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アラブの復讐劇(Netflixオリジナルドラマで)

シーズン2の制作も終了し、年内配信も決定しているヨルダン発、Netflixオリジナル・シリーズ「アルラワビ女子高校」。全6話のミニ・シリーズだ。





アラビア語でイスラム教圏のドラマを見るのはこれが初めてなので、まず現代アラブの女子高生がどう描かれているのか、そこにも興味津々だった。アラブ、中東、イスラム教国と言っても国によって様々な違いがある。ヨルダンと言っても馴染みがない人も多いと思うのでまずはヨルダンという国について解説する。

ヨルダンてどこ?

ヨルダンは中東の1国で、イスラエルの隣に位置する。死海を挟んで左がイスラエル、右がヨルダン。

赤い丸はパレスチナ自治区

現在紛争が起きてニュースになっているイスラエルとガザ地区(ハマスが支配するパレスチナ自治区)。アラブ系イスラム教徒が中心に暮らす中東でイスラエルはほぼ四面楚歌だが、イスラエルと唯一まともな国交を持っているのがヨルダン。隣国であるというのもあるが、イスラム教国でありつつ戒律にガチガチな国ではなく王室に外国人も迎え入れるかなりリベラルな国であり、西側諸国との交流も活発。持ち前の柔軟性とリベラルさを活かし、イスラエルとの国交を維持したままヨルダン川西岸地区のパレスチナ自治区にも国境を開放し、パレスチナ人を長年サポートしている。

みんなヒジャブ被ってるの?


旅行ガイドなどにはイスラム圏での服装のマナーなどは書いてあるし、渡航前に大概の人は確認すると思うが、中東地域のイスラム圏で旅行中に服装を気にしないでもOKな国というとヨルダンとUAEのドバイくらいではないだろうか。ドバイは旅行者の受け入れが経済の根源となっている分、地域が例外的に旅行者たちの文化習慣を尊重してそう機能しているが、ヨルダンの場合はリベラルだから多様化していて、ヒジャブを被りたければ被る、肌を出した服が着たければそれもアリという、かなり自由な国ではある。

そもそも、イスラム教徒の服装に対する異常なまでの保守性は昔からではなく、この50年くらいの間にいろいろ曲解された結果とも言われている。アフガニスタンも内戦が続き、鎖国状態のような感じで長年情報が出てこなかったのがイラク戦争などで注目が集まり、女性たちがヒジャブを被って髪を隠すどころか「剣道の防具かよ?」みたいに顔をまるごと隠すような服装がデフォルトになっててその映像を初めて見た時の衝撃は鮮烈だったと思う。しかしアフガニスタンも昔はそういう国ではなかったのだ。



イランでも数年前に「前髪を出してる(ヒジャブの中に髪を完全に隠してない)」という理由でイラン人女性が処刑され、それがきっかけで反政府運動に火がつき、逮捕者もどんどん増え、抗議活動中に死者が出たり逮捕者の中から処刑されたものも出ている。


メイク、髪型を含めて全体をどう作るかがファッション

英国のムスリムは昔から、ロンドンに暮らしても民族衣装に身を包んだおしゃれな女性が多かった。上記のスナップもロンドン・コレクションの時に撮られた1枚だが、イランのような国で処刑される「前髪を出してる(ヒジャブの中に髪を完全に隠してない)」スタイルというのがこういうのだ。これで処刑されたらたまったものではないが、前時代的というよりもここン10年の間に原理主義者が跋扈する世界で戒律を曲解された結果なのではないかと推測される。

ちなみに英国のムスリムからもこういうファッションは批判の対象になっており、言ってみれば「なんちゃってムスリム」みたいな、「ムスリムの小道具を使ってムスリムっぽさを演出してるけどヒジャブを被るのに髪を出すなんて意味がない。だったら被らないという選択肢があるのに。ヒジャブの使い方を誤解させる」とある種日本のSNSでよく見かける着物警察みたいな感じで「着るならちゃんと着ろ」勢力が一定数いるため、ここ最近の欧州ファッショナブル・ムスリム勢は前髪見せない着こなしが主流になってます。

