PATRONE ~死人の宿~

#小説 #ファンタジー #連載小説 #伊豆平成


【『PATRONE~仮面の少女~』から数ヶ月後、ロマヌアの港町ルストに危機が忍び寄っていた。依頼を受けて都市国家を壊滅させる危険人物が、ルストに潜入した。逮捕すべく潜伏先の宿の監視を続ける護民官ルフィと助手のワイリーだったが……。】

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絵:りりんら さん


(本文の前に)

 『PATRONE』は、ずいぶん前にスニーカー文庫で書いた私のデビュー作の古代ローマ風ファンタジー捕物帖です。
 その続編の短編をnoteで書きたいな~と書き始めました。
 仕事の合間に、細々と書き続けているのでまだまだ制作途中ですが、文章量が増えるにつれて金額を上げていくつもりです。今でしたら、制作途中だけど安く購入できて、ついでに言うと制作過程の試行錯誤も垣間見える——というメリットがあります。

注意!
 このテキストは、noteの仕様で、「マガジン」ごとでも「テキスト単体」でも買えるようになっていますが、それぞれの金額を変えてあります。
 マガジンで購入すれば、現在だと350円で購入できます。そして、マガジン内の他のテキストも読むことができます。
 テキスト単体のほうを1000円と高い値段にしてあるのは「本当はこのくらいの値段をつけたいぜ!」という意気込みのようなものでしかないので、こちらで購入する必要は全くありません。もしテキスト単体で買うメリットがあるとすれば、私が更新したときに自動で知らされることぐらいです。
 ですので、350円でマガジンを購入して頂くことをお勧めします。
 もちろん、1000円で買って頂けると、とても嬉しいですが。ははは。

※※※緊急事態※※※
 実は、今年の4月に、原因不明の不具合でここの文章が全て消えてしまいました。本文も全てです(上の説明文も、最近になって書き直したものです)。
 バックアップを、去年書き進めた分しかとっていなかったのが迂闊でしたが……。
 現在は、そのバックアップ分だけが読める状態です。
 申し訳ありません。
 本来は、単行本の感覚であと15~16ページ文くらいは書き進んでいたのですが……。
 だいぶ前に書いた部分が、今さらになって消えていたと気づいたもので、まったく思い出せず、現在ショックから立ち直って少しずつ復旧しているところです。

 すみません……。



PATRONE ~死人の宿~


第一章 一日目 (午前四時)

