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三角コーナーへ愛を注ぐ

培地をつくり、pHをKOHで調整し、安定するまで放置する間に夕飯を食べてしまおう。スターラーを回したまま居室へ戻る。机には買い置きのカップ焼きそば。さて、今日の夕飯にありつくためにはお湯を沸かさねばならない。先生が愛用しているポット型の浄水器を手に取り、休憩室の水道へ。小さな虫がわらわらしているシンクを足で軽く小突き、驚いて逃げていく彼らを少し遠目に確認して、彼らが舞い戻る前に立ち去るべく、浄水器へ水を汲んだ。

山椒がピリリと辛いカップ焼きそばを食べ終わり、実験室へ戻る。pH計が示す値は6.95。なんてこった、6.8を大きく上回っているじゃないか。そんなにじわじわ後から上がるのか、と前回も思った気がする。この培地を作るの、私はもう何回目になるだろう。いまだにpH調整に手間取っているが、それほど厳密なpHが求められる培地でもないし、まぁいいやと割り切って、電気電動度が許容範囲を大幅に超えたイオン交換水を追加する。みるみる下がるpH。最後に示されたpHは6.81だった。まぁまぁいいんじゃない?でも、最後のメスアップでこんなにpHって変わるものなのだろうか。しかたない、イオン交換樹脂を替えてもらえる日はもう少し先だろうから。

1 Lの薬品瓶5本へ作った培地を分注し、アルミホイルをかけ、インジケーターテープを貼り、名前と培地名とpHを記入する。ボトルをカゴに並べて蓋を緩め、ついでにキムワイプも2束ほどアルミホイルに巻き、オートクレーブにかけた。よし、あとは洗い物をして、インキュベーターで育てている植物に水やりをしたら今日はおしまいだ。

フィルター掃除をしてくれ、という赤いランプが光っている。点灯した赤いランプを見つけて、そろそろ1ヶ月は経つ気がする。これはリセット後に1ヶ月ほど経過したら光るのか、内部の気流が悪くなったことなどを感知して光るのか。いまいち仕様がわからない。夏前に点検・修理に来てくれたあの人に、メールでも出してみようか。説明書は難解な上に、私が知りたいことは記載がなかった。

新しく出てきた葉っぱを眺め、水やりに手がかかるサイズになっている大きな個体とお別れすることを決める。念のためが多すぎるのか、植物の維持コストばかりが嵩み、一番重要な解析は進んでいるのか疑問が過ぎる。それでも、まぁ進捗はあるのでよしとしよう。水やりを終え、再利用することになっている5 mLのマイクロピペットチップを手に持って、実験室へ戻った。

誰かがシンクに置き忘れたビーカーを洗い、自分の洗い物も終わったそのとき。シンクにべったりとこびりついた黒カビが目に入る。なかなか見ることのない面積と分厚さがありそうな黒カビを、「このカビすごいね〜」と言いながら先輩が指さした昼間の光景を思い出す。先輩に言われるまで、私はこの黒い汚れがカビだとすら認識していなかった。

シンクの中に放置された、大きめのタワシ。これ、擦れば取れるんじゃないだろうか?ふと思い立って蛇口をふたつ捻り、タワシを濡らしながら、別のホースで壁面へ水をかけ、思い切って黒い部分を擦る。黒い塊がぼろぼろと剥がれ落ちて流れていく様が、ちょっと面白くなってしまった。掃除っていいよね、なんて、調子良く思ってみる。大学は夏休みに入って1ヶ月ちょっと。この研究室の保守管理は、そこまで丁寧には行き届いていない。まぁ、どの部屋もそんなものかもしれない。滞在時間が比較的長い私が、ちょっとくらい手を掛けてあげても良いだろう。そんなことを思いながら、シンクをピカピカにした。

排水溝の水切りネットも交換して、さぁ帰るか。そう思いはしたが、次に気になるのは三角コーナー。さて、どうする?