社会常識の前にある学校の常識

ヨルダンでは旅行者も肌の露出は西側諸国での常識の範囲であれば問題ない。その知識はあったものの、ドラマという創作物の中に展開される「その国の常識的な光景」というものにとても興味があった。なにしろ私立の女子校が舞台の作品である。どんなイミフな校則があるんだろうと不謹慎な期待が膨らみもする。そんな期待や好奇心を持ちつつ再生ボタンを押したのだった。


みんなノーメイクで同じ髪型を強要される日本との大きな乖離

第一話はスクール・バスの登校シーンから始まる。スクールバスの中で流れるラジオ、そこから流れる曲はアラビアみ強めの中東のヒット曲なのか、知らない言語、親しんだ記憶のないメロディ・ラインや楽器のアレンジだったりする。しかし女子高生たちの話題の端々に上るのはドレイクの新曲聴いた?とか昨日見た映画のザック・エフロンがイケメンだとか、西側諸国の女子高生となんら変わらない。だいたいヒットチャート系の音楽、映画、恋愛とおしゃれ、女の子の関心は国や宗教関係なくそこなんだなというのがわかる。
それと英語が想像以上に定着していて、会話の端々が自然と英語になっている。 Oh My God は数分に1回出てきてもはやアラビア語でOh my godに相当する言葉は死語になってませんか?くらいの勢いだし、What's the magic word?(言うことあるよね?)とかまで、すっとアラビア語の会話の中に差し込まれてくるし、発音もみんな綺麗。だいたい、日常会話レベルなら英語だけで会話が成り立つくらいの定着度と推測できる。

西側諸国の女子高生と変わらないのはそのファッションも同様で、日本の私立の女子校と違って朝からビシッと髪を巻いてバキバキにメイクをキメてる子たちがクラスの中心グループになっている。ほとんどの子が、バキバキに濃いメイクじゃなくてもそれなりにメイクもしてれば髪型も朝から時間かけてキメてきた凝ったヘアスタイルになってる。え?「イスラム教の国って未成年女子なんて尚更おしゃれなんてさせてもらえなそう」って思ってませんでした?私は思ってましたけど欧米の当たり前と同様、女子高生くらいになったら朝から髪も巻くしメイクもガッツリするようです。アクセサリーもOKだからみんな制服にネックレスくらい当たり前。もうここで軽い衝撃ですよ。日本の女子高生ってイスラム圏より酷い抑圧受けてるん? なおかつ全員が全員髪を巻いたりしてるわけじゃなく、一定数はヒジャブを被ってる子たちもいる。そういう子たちは前髪を出すタイプではなく、ヒジャブ被るならちゃんと被る(髪は見せない)というスタイル。だけどメイクはガッツリしてますよ?バッチリメイクと巻き髪もOK、ヒジャブ被った敬虔なスタイルもOK、どっちも尊重され、共存している。なにその多様性の実現。日本みたいな「みんな同じ」になることを求められる社会じゃないの?もう開始5分で日本の女子高生たちが実は世界かわいそうな抑圧受けてるランキングでかなり上位に入りそうという実感が湧いてどんよりしたお気持ちになってくる。

男女交際に厳しいはず、きっと日本よりずっと厳しい、はず?