 夜中に降りだした雨は、なかなかやみそうになかった。

 日の出が近いことを告げる鐘の音が、微かに聞こえてくる。
 中央港のイナ神殿の鐘かしら……。
 ルフィは、ぼんやりとそう思った。
 友愛の女神イナの呼びかけに応えるように、死の神ラノートの花嫁である花の女神の鐘がすぐ近くで鳴り響く。
 ルフィの担当区内にある、ミトゥン神殿の鐘だ。
 彼女の担当区は、ロマヌアの船乗りたちが“母なる海の乳房”と呼ぶ半島の西側にある大きな湾の“乳首”に当たる、ルスト内湾の南港にあった。
 あと数刻で、赤茶けた建物の並ぶルストの街に朝がくる。東西になだらかに傾斜した街の山側は、厚い雲に覆われた空がうっすらと白み始めていた。
 勤勉なパン職人が、平たいパンを焼く石窯に火を熾し始める時刻——。
 港湾都市ルストの朝は早いが、まだ街路に人影はなく、夜間にしか通行を許されない荷馬車が通り過ぎていくだけだった。
 居酒屋のがたつくスツールに腰掛けたルフィは、店の外のモルテロ通りを見つめ、もぞもぞと身じろぎした。
 仕事とはいえ、こういうのって性に合わないのよね……。
 この年頃の娘にしてはルフィは仕事熱心だし、かなり我慢強いほうだ。それでも、こうした「隠れてじっと張りこむ」ような任務は苦手だった。
 むしろ、「大立ち回りで悪人をこてんぱんにのして、ふん縛る」ほうがいい。そういう任務なら、俄然、闘志がわいてくる。
 それにこの椅子ったら! お尻が痛くなっちゃう!
 脚が長く背もたれのない木椅子は、港湾労働者がひいきにする集合住宅の一階にある古びた居酒屋には似合いだが、ルフィには背が高すぎる。足が床に届かないのは、なんとも落ち着かなかった。
 店が悪いわけじゃない。こんな時間のこんな安酒場に、十七歳の少女がいるほうがおかしいのだ。
 二階や奥の寝床で「別の商売」もやっている店なら、若い娘が雇われていても珍しくないが、ルフィ——ベルフィード・ヘイズォト護民官は、あくまで客として居座っているのだから。
 他に客はひとりもいなかった。いつもなら明け方まで飲んだくれる常連客も、護民官が居座っているせいでみんな引き上げてしまった。額の禿げ上がった年輩の店主も、調理台に突っ伏してふて寝している。彼がした最後の仕事は、護民官に出した夜食——米をトマトと魚介のスープで煮て、パセリを散らしたもの——を出したことだった。
 それもずいぶん前のことだ。ルフィの腹時計も、鐘の音に合わせてそろそろ鳴り出しかねない。
 いびきをかいている店主のすぐ脇、台にはめこまれたアンフォラからは「酒だか酢だかわからない液体」の「葡萄っぽい香り」が立ち上っていた。
 米粒ひとつ残さず平らげた夜食の器の隣に素焼きのコップがあるが、中身はその「葡萄っぽい香りのする液体」ではない。ルフィが飲んでいるのは、蜂蜜を溶いてあるだけの水だった。
 護民官助手のワイリーなら、あのアンフォラの中身にも興味を示したかもしれない。だが、匂いから察するに、ろくな代物ではなさそうだ。ワイリーならきっと「こんなワインで金を取ろうってのか!」と文句を言うだろう。がさつでいい加減な割に、あいつは料理や酒の味にうるさいのだ。
 あいつ——ワイリー・マイスは、元は“針金ネズミ”の名で知られた泥棒だ。ある事件の最中、正式にルフィの助手に任命されてからというもの、「いくつかの理由」から逃げ出すこともできず、十歳以上も年下の彼女に顎で使われている。
 あのバカネズミ、ちゃんと裏口を見張ってるのかしら……。
 裏口が見える隠れ場所には屋根がない。ルフィは、背の高い護民官助手が壁にもたれて雨に打たれている姿を想像した。ワイリーのいつもの仕事着——ゆったりした暗い色の衣服は、フードをかぶって濃い金髪や白い肌を隠すと、彼を闇に溶けこませてしまう。今夜は雨水を吸って、だいぶ重たくなっているだろう。あいつが真面目に見張っていればの話だけど……。
 さぼってどこかにしけ込んでたら、ただじゃおかないんだから……!
 雨の中で突っ立っている(はずの)相棒に身勝手な八つ当たりをすることで、ルフィはなんとか睡魔を追っ払った。
 あくびをかみ殺し、椅子の上でグッと背筋を伸ばす。カウンターの下では、床に届いていないつま先までが、背伸びするようにピンと伸ばされていた。
 彼女は耳を澄まし、通りの反対側、路地の奥にある建物に目を凝らす。
 あの宿にモントニスがいる——。
 ロマヌア人が「庭」と呼ぶ内海沿岸の、多くの国々で指名手配された第一級の危険人物が潜伏しているのだ。
 ルストの南港地区——つまり彼女の担当区でモントニスが目撃されたのは、昨日の夕刻だった。街に入った他の旅人と同じく、モントニスは偽名を使って宿をとり、何気ない風を装って逗留している。