今日はまだそこまで遅くない。明日はいつもよりちょっと早く出勤したほうが良いし、同僚が進めている大きなプロジェクトに関連したサンプリングの手伝いも、今週の後半には控えている。早く帰ったほうが良いんじゃない?でも、もう夕飯も食べたし。もう少しくらい、このシンクを掃除してあげても良いかもしれない。もう2ヶ月くらいは気になり続けている三角コーナー。「この環境に愛を注ぐ。」そんな話を聞いたポットキャストを思い出した。

三角コーナーの中で実験用の土が水を吸い、膨れて目詰まりを起こして、そのまま放置されていた。普段はここに土を捨てはしないのに、何故か捨てられていた実験用の土。研究室の誰かが、間違えたか意図的にか、少量だから平気かなと思ったのか、ただただルールを知らなかっただけか。すぐに袋へ回収すればとても綺麗な土なのに、いつでも湿っているシンクに放置された吸湿性の高い土には、バイオフィルムが発生し、黒カビまでもが生えていた。少し前に耐えかねて、ゴミ箱の上で三角コーナーをひっくり返してみたけれど、側面と底面にこびりついた部分はびくともしない。あのときの私は掃除を諦め、土とバイオフィルムと黒カビがこびりついたその三角コーナーを、再びシンクへと戻したのだった。それが、そのままそこにある。

掃除って始めると連鎖的に色々と進んでいくことって、よくあると思う。掃除のスイッチが入った私は、誰もいない実験室で一人、その三角コーナーも洗ってしまうことにした。とは言え、素手で洗うのは気が引けるので、再利用のゴム手袋を使う。掃除用の黄色いブラシを右手に取り、ホースの先を左手で軽くつまみ、三角コーナーをひっくり返し、水をかけながら洗い始めた。

こんな掃除用のブラシがあったのか、ということを、このとき初めて知る。講義がある期間は、学生たちが週に1回は掃除をしているけれど、流し掃除は面倒くさがられがちで、綺麗になっている印象はあまりない。掃除にスタッフは参加していないこともあり、自分が実験器具の洗浄に使わない掃除用具は、よく見たことがなかった。毛先が少し長く、よくしなり、弾力がある黄色い掃除用のブラシ。あなたはどこから来たの?こんな掃除用具があったのね。そんなことを思いながら、目詰まりを起こしている土を少しずつ洗い流していった。

ステンレスの三角コーナー。膨れた実験用の土と、バイオフィルムと、黒いカビがこびりついている。キラキラと細かい実験用の土が、水道水に乗ってシンクへと流れ出した。

この前は見て見ぬふりをしたけれど、あなたは早く綺麗になって、さっぱりしたかったよね。お待たせしてごめんね。誰かが捨てた実験用の土を受け止めて、排水溝の詰まりを最小限に抑え、水や洗剤を浴びせられても、余った種子が捨てられても、カビがついたりバイオフィルムが広がっても、じっとそこにいたあなた。今日は、もう一度ぴかぴかになるまで、私が洗い磨いてあげよう。

柔らかなブラシで表も裏も撫で擦り、水で濯ぎ、洗剤を泡立ててさらに擦る。変色してしまっている部分はどうにもならないし、細かいところまで完璧に洗い切れたわけではないけれど。放置されたあの状態に比べたら、雲泥の差と言えよう。さぁさぁ、どうだい?綺麗になったじゃあないか。いつもありがとうね。また汚れてしまうこともあるかもしれないけれど、大丈夫。私がまた綺麗にしてあげるから。今日は、上から綺麗なネットを掛けておこうね。

排水溝用の浅型水切りネットは、この三角コーナーには小さかった。どこかに大きなものはなかっただろうか。シンクで使うものがありそうな棚を覗く。あったあった、最後の一箱。排水溝と三角コーナー兼用の、少し大きな水切りネット。赤と白の箱を開封しながら、実験室へと戻る。無事に三角コーナーを大きな水切りネットで覆い、ようやく終わりだ、と一息つく。

そこでふと、先程の赤いランプを思い出した。インキュベーターのフィルター掃除。前回の掃除から2ヶ月は経っている。そろそろ掃除しておいたほうが良いなとは、思っていた。もうここまで来たら、フィルターも掃除してしまえ!掃除機と、実験室の鍵と、養生テープと黒のマジックペンを持って、隣の実験室へと移動した。

