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「やれ」と「やってみよう」はいずれにしても「やらない」を許さない

 むかーしの日記で尾崎豊の歌詞を引用した気がしたのですが、やっぱり学校にあるものはどこまでいっても「仕組まれた自由」なんです。
 確かにそれこそむかーしの「やれ」一辺倒の教育(もちろん、自由主義的な教育実践も大正時代からいろんなところで行なわれてはいた)はだめだと思うし、元に戻れなんて絶対思わないけど、じゃあ今の「主体的な学習」を称揚する教育体制が完全な是かっていったらやっぱりそういうわけでもない。

 そりゃあ「やれ」とは言わなくなったし、校則は自由化しつつあるし、生徒が「主体的に」自分の興味のあることを探究する営みだって推進されている。だからといって、「やらない自由」が謳歌されているかといったらそうではない。教員が読むような月刊誌で紹介されるような学校の授業はみんなが笑顔で、みんながいきいきとしていて、みんなが活発に自分の興味を深堀しようとしているように見えるけど、でもみんな知らず知らずのうちに「やらなきゃいけない」というコードを共有している。「主体的に学習せねばならない」というコードを共有することが「主体的に学習をする」ことの大前提になっている。けど、そのコードは表面化することはない(だから、授業の実践例は教員のはがゆさがこめられたものの方がおもしろいと思っている。自分の思い通りになってほしいという思いと、思い通りにならないもどかしさと、思い通りにならなくてよかったという安心感と、いろんなものがまぜこぜになった実践例が一番おもしろいはずだ)

 いや、だからといって、その教育が悪いわけではない。みんな主体的に学習を行っていることは間違いない。むかーしの「やれ」一辺倒だった暴力みたいな教育よりははるかにいいはずだ。でも勘違いしてはいけない。生徒はやらされてやりたいことをやっているということを。どこまでいっても生徒の自由は仕組まれた自由であって、奔放な自由ではない。どこまでいっても主体的学習の根底には「やれ」という命令があり、「やらない」ということは許容されない。「やらないならやらないでそれはあなたの自由だから」と教員が言うのであれば、それは自己責任論との癒着を招く。教員やはり「やらせねばならない」。

 私は以前から「やれ」というのが嫌いだった。私にそんな権力はない。教員が生徒に対して一方的に命令するという関係性は間違っている。そう思っていたけど、私がどう思おうが教員と生徒の間に横たわる非対称性は絶対になくならない。もしかしたら、なくなってはいけないのかもしれない。私が教室で何かを発信すれば、その言葉には必ず強制のコードが含まれているし、私がどれだけ命令形を使わなくても、その言葉には命令形のニュアンスが含まれる。私は命令から逃れられない。私は権力から逃れられない。そのことを自覚して、はじめて生徒と向き合うことができる。対等になろうとするな。命令形から逃げるな。非対称から何を生み出すか、「命令」という言語遂行から何が生み出されうるのか(これは「命令して何かを生み出す」という行為とは全く違う。「命令」という言語コミュニケーションの切れ目、裂け目、綻びから何かが何が生み出され得るのか、という試み。しかも有随意、無随意問わず)ということと向き合わなければならない。

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