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今の世界と情報と、どう向き合うべきなのか?


世の中と良い距離を取る、ということ

I’llです。
本日より「I’ll Note」の更新を再開します。
更新を停止している間、多くの段階を心理的に乗り越え、また世界や社会を取り巻く情勢も変化しました。しかし、以前私がこのブログの方向として考えていた思想的路線は踏襲したいと思います。
今回は、休止中に練っていた一連の記事に先立って、情報リテラシーに関して考えたことを書いていこうと思います。

原稿中というか、切迫詰まっている間はかなりナーバスになっていまして、情報の心理的悪影響を考慮し、しばらくニュースから離れていました。それくらい、人類は世界中でロクでもないことばかりしてますし、それにフォーカスするのがマスコミです。
その生活を続ける中で、世界や社会で起こる出来事をリアルタイムで知らなくても何一つ生活に影響はなく、むしろ精神的に安定して過ごすことができました。この世の中に氾濫する情報のどれが自分に直接影響があるのか、という点では99%くらいが遠距離の間接及びほぼ無関係で、天気と交通情報だけは知る必要があるかな、という印象です。
こういうことを言えば平和ボケと批判されるでしょうが、どれくらいの出来事に自らが直接アプローチし影響を与えることができるのか、を具体的に考えてみると分かりやすいと思います。
例えば、岸田総理の政治的采配に不満がある、と言っても私たちがリコール活動をできるわけでもなく、またその実行力もありません。仮に、社長が間違った考えでリスクのある投資に動いているとしたら、社内を巻き込んだり直談判することもできます。
知識には、行動に使うことのできる「アクティブな情報」と、予備的にストックしておく「パッシブな情報」の二種類があります。
政治や社会情勢の知識は、自分がよほど権力や高い社会的地位を持っていない限り、ほぼ使うことができないパッシブな情報です。
しかし、バナキュラーな情報は、だいたいアクティブである場合が多いです。自分の身が及ぶ範囲内なら対応や行動が可能であるからです。
さて、何が言いたいかというと「自分の手が及ばないことはいくら考えても何もできない」ということです。酷な言い方をするようですが、何もできないということは、何もしないことと同じです。
こう言うと「考えることや知ることが大事なのだ」と反論なさると思います。私も無知や無思慮が決して良いとは思っていません。
しかし、私たちが常日頃接する膨大な情報は予めフィルタリングされたものであり、ステルス的な悪意が忍ばせてある可能性について、専門家でも見分けることが困難なものです。私たちは、その情報を無分別に受け取り、いちいち素人考えで解釈し、何かできないかと思い悩みます。ですが、どこからどこまで信憑性があり、どこからどこまでが実現可能であり、どこからどこまで希望を持つことができるのか、その有象無象に対して、果たしてどこまで本気になるべきなのか、今一度冷静に見つめる機会が必要なのではないかと思います。
日々流れるニュースやトピックのほとんどが、どこまで信憑性があるかは不透明で、かつどの程度断片であるかも見えず、それを知ったところでできることがどれほどあるのか。
そのことを知らず、目の前を通り過ぎる情報にただ闇雲に目を追っているだけでは、私たちが他に使うべき大切な時間をお座なりにしてしまうだけではないでしょうか?