「この世界は愛である。」そんな話がよく出てくるポットキャストは、私の実験のお供になった。もう100回以上が配信されているが、1年以上聞いていなかったので、半分以上は聞き逃している。もう1年近く前に配信された回を再生し、イヤホンで聞きながら、ちょっと億劫に感じがちな作業をするのが、最近の私の作業スタイルだ。日中、人が多くいる中では聞きづらい。いつ誰に話しかけられるかわからないし、いちいち実験の手を止め、ポッドキャストを止め、相手に改めて話してもらうのは手間だ。話しかけられていること自体に気づかないのも嫌だし。自分の作業に集中したいときに、敢えて聞くこともあるけれど。それも、思考を回す必要が少ない、慣れた作業のときだけだ。言語情報のソースが2つ以上あると、私の頭は捌き切れない。そもそも、実験室でイヤホンをしている状況は、リスク管理的にもよろしくない。外環境の音は聞こえる程度に抑えてはいるけれど。

掃除機がすごい音を立てているのがイヤホン越しでもわかる。掃除機もフィルターがいっぱいなのだろうか。この掃除機はどこを確認したら良いかわからない。その辺はまた今度にしよう。今日は、インキュベーターのフィルターを掃除して帰るのだ。

土をいじる作業をすることが多い部屋だからか、たった2ヶ月でも取り外し可能な部分には割とホコリが溜まっていた。所狭しと実験装置が置かれた部屋にあるインキュベーターは、掃除のしやすさなど考えられてはいない。側面のフィルターに向けて、掃除機の先端をなんとか近づけ、見える範囲の様子を伺いながら、掃除した、ということにした。まぁとりあえずは良いだろう。リセットボタンを押し、フィルター掃除のアラートを消す。1台目、2台目、3台目。そして、ちょっと離れた4台目。養生テープに、黒いマジックで今日の日付と自分の名前を書いた。前回のテープを剥がし、準備したものと入れ替える。ここに、名前を書く必要はないのかもしれない。でも、まだ日付だけでいいか、と私は思えていない。

そういえば、4台目はリセットボタンを押すのを忘れたし、離れたところにインキュベーターがもう一台あることを思い出した。自分が使っていないから、すっかり忘れていた。帰り際に目に入っていたはずだろうに。前に掃除したときには設置されていなかったからか、完全に認識から除外されていた。空を眺めるときに電線を気にしないでいられる、あれと同じだろうか。カメラに映してみて初めて、思ったより電線があるなと気づく、みたいな。

掃除機と、養生テープとマジックペンを持ち、部屋の電気を消して、実験室の鍵を閉める。さてさて、これで今日は本当におしまい。さぁ帰ろう。
私は荷物をまとめ、大学を出た。

* * *

駅へと向かう帰り道、自転車を漕ぎながら空を眺める。見晴らしの良い場所だ。遠くのマンションの周りを覆うように白い雲が立ち込めていて、雲の海のようだった。そうだ、今日の掃除のことを、noteにでも書こう。そう思った。今日は、退官された先生が残していった実験室の片付けを、先輩方と手分けして午後に1時間半ほど作業して。夕方には、枯れた植物の根と土を分け、泥を掻き分け、借り物のプラスチックトレーを水で洗うのに、同僚と2時間ほど作業をした。培地を作った後にも、掃除して、掃除して、掃除した。今日は随分と大学で掃除や片付けをしたなぁ。思い返してみて気づく。

帰りの電車でnoteを書いてみようと、ノートPCを開いたのは今日が初めてだった。書き終わるかなと思いきや、半分ほどしか書けていないまま電車を降りる。大学でカップ焼きそばを食べたにも関わらず、帰宅後には実家の夕飯の余り物を食べ、満腹の状態で腹ごなしのように続きを書いた。眠くなる前に、なんとか形になりそうだ。いや、もしかすると書いているから眠くなっていないのかもしれない。

私が愛を注いだ三角コーナーは、明日以降も、あの実験室で綺麗なまま保たれるかもしれないし、そうでないかもしれない。まぁそれも良いだろう。
私の愛はいくらでも注げるのだから、心配することはない。

お気に入りのカフェに行くときに使わせていただきます!