 護民官の長であるプリニウス翁には、「明るくなってから客を装って宿を訪ね、慎重に内偵を進めるように」と命じられていた。「捕縛の瞬間まで、モントニスには自分が追われていることを気づかれてはならない」とも。
 神経質すぎる対応は、また、あのいけ好かないドミテスとかいう法務官がしゃしゃり出てきたせいだろう(最後に顔を合わせたときは、ワイリーを縛り首にできないことを悔しがっていた、あの法務官だ)。
 とはいえ、ロマヌアの法廷がそこまで警戒するのには他にも理由がある——ルフィだって、それは承知していた。
 モントニスの危険性は、ただの刺客や、犯罪組織の親玉の比ではない。
 夕刻、護民官事務所で報告を受けてから、ルフィは改めてモントニスに関する記録に目を通していた。あの男がルストで「ひと仕事」したなら、大惨事は免れない。なにしろ、ここはロマヌアでも一、二を争う大都市なのだ……。
 といって、朝まで放置してはおけない。もしモントニスが監視に気づいていたら、夜のうちに逃げだすにきまっている(朝になったって、長官のあんな命令は遂行できっこないわ!)。記録によれば、彼は各地で同じ手口を使って逃亡しているのだ。
 このまま、何ごともなく朝になってくれればいいんだけど……。
 篝火が灯された“櫂のしずく”亭の入り口は、頑丈な門がしっかりと閉ざされていた。
 大丈夫、辺りに人の気配はない——。
 じゃなくて! 今は気配に頼ってちゃダメよ、ルフィ!
 と、彼女は自分に言い聞かせた。
 雨が降っているのだ。こういう夜は賊が侵入しやすい——と、見習い時代の教本にあった。小さな気配は雨音にかき消されてしまうからだ。
 この暗さと雨音だけでも困るのに、鐘の音まで鳴り響いている……。
 もし、あたしがモントニスで、追っ手を警戒しているなら、動くのは今かもね……。
 そんな嫌な考えが小さな胸をかすめたとき——。
 カウンターの下で、チチッとサビネズミの鳴き声がした。
 とたん、怖い者知らずの女護民官が、恐怖に身をすくませた。
 ネズミだけは苦手なのだ。「彼ら」が近くにいるのはわかっていても、どうしても慣れない。目に見えるところに出てきて欲しくない……。
 だが、今はおびえている場合ではなかった。「彼ら」は頼りになる仲間なのだから(苦手だけどね!)。
「あいつが部屋にいないですって!?」
 ハッと顔を上げたルフィの声が、独り言のように店内に響く。
 “錆色の血族”——ワイリーの操るサビネズミが、彼女の耳にだけ届く声で、裏口を見張っている護民官助手の報告を伝えたのだ。
「ワイリー・マイス! あなたちゃんと見張ってたの!?」
 虚空に向かって口走ると、何時間も尻を痛めつけていた憎たらしい木椅子を蹴倒し、ルフィはすとんと床に降り立った。後ろで一本に編んだ、腰まである栗色の長い髪が、ぴょんとしっぽのように跳ね上がる。
 驚いた店主が寝ぼけ眼で彼女を見やったが、独り言の不自然さには気づいていなかった。彼はただ、店を出ようとしたルフィに、居酒屋の店主として当然の要求をしただけだった。
「ヘイズォト護民官、お代を——」
「緊急事態なの、ツケといて!」
 言い捨てて店を飛び出したルフィは、ロマヌア式にきっちりと石が敷き詰められたモルテロ通りを、かっきり三歩で渡りきり、立ち並ぶ五階建ての集合住宅の合間、固く板扉を閉ざした商店の前をかけ抜け、裏路地へと飛びこんだ。
 額に巻かれた金属板付きの鉢巻きや、一本に編んで後ろに垂らした髪に、大粒の雨が容赦なく降り注ぐ。
 まったくもう! あのバカネズミ!
 だから「あたしが裏口を見張る」って言ったのに!
 「俺のほうが目立たない。それに、ずぶ濡れで見張るのは助手の仕事だろ」とか、カッコつけちゃって!
 そりゃあね、あたしのために宝珠を手に入れてくれたのは嬉しかったわよ。けど、でも……。
 春先にあったイナ神の海捧祭で、巨大な神像によじ登った大勢の信者たちが奪い合った高価な宝珠……。
 ある者は神殿への寄付金を回収するため、またある者は純粋に富を得るため、そして大半の男たちは、恋する人に愛の証として宝珠を捧げるため、命がけで像に挑むのだ。
 ワイリーが、ルフィのためにある「特別な方法」で宝珠を手に入れたと知ったのは、海捧祭を台無しにしかねない暴走中のガレー船の中で、二人して奮戦している最中だった(※前作『仮面の少女』参照)。
 あの祭りから、もう二か月——。
 今でもあのときのことを——特に船が行き着いたときのことを思い出すと、ドキドキして落ち着かなくなる。