イスラム教徒は結婚前の男女の性交渉は厳しく禁じられている、そりゃあ厳しいなんてものじゃなく、結婚の時に処女じゃなかったら翌朝父親に殺されるとか、強姦事件でも加害者はお咎めなしで被害者が死刑になる理不尽な国もある、そんな中途半端な知識しかない私程度の知識の日本人はたくさんいると思いますが、そういう社会の若者たちって普段何に興味があるの?って思ってたんですよ。でもまあやっぱり世界共通なんですね。女子高生の話題なんていうのはドレイクの新曲とザック・エフロンの筋肉と、あとは彼氏がいるいない、そんな話で100%なんですね。とりあえずヤらなきゃいいのかそうかと納得しつつ改めて考えてみると、どんだけ戒律が厳しくても、若者は最終着地点がエロになる根源的なもの、つまりモテを求め、承認欲求を肥大化させるんだなと。思春期のホルモンが悪いよね、そうそう君たちは悪くないよと、日本のJKだけじゃない、米国のドラマや韓国ドラマにも出てくる高校生たちと重ね合わせ、どの国のドラマを見ても感じるのと同じ感情が湧く。ティーンエイジャーなんてどんな宗教、環境で育てたところでホルモンに支配されて生きる人類、活力みなぎる若者は尚更、全ての行動は生殖機能に繋がっていくのかそうかという話で納得できます。

女子高生はどこに生きてても女子高生である

つまり、このドラマは良い意味で「今までに見たことのない全く知らないもの」ではないのです。エロ(男、彼氏)、ルッキズム、スクール・カースト、おしゃれ、いじめ、人気俳優やミュージシャンの話題、友達関係、それらどこの国にでもあるものばかりが詰まった私たちが通ってきた道のどこかにあるものだったりします。さて前置きが長くなりましたがそろそろ本編のストーリーにも触れていきたいと思います。


アルラワビ女子高校とは?

アルラワビ女子高校は私立高校の中でも富裕層が通う高校という設定で校内のシーン以外の各キャラクターの自宅でのシーンからも富裕層っぽさが漂う。クラスの中心になる女子、レヤンも富裕層の娘で父親は権力者だから校長もあまり強く出られず、割と好き放題に振る舞っている。学校内でヒエラルキーが明確に存在し、中心グループになるのは目立つタイプだったりお金持ちだったり、人目を惹くタイプの子たちであるのは万国共通。ししかしここで意外なのが、ヒジャブを被って生活している、いわば敬虔で保守的な家庭の子もバッチリメイク&巻き髪グリグリ系女子と一緒のグループにもなりうる、イケてるグループに入るのに服装面での保守性というのは線引きの対象になっていない様子であること。ヒジャブを被って髪を見せない外見的な保守性がイケてるイケてないの判断材料にはならないようなのだ。実際、クラスの中心になっているレヤンのグループにはルカイヤというヒジャブを被った子もいる。

しかしそういう、イケてるグループとそうでもないグループがなんとなく分かれていて、なんとなく漠然とヒエラルキーが存在する。そしてイケてるグループ?ウェイ系グループ?そういう子たちがいじめのターゲットを選ぶのにさしたる理由がないというところも万国共通な気がする。たまたまそこにいたからとか、黙って言うことに従わないからとか、発端になる理由なんて実際には理由とも呼べないような些細なことなのだ。

主人公のマリアムはクラスのイケてる女子グループ、レヤンたちにいじめのターゲットにされて、意識を失って救急車で搬送されるほどの殴る蹴るの集団暴行を受ける。

クラスメイトたちもレヤンの言いなりでマリアムの味方になることもなく、みんなが口裏を合わせて被害者のはずのマリアムが悪いかのような話にされてしまう。そしてマリアムは被害者なのに2週間の停学処分になる。

家に帰って親に経緯を説明しても親は信じてくれない。保守的な国あるある。親が気にするのは体面、世間体であり、それで頭がいっぱいになる分、子供の言い分を信じない。「クラス全員が嘘をついてるというの?」その可能性は考えないのか。そもそも娘が救急車で搬送されるほどの怪我を負っているのに家族の評判の方が気になるのか。

日本で言えば世間体、体面。アラブ社会では家族の評判

「あなたは家族の恥よ」単位が家族。個人の話に収束しない。全部家族という単位で話をする。リベラルな国でもそこは譲れない線なのかと思うと、戒律の厳しいところはどんだけなんだよと思ったりもする。これ以降も、なにかというと親が怒り出すのは子供達の行動、が結果として招く家族の評判を落とすような場面に関してであり、子供自身の行動が正しいとか間違ってるということよりも「あなたは家族の評判を落としている」という側面からのジャッジである。なんでそんなに家族という単位にこだわるのか。家族で苦労する人は世界中にいるはずだし、評判を気にしないといけないほど家族全員が品行方正で社会に貢献していて家族内でも尊敬される存在である、なんて家族はそうそう居ないだろうに、と考えると自分たちがわざわざ自分たちに足枷をしているかのようにも見える。

