまえがあたりまえではないことに気づくのに、ずっとずっと長い時間がかかる。あたりまえがあたりまえでないことに気づくには、他人から言葉で教えてもらうのではなく、自分の心で理解しなければ気づけない。
だから、あたりまえを提供しつづけてある日相手が気づく日をずっとずっと待つのである。
つらくながい道のりだけどやってみるかなー。
なにとぞ。
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