 でも! 護民官の任務中に、助手のバカネズミに恋人気取りで気を使われるのは、真っ平御免の迷惑千万! 仕事の邪魔になるなら、そんな浮ついた気分は願い下げですからね!
 と、慣れない感情に浮かれてしまうのが、恐いようでもあり、護民官としての自分が大事だからという気持もあって……。
 んもう、ルフィ! 今はそれどころじゃないでしょ!
 びしょ濡れになるのもかまわず、頑丈なブーツで雨水を跳ね上げながら、ルフィは石畳の路地を走った。
 身に着けた胸当てや鎖帷子、籠手といった装備が鈍い金属音を上げ、マスリック式の乗馬用の下履きに雨粒が染みをつくる。十七歳の少女とは思えない武骨な格好だが、抜く手も見せずに手にした武器——クルクス・マヌアールスと呼ばれる十字の形をした鉄棒——を見れば、彼女が名高いロマヌアの護民官だと一目でわかる。
 護民官は、ロマヌアの特徴的な役職だ。彼らは担当区に事務所を持ち、市民に害をなす犯罪の取り締まりを主な職務としているが、平民の利益と権利を守るために必要なら、身分や国境も無視して単独で活動できる。捜査であれば、たとえ首都ロマヌアの王宮にも踏みこめるのだ(あとで正当性を追求されるリスクは負うが)。クルクスは、そんな彼らが頼りにする武器であると同時に、護民官という職務と権限の証しでもあった。
 クルクスの柄についた長い朱色の帯紐を右手に巻きつけ、宿の裏手へと急ぎながら、ルフィはまた虚空に向かってささやいた。
「ワイリーは?!」
(盟主は対象を発見。追跡中だ)
 サビネズミは彼女と併走しているわけではない。走っているルフィの近くにたまたまいた個体が、交代で声を調節し、彼女の鼓膜だけを震わせている。なにしろサビネズミは街中にいるのだから……。
(盟主が単独で対象に追いつける可能性は低い)
 “針金ネズミ”が追いつけないですって?
 まずい。モントニスは、よほど先行しているようだ。
(“クレニッスの花”が左の隘路を行けば逃走経路が封鎖される)
(約三十四秒後に、盟主との挟撃が可能だ)
 “クレニッスの花”とは、彼らが特別なヒト個体を識別するためにルフィにつけた名前だった。
 左手の建物にかろうじて通れる隙間がある。片側はルスト特有の赤い石材の建物だが、もう一方は港地区にありがちなタールを塗った木造家屋だった。通り抜けるだけで真っ黒になりそうだ。
「わかったわ」
 ルフィはためらいもせず、サビネズミたちの指示通りにごみ溜のような隙間へと身体をすべりこませた。
 “錆色の血族”は決して嘘は言わない——街や船・城塞といった環境でサビネズミの密度がある域に達したとき、彼らは集団で一つの知性を持つようになる。この事実は、街の主である人間たちには知られていなかった。
 彼らは群で思考する。街中をうろつくサビネズミたちは、あらゆることに聞き耳を立て、小さな黒い瞳で見たすべてを群で共有して記憶する。
 ルストに棲むサビネズミの血族は、二十年もの(彼らの個体での感覚では)はるかな昔に、彼らの王族ネズミを救ってくれたワイリーを盟主と仰ぎ、二十四時間に二十四匹の当番ネズミが彼の手足となる契約を交わしたのだ。ネズミが大の苦手のルフィも、相棒のこの特技には幾度も助けられている。
「ワイリー、聞いてた!? 挟み撃ちにするわよ! まったく、ちゃんと見張ってないからこういうことに……」
(補足——)
 サビネズミたちの声がした。
(盟主は“クレニッスの花”が指定した個体への監視を怠ってはいない)
「あ、あら、そうなの?」
(陳謝。責任は我らにある。短時間だが、対象のヒト個体を見失った)
(悪天候による感覚機能の低下、及び、我らを極度に警戒する、異なるヒト個体の存在が主な原因だ)
 “櫂のしずく亭”は、集合住宅の一階に間借りした安食堂や、場末の木賃宿ではない。門の内側には、上等な酒場に加え、泊まり客専用の中庭と個室まである上宿だ。亭主は腕のいい料理人としても知られている。きっと、ネズミを一匹でも見かけたら、家中を燻蒸するような人物にちがいない。
 ちょっと、ワイリーにきつく言い過ぎたかしら……。
 彼が怠けていたと思いこんだのを反省する間に、隙間を通り抜け、油を絞るオリーブみたいに締め付けられていた身体がフッと解放される。
 四方を建物に囲まれたその空間は、小さな石畳の広間になっていた。
 無分別な増築を繰り返し、周囲の建物に埋もれた街路の一部だ(これって、明らかに違法建築よ!)。水の流れる音が聞こえるのは、左手の隅に公共水道の水汲み場があるからだ(これも違反だわ、公共水道の不法な占有よ!)。
 右手前方に、彼女が通って来た隙間よりはずっとましな小道がある他は、出口はない。左右の建物には勝手口の扉があったが、どちらも固く閉ざされている。サビネズミたちの言う通りだった。
