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エブリー・リトル・シング

目が覚めるたびに違う夢を見ていた
冷蔵庫のビールを気にしているうちに
世界と不仲になった
きみはほんとうのことを言っていたんだね
いま分かったよ
ずっと嘘だと思い込んでいた

社宅の裏を流れている福田川を渡ったところに
原っぱがあった
子供が野球をできるくらいの広さはあった
晴れた午後に
タケシの手をひいて
その原っぱに行ったことがある
草が生い茂っていた
サアーと乾いた音がして
雪が降ってきた
目の前が雪で遮られ
草むらは白い雪に埋まった
タケシは黒いコートを着たまま
雪の中にうずくまっていた
フードを頭に被っていたかどうか忘れた
コートに積もった雪を払ってやると
タケシは黙って立ち上がった
「もう帰ろうか」
歩いてきた道は消えていた

路地裏に迷い込んだ
道端に言葉が吹き溜まっていた
『千年の愉楽』から
箒を持ったオリュウノオバが出てきて
隅に溜まった言葉を
塵取りに掃き集め始めた
「おおきに、有難うございます」
塵取りが一杯になると
オリュウノオバは
塵と埃になった言葉を撒き散らした
「老呆けたバアさに分かるかいよ」
私は自分が捨てた言葉を探した
「みんな逃げていったよ」
オリュウノオバは
軒下に干した言葉を見せてくれた
「アホじゃお前は」
オリュウノオバは障子戸を開けて
『千年の愉楽』に帰っていった

湿った林のような
書庫の通路で
一行を探していた
きみの言葉が残っている一行だ
書架に挟まれた通路を
二十三回歩き回った
きみの言葉がどうしても見つからない
私は見えない空の下で
世界に躓いている
エブリー・リトル・シング
シング・エブリー・リトル・シング
あの角を曲がれば
会えるだろうか
不仲になった全ての人に

時刻表の上を歩いていた
「ここを抜けださないと世界に出られないよ」
オリュウノオバが舌を出した
「世界に出て何をする?」
「爪で引っ掻いてやればいいんさ」
「オレは列車に乗りたいんだ」
「乗車券も買えないくせによく言うよ」
オレと言った私は
旅行鞄を抱えていた
オリュウノオバは
喉の奥に引っ込んだ
時刻表は揺れて風になった

きみはほんとうのことを言っていたんだね
いま分かったよ
列車は空き部屋の扉を開け
火花を散らしながらカーブを曲がり
うっとうしい追憶を追い越すだろう

約束したよ
次の駅で乗車したら
席をふたつ
空けておいてくれないか


中上健次『千年の愉楽』(「河出文庫」河出書房新社、1992年)

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