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通勤電車で新聞を読むという時代の終わりについて思うこと

ある朝、通勤時間の電車の中でまわりを見渡してみると、乗客の誰ひとりとして新聞を広げていなかった。

かつては朝のすきま時間を使って日経などの新聞に目を通して、というのはビジネスパーソンの常識かつ必須事項といわれていたが、それも今は昔。現在の主流はスマホになっている。

つながり求めるSNSホリック、落ものや娘育てのゲームジャンキー、もちろんネットニュースを掘りまくるワーカホリックなど用途はさまざまあれど、みなスマホを手放せない時代になっている。かくいう自分もまたそのひとり。車内で瞑想(という名のうたた寝)をしていないときは電書三昧だし、たまにはゲームをしたり。スマホ依存万歳!。

そんな自分の車内ライフのスタイルが今の形になったのはいつからだっただろうと振り返るに2015、6年あたり。10年弱弱といったところ。それまでは文庫本が手放せない生活だったのだから、文明の進化って進むときは一気に進むもんだなあ。時代の変化ってすごいなあ。と思うところしきりである(自分基準の話だけど)。

で、本当に車内で新聞を読む人はいなくなっている。あまり気にしていなかったので、いつからこうなったのかは分かりようもないのだけれど、10年くらい前はそれなりにいたような気はする。それが今ではほぼゼロ。

それだけ、情報収集に関してはスマホ等の電子機器で事足りるようになったということだ。ネットで軽く検索してみると、もともと新聞を広げる行為に対して迷惑と感じていた人もとっている人もいるようで、現在の状況は必然だったのかもしれない。

かつて新聞紙が車内における情報源の中心だった時代、新聞を読む行為にちょっとした、それでいて非常に重要な技術があった。新聞を大きく広げることでまわりに迷惑をかけないようにする方法である。
あの大きい紙を4つに折りたたみ、大きく広げることなくページを読み進める技術はコツが必要で、実のところ思っている以上に簡単ではなかった。

ある意味それはひとつの芸術だったのではないか。ネットで検索するとやり方の説明の記録なども残っている。自分が妄想逞しくしているだけではなく同じように感じている人たちもいるということだろう。

時代は逆戻りすることはないだろう。しかしだからこそ過去にはそういった気配りの技術があったんだなあという記憶は失いたくはない。
それでも記録も記憶もなくなった未来はやってくるだろう。そのとき新聞紙をたたんで読む行為もロストテクノロジー。は言いすぎだとしてもロストテクニックと言われているのかもしれない。

さて、そんな未来の車内風景はどうなっているだろうとも思う。今の技術の進化速度を考えると。仮に10年後であっても様相はガラッと変わっているのではないだろうか。

少なくとも情報端末のあり方はまったく違うものになっているのではないか。例えばメガネ投影型ARはかなり現実のものになりつつあるし、スマートウォッチの進化形としてならSF作品によくある空間投影などもありうるのではなかろうか。
さらに時代が進めば脳内に埋め込まれたインターフェイスチップから直接情報を入手する。なんてこともあるかもしれない。

そんなハイテクで人のありようも変わっていくような未来もいずれ訪れるだろう。しかし、そんな時代になっても通勤電車で出社する行為自体はあいも変わらず残っているような気がする。あのコロナ禍が生み出した数少ない社会の進化であったはずのリモート勤務もすでに元の木阿弥だからね。

テクノロジーは進化はしても人はそう簡単に進化しないようだ。

「G式過剰neo」は99年〜03年にかけて断続的に発表していたWEBコラム「G式過剰」のリブート版です。

24年1月26日 初出


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