そして始まる復讐劇

第二話から始まる、マリアムのいじめに対する復讐の方法は国、人種、宗教で違うように見えても人類ってその違いはほぼ誤差の範囲なのなって思うくらい、米国のドラマや韓国のドラマで登場するタイプの既視感バリバリのもの。スマホやネットを駆使して、バラされたくないプライバシーを集めてはそれを晒していったりもする。

第三話では学校行事のオープンスクールに彼氏を招待して得意げな顔のレヤンとラニア、制服ではなく私服で参加する学校行事、ラニアはキャミソール姿。そういう露出度高い服で学校行事に参加もアリなの?

マリアムたちはSNSで架空の男性のアカウントを作ってルカイヤに近寄り、やりとりを重ねてルカイヤの油断を誘い、自撮り写真を送らせる。「スカーフをとった君の姿が見たい」と言われて、学校のトイレの個室でスカーフを外した瞬間のルカイヤを見るとイスラム教徒独特の美的感覚に驚かされる。スカーフの下はかなり気合の入った巻き髪で、カラーリングもこだわったメッシュが入っている。毎日どこに行くのにも髪の毛見せないのに???私からするとそこが驚きポイントなのだけど、自分のためのおしゃれに1ミリの隙もないのだ。もちろん私たちのおしゃれだって他の誰かのためのものではない。「身だしなみ」という観点からの「見苦しくない程度に髪を整え化粧をする」という面もあるにせよ、おしゃれは自分のためにするものである。しかし、人に見えない見せないところでの気の抜き方というのは、多分イスラム教徒以外のみなさん大体そんなものだろうと思うんですけど「見せないなら頑張らない、見せるところに全てのリソースを」ってなると思うんですよ。しかしイスラム教徒は見せない前提の髪もしっかり巻いてるし染めてるし、体の線が見えない服を着ている下にハイブランドのピッタリした服を着ていたりするんですよね。見せないのに。見えないからいいやじゃなくて、見せないけど、美しくありたいという気持ちがあるから綺麗にしてる。

そして1ミリの隙もなく巻いた髪にバッチリメイク、そしてさりげなくシャツの襟首を引っ張って肩紐だけですがブラ見せしながら笑顔で自撮りするルカイヤ。さすがに下着姿とかはありえない社会なんですね、でも普段ヒジャブ被って肌も見せない社会生活をしているルカイヤにとってはその写真が学校中にばら撒かれてみんなに髪の毛丸出しブラ見せ写真を見られたというだけで社会的な死なんですね。家族の恥だと親から罵倒されて転校させられる、そんな事態になり、マリアムの復讐はひとつ終わるわけです。


そして第四話、オープンスクールでたまたまラニアの彼氏のアハマドと知り合ってアハマドからSNSでフォローされたノーフ。ノーフに対して怒り心頭のラニアは「フォロー外しなさいよ!」と詰め寄る「アンタの彼氏が先にフォローしてきたから相互なんじゃないの」まあどこに行っても男に文句は言わないのに女には文句を言う女というのは存在するものだなとニヤニヤしてしまうシーンです。

マリアムだけじゃなくノーフ、ディナ、それぞれがレヤンたちから違うタイプのいじめを受け、マリアムに協力したり共感したりする。それぞれが違う個性、違う考え方を持つ中「そこまでやる必要あるのかな」とディナに嗜められて一旦失速しそうになるマリアム。しかしレヤンに荷物を漁られ、飲んでる精神安定剤のラベルの写真を撮られ、日記のコピーをとられて学校中にばら撒かれたことでマリアムは絶望のどん底まで突き落とされてしまう。嫌がらせとそれに対する報復、その繰り返しは終わりがない。

