「ヒトラーの忘れもの」(原題「Under sandet」)を観る。

 舞台は第二次世界大戦終了直後のデンマーク。当時のデンマーク西海岸には旧ナチスドイツ軍が連合国軍の上陸を妨げるために埋めた十万以上もの地雷が残されていた。デンマーク軍は、当時捕虜になっていたドイツ兵にその地雷撤去にあたらせた。そして、その多くは年端もいかない少年兵だった。ラスムスン軍曹率いる14人の少年ドイツ兵の小隊が担当するのは4万5千個の地雷が埋められた砂浜。初めは怒りをもって少年たちと接する軍曹だったが、次第にその二者の心理的な距離が近づいていく…。
 あまぞんの予告風にあらすじをまとめてみた。非常におもしろかった。

 映画の作り方がうまい。冒頭にラスムスン軍曹が撤退していくドイツ兵を激しく暴行するシーンを挿入することで、デンマーク軍がいかにナチスに対して激しい憎悪を抱いているのか、ということを観客に印象付ける。地雷によって少年兵が一人一人命を落としていく姿を描写して任務の過酷さを描く一方で、軍曹と少年兵の距離が近づいていく過程を丹念に描くことによって過酷さと融和の鮮やかなコントラストが生まれる。軍曹は、自国を虐げてきたナチスに対する怒りと少年兵に対する親しみの間で葛藤する。最後には、別の土地でさらに地雷撤去を命じられる少年兵をドイツ国境から逃すというラストを迎え、融和を遂げて映画は閉じられる。
 観る者(というか私)も、軍曹の心情が少年兵たちに傾いていくことや、少年兵たちが背負った悲しい宿命に感情移入していく。なぜ彼らはここまで苦しい思いをしなければならないのか。軍曹と少年兵たちが和解できてよかった。軍曹は彼らを赦すことができたのだ。そう思うように映画はできている。

 しかし、そう思えば思うほど、他のナチスに関する作品で描かれるナチスの冷酷さ、残忍さが浮き彫りになるのである。
「シンドラーのリスト」「ライフ・イズ・ビューティフル」「聖なる嘘つき/その名はジェイコブ」「プライベート・ライアン」「チャップリンの独裁者」、文学で言えば『アンネの日記』『夜と霧』など、挙げればキリがない。そこで描かれる「ナチス」は圧倒的な残忍さを持ってユダヤ人やポーランドなどの国々を迫害し、殺害した。「ヒトラーの忘れもの」で命を落とした少年兵は12名。ナチスは一体何人のユダヤ人を虐殺したのだろうか。少年兵たちに情がうつっていくラスムスン軍曹に対して大尉は「ドイツ兵だぞ」と一蹴する。そう、その一言で全てが終わるのだ。その一言で、少年兵たちに過酷な労働を強いることを正当化できる。その一言で、人々の脳裏にはナチスがした所業が思い出される。過酷な労働を強いられている少年兵たちに同情するたびに、「でも、ナチスは」という言葉が私の脳裏にも、ラスムスン軍曹の脳裏にも浮かぶ。

 しかし、「ナチスは」という主語は様々なものを隠蔽する。「ナチスがユダヤ人を迫害した」と簡単に文章にできるが、「ユダヤ人」という名詞の中に「アンネ・フランク」という固有名詞を持った、言うなれば「顔」を持った一人の少女がいるのと同じように「ナチス」という名詞で括られた中には名前と「顔」を持った個人が確かに存在していた。人生、家族、人格、思想、信条を持った個人がいるのである。
 先に挙げた映画・文学の中ではナチスに対抗する人々の「顔」は描写されていた。まさに『アンネの日記』が象徴するように。しかし、ナチスの中の「顔」は描かれない。唯一描かれる「顔」はアドルフ・ヒトラーのそれだ。他のナチス兵はまるで汎神論のように「ヒトラーの一部」として描かれている。「プライベート・ライアン」もその一つだ。ナチス兵の一人一人の人生や内面は描かれないまま、アメリカ兵の「顔」ばかりが強調されて描かれていく。

 言葉は、人間の「顔」を消去し、一般化する力を持つ。しかし、映画には消去された「顔」を描写する力もある。もちろん、この「顔」という言葉はレヴィナスを引用している。どれだけ「ナチス」という名詞に対して嫌悪感を持っていたとしても、実際に(フィクションだけど)地雷撤去によって人生が翻弄されていく少年たちの「顔」を目の当たりにすれば、彼らに同情せざるを得ないのだ。「顔」と対面したとき、必ず対面した者の中には、責任の意識が生じる。レヴィナスの思想がホロコーストから生まれたのは偶然ではない。彼もまた、「ユダヤ人」という名詞によって「顔」が消去された一人だったのだから。
 他のナチス映画がユダヤ人などの「顔」を描いたのならば、「ヒトラーの忘れもの」はナチスの「顔」を描いた作品だ。ナチスの中にもヒトラーではない「顔」があった。そのことを、戦後70年を迎えたとする我々は覚えていなければならない。

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