「空気を読む」ために情報を活用する

前言撤回とは言いませんが、原稿が終わり精神的に余裕が生まれた現在では、あらゆるジャンルのトピックに触れています。
ただ、それはほぼ流し読みです。情報が色づけされたものだと考えた上で、要所要所の事実だけをかいつまんで総合的に解釈します。
オールドメディアにはわかりやすい傾向がありますし、「逆神」とも言うべき圧倒的なセンスのなさを発揮するメディアもあります。それを理解した上で情勢を分析すると、かなり全体像が見えやすくなってきます。
その中で、情報の一つひとつは読み込んでも大した意味はなく、マクロを知るには末梢は微々たるものだったりします。
ニュースを読むのは、趨勢を知るためです。流れを知れば、あらかた世の中がどの方向に向かうのかをぼんやりと見ることができます。目の前で起こるミクロなトピックばかりを追っていたら、物事を大きく見ることができません。
特に、組織や国のトップがどう考えているか、その取り巻きの勢力の質、なんかをよく分析します。この部分はマスコミがかなりバイアスをかけて報道するので、多少テクニカルではあります。ですが、船頭がどっちの方を向いているかは、進路を見る上でこれ以上参考になることはありません。
何を言いたいかというと、私たちは日々流れるニュースに一喜一憂し、憂いがあれば未来が不安になり、それだけで日常の幸福や充実感を削られます。大人は世の中を知るため、こういうもんだと割り切ってニュースと向き合います。しかし、その情報がどの程度役に立ち、どれほど脳のリソースを割かれているかについて無自覚です。そして、ミクロな話題に終始すれば、大局を見ることもままならぬ状態で右から左に流れる情報を目で追うことになりかねません。
だからこそ、私は「ニュースをまともに読んではいけない」と思っています。語弊がありそうなので補足しますと、記事を鵜呑みにせず批判的分析をして、総合的に情報を処理するという考え方です。
たまに記者の中にとんでもなく濃いレポートをする人もいますが、そういった珠玉のジャーナリズムでさえ情報と距離を取るべきだと思います。
とにかく、大まかな大局がわかればよく、大局の読みがだいたい合ってきたら、あとは自動運転で様子見です。私はそうして情報と距離を取ることで、様々なネガティブな情報を変換して受信しています。まあ、原稿中は誰が何人犠牲になった、とかの話題が特に神経に触れる時期でもありました。出来事だけではなく、ネットもTVも新聞も、情報媒体はもれなく欺瞞と悪意だらけだと常々感じます。

「真実」は、常に反証可能である

現在、世界中で陰謀論が国家的脅威となっています。陰謀論は事実が一部の人しか知らない、あるいは完全に秘匿されていることを逆手に取り、無限に実証不可能な言説と悪魔の証明を促してきます。それは証明不可能である以上非科学であり、非科学であるからこそ非知性的な暴力を纏うことができます。
その脅威はすでに顕在化しています。国家の安全保障の面では懸念されるテーマになっています。SNSなどのネットメディアに触れている方ならその悪質さは容易に認識できるでしょう。こういった扇動は至る所に見られるため、その影響力に比例して脅威となりつつあります。
だからこそ、今を生きる私たち市民はあらゆる情報を分別し、批判する能力とリテラシーを身につけることが求められています。その大きな要素、「科学的」「合理的」「本質的」という点に目を向ければ、見破ることは容易いはずです。
世の中を支配する法則は例外はなく、全てが反証可能であるからこそ真実であると言えます。陰謀論者の言説は、証明できないからこそ強制力があり、また非論理的に人々の感情を煽るからこそ合理性を無視できるのです。
世の中には読解力が見た目以上に乏しい人も多く、いかに解説しても納得してもらえないことも多いです。彼らの目を覚ましてやろう、というのは烏滸がましいことかもしれません。
せめて、自分自身や身の回りの人がそういった誤謬に陥らないように目を見張り、思想や心を守ってあげることが大切だと思います。
今、現代人に最も求められるスキルは情報との距離感だと思います。面だけを見ず、部分だけを見ず、それでも第六感で見通すような鋭さがあれば、危険な情報に惑わされずに生きられるはずです。

よく中高年が「昔は平和で良かったなあ」と言っているのを目にしますが、昭和平成はあらゆる情報をマスコミが独占していて、世界中の危険な出来事や危機もマスコミのフィルター越しに受け取っていたわけです。だから少ない情報の中で私たちは平和だと錯覚していましたが、どれだけの危険が握り潰されていたのかを今現在知ることは不可能です。
今は、生の情報を何のフィルターも通さずに受け取ることが可能だからこそ、その危険を肌で感じることも重要なことだと思います。そして、その危険な情報とどう距離を取るのか、その感覚はさらに重要さを増していると私は考えています。

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