第五話は修学旅行の回。この辺りでレヤンの兄やラニアの父親など、絵に描いたような強権的な男性家族が登場する。第一話からここまでに登場するディナやマリアムの父親などは現代的な、料理もすれば子供とのコミュニケーションもきちんと出来るどこに出しても恥ずかしくないタイプの男性だったのだが、いじめる側はいじめる側で家族に問題を抱えているのが見えてくる。そしてプールで痴漢に遭っているノーフをレヤンが助けたことで関係性にも変化が生まれる。しかし女性担任から何があったのか尋ねられた時に「ジロジロ見られただけです」とノーフは嘘をつくのだが、それに対して女性担任の「あなたたちが肌を見せていたらそうなっても仕方ないでしょう」という言い草も、アラブ社会だと普通に通用するんだろうなあ。

夜になって宿泊施設を抜け出してクラブに行くと言うレヤンとラニア。レヤンに誘われてついていくことになったノーフ。クラブにはラニアの彼氏のアハマドも来ていた。そこでまた一悶着起こる。ラニアの彼氏のアハマドもクズだし、クズの言い分を魔に受けるラニアは恋は盲目ってことで仕方ないにしても、「ノーフの言い分をちゃんと聞こうよ」と仲裁に入るレヤンにも実はいい面がある。男性優位のアラブ社会で常に闘う気概は持ってる女性なのだ。

ノーフからクラブに行くのを聞いたマリアムは担任教師に密告し、教師たちがクラブに探しに向かった時、見つかったのはラニアだけでレヤンたちは教師たちに見つかる前に逃亡に成功。しかしラニアは教師からの説教だけでは済まず、学校を数日休んでいた間に父親からボコボコに殴られて、再登校した日でも顔のあざや腫れがひいていない。マリアムの復讐がまたひとつ成し遂げられたが、数日で消えるあざや傷にマリアムは満足したわけではなかった。

最終話の結末は「おおおお、アラブおおおおお!」な衝撃の展開で、シーズン2がどうなるのか気になって仕方ないのだが、Netflixで配信されている各国のドラマシリーズを見ていて感じるのは、ポリコレポリコレ言ってるのは日本と米国くらいで、アラブも韓国も(日本もだけど)社会の中で男女は対等じゃないし、父親が子供を殴るのは看過されるし女性が性被害に遭うと被害者の落ち度を積極的に探すし、それが正しいかどうかじゃなくて「社会がそうならそのまま描いてしまえ」を選択してるんだなということ。「ポリティカリーにコレクトな描き方で社会をエンパワメントしていきます」それが出来てるならそれでいい。少なくとも本来の政治的に正しいもの像とはそういうもので、社会を正しく変えていくためにあるのだから。でもエンパワメント出来てなもないけどとりあえずポリティカリーにインコレクトなことを描いてしまうと共感してもらえないから無難に無難にという、そこに信念も気概もメッセージもなく世界の流れについていくというより流されてるだけだから伝わるものもないのが最近の日本のドラマの傾向なのかもなと、海外ドラマを見ると実感すること。先進国の知識階級の常識から見たら野蛮だろうが視野が狭かろうがこの界隈の実際の社会はこうなんですよっていうのがそのまま描かれてるのは共感はできなくても考えることはできる。それでいい気がする。


おまけ サウンドトラックのプレイリスト

第一話でスクールバスが学校に到着した後、校庭で朝礼があって校歌斉唱までセットになってるの、日本と一緒だーと思いながら眺めつつ、校歌のメロディラインはアラビアみが強いコード進行で面白い。それ以降はアラビア語圏の人気アーティストからセレクトしてるようで、アコースティック・サウンドのシンガー・ソングライターからアラビア語のヒップホップなど幅広いアラビア語圏のポップミュージックが散りばめられていて、各トラックのクオリティは高い。グローバル・クラスのヒット曲とは言えBTSがここにも、と思うと米国でヒットするということは本当に、世界を手にすることを意味するのだと再確認する。








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