それは寂しさではなく恐怖なのだ、と友が言う
もう何年か前、一人暮らしをしていた頃。おひとりさまの老後は不安なんだよー、と今はもう亡き友だちが言うので、「私も不安でいっぱいだよ」と言ったら、こう答えられたことを今でもたまに思い出す。
「うん、でも、いづみちゃんには子どもがいるじゃない」
え、でも息子1人でいまはもう別のところに住んでるし、頼りになるわけでもないよ。シングル一人暮らし。結局は1人だよ。
「私はシングルの暮らしを楽しんでいるし、友達がいてくれてありがたいなあと思いながら生きてるよ。でも、子どもはいない。その違いはとても大きいよ。シングルでも、普段交流がないにしても、最後には息子ちゃんがいてくれる。それはとてもありがたいことだよ」。
そして、にこっと笑った。
はっとした。
ステージ4の全身がんと共に生きていた彼女の言葉には、ずっしりと重みがあった。
人は誰でも、「持っているもの」に無頓着になりがちだ。
以前よく、シングルでの子育ては大変だとぼやいた時に
「うちだって平日は母子家庭状態よ。どのうちも同じよ」と夫がいる人に言われて、なんともいえないやるせなさを感じることが多々あったけれど、それと同じようなことを言っている自分に気づいて
「ごめん、そうだね。その通りだね」と頭を垂れた。
軽やかに、大事なことを教えてくれる子だった。
今も、暮らしの中の何かの折に、空に向かって「ありがとう」と言っている。
ひとりだ
の状態には、本当にさまざまな事情があると思うのだけれど
それをどう感じているか、も人それぞれなのだと思う。
そのどれにも、正しさとか、正解を求めても仕方ないのだけれど
「ひとりは寂しい」
の言葉について、先日久しぶりに会えた旧友が秀逸な見解を示したので、今日はそれを書き留めておこうと思った。
シングルでの子育てを終えて、息子が海外にいた時期と、仕事を得て遠くに住んでいた時期、私は一人暮らしだった。
たまに、よるべない感覚と、胸がキュンと締め付けられるような瞬間がやってきて、私はそれを「寂しさ」だと思いつつ、
あれ、でもおかしいな
一人暮らしは意外と快適で
好きな時に好きなことをして、好きなものを食べ
友達はいっぱいいるから、誘えばどこにでも行ける。
1人は寂しい
って
うーん。私って寂しがり屋さんだったのかしら。
1人でいることも大好きなのに。
だから
「お一人で寂しいでしょう」なんて言われると
えええー? ぜんぜん寂しくなんてないっす!
1人ってめちゃ快適ですよー。
なんて答えていたんだけど。
それを久しぶりに会った友に話したら
と喝破された。
ひとり
の状態は千差万別と上のほうに書いたけれど
彼女の場合は本当にひとりきりの状態でぎっくり腰でまったく動けなくなり
救急車を呼ぶにも玄関の鍵が開けられず
そのまま入院になっても必要な荷物を運ぶ術がなく
以来、
ありとあらゆる事態に備えるようになったんだと言う。
1人で動けなくなったら、救急車を呼んでも家の鍵を開けられない。
私もそういうことがあった。廊下を匍匐前進で長い時間をかけて這った。1人で高熱を出して、食べ物を買いたくても買い物にも行けず。這って冷蔵庫の中をあさったこと。1人でせざるを得なかったあんなこと、こんなこと。
思い出しながら
ああ、私が前に感じていた、あの寄る方ない感じ
あれは
寂しさではなく
一種の
恐怖であり、不安であったのかもしれないなあ、と思うんだった。
まあ、それでも1人でなんかしなくちゃならなくなれば
1人でなんとかするしできるわけなんだけど
寂しさではなくて
恐怖と不安へのリスクヘッジとして、いろいろな方法を考えておく必要があるお年頃になったんだなあ、としみじみ思う。
「寂しい」という言葉は、英語だとLonelyで「ひとりぼっち」となるんだけど、Lonelinessを感じるかどうかということと、本当にひとりという状況は違うもので、後者で感じる感情は、不安や恐怖に近いものなのかもしれないなあ、なんて思いながら、その夜のめちゃ面白かった会話をちょっと反芻している。
友だちと話すのは、本当にいい。
愛すべき別人格の人から発せられる言葉には、たくさんの気づきがある。
ありがとー。
久しぶりに晴れたので、洗濯洗濯。
今日も1日、謙虚に善く生きよう。
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