 小道を走ってきた幽鬼のような男が、立ちふさがっているルフィに気づき、広場の中程で立ち止まった。
 そいつの後から、ワイリーの声がした。
「護民官、気をつけろ! そいつが“死人”——モントニスだ!」
 んもう! 極秘任務なんだから、大声を出さないの!
「しーっ! わかってるわ! 手配書の似顔絵を一緒に見たでしょ!」
「あんたが、護民官か。若いな。若すぎる。初めて見た。変わってるな」
 モントニスは、ぼそぼそと聞き取りにくい口調でつぶやいた。商用ロマヌア語の文法が間違っていたし、一言ずつ区切って声を発するたび、長い舌がちらちらと唇からはみ出すのが不気味だった。
 ワイリーに負けないほどの長身だが、ひどい猫背だ。ギョロッとして瞬きの少ない目が、ルフィ越しに背後の隘路を見つめていた。年の頃は五~六十代ぐらい。だが、身のこなしは訓練された兵士のようにきびきびしている。
 服装はありふれたロマヌアの商人風の生成りのチュニック——ただし、変装は成功していなかった。羽織った黒いマントや、そこから見え隠れする異様に長い手足が怪物じみていて、とてもまともな市民には見えないからだ。
 立ち止まったあとも、マントの奥で長い腕がゆらゆらと動いている。武器を隠し持っているのかもしれない。モントニス自身の白兵の技量については、資料にはなかったが……。
 ルフィは、油断なくクルクスを構えた。
「あなたがモントニスね!」
「いかにも。お嬢さん」
「ヘイズォト護民官よ! もう逃げられないわ。観念なさい」
「よく気づいたな、この抜け道に。見張りはいなかった、宿の回りを調べたときはな。だから逃げられる、そう思った」
 ロマヌア語に不慣れでわかりにくい話し方だが、やはりモントニスは監視を警戒していたらしい。こうなっては、この場で捕らえるしかない。
 投獄して裁く前に、どうしても「あのこと」を確認しなければ。
 可能なら、この場で尋問を開始してでも……!
 ルフィの踵がすっと持ち上がった。夜中の極秘任務だから、声を張り上げたいのを我慢して控えめな声で宣言する。
「モントニス、あなたを逮捕します! ロマヌア市民でないあなたには、いくつかの権利が認められていません。そのことを心得ておくように」
「やれやれだぜ、護民官……」
 追いついたワイリーが、あきれ気味につぶやいた。
「こんなときに、律儀に権利のご開陳とはね」
「あら、大事なことよ」
 と、モントニスの向こうにいる相棒に目をやるルフィ。
 あまりに自然な二人の会話に、はさまれて立っている犯罪者のほうが戸惑ったくらいだ。
 ワイリーが苦笑する。
「いいかルフィ、こいつは内海中に知れた凶悪犯、“死人”のモントニスだぜ。おとなしく捕まるわけが……」
「黙れ。盗賊」
 いらついた声でモントニスが会話を遮った。
 ふり向いた勢いで、ぬれて重たいマントがふくらむ。彼は不快そうに“針金ネズミ”をにらみつけた。
 ずっと雨の中にいたワイリーは青白い顔をしている。暗い色の衣服をべったりと肌に張りつかせ、濡そぼった濃い金髪からは雨水が滴っていた。それでも、彼の青い瞳に疲れの色はない。細長い両腕を広げてだらりと垂らした姿勢で、油断なく相手をにらみ返している。
 モントニスが言った。
「“針金ネズミ”か。ルスト生まれの盗賊。貴様も法に触れている。咎められる立場か? 同じだ。犯罪者が」
「あいにく、俺は足を洗ってる。それに“針金ネズミ”は女子供を傷つけない主義だ。汚い殺しをする“死人”と一緒にすんな」
 汚い殺し……。むしろ、「地獄の創造」とでも言うべきだわ……。
 半身になったモントニスの背中を見つめて、ルフィは思った。
 この男は、報酬次第で標的の街を「破滅」させるのだ。それは、大火事や疫病よりはるかに厄介な代物だった。はっきりモントニスの仕業とわかっているだけで三件。おぞましい手口で内海沿岸の城塞都市が全滅している。
 いずれも独立した都市国家だったが、ロマヌアはどの都市とも同盟を結び、城塞内に通商と外交の窓口である商館を設けていた。当然、都市国家にいた多くのロマヌア人が、彼の「破滅」に巻き込まれている。つまり、その時点で、モントニスはロマヌアを敵に回したのだ。
 資料にはこの男の使う「特異な魔法技術」に関する記述もあったが、専門的なことはルフィにはよくわからない。わかっているのは、モントニスが魔術師で、魔法であの大惨事を起こしたことだけだ。“死人”の二つ名にふさわしい、おぞましい「破滅」を……。
 魔法は大したことができない——とは、ルフィが懇意にしている腕利きの魔術師、ネウトスの口癖だ。やれ爆発だ炎だ雷だ、竜に姿を変え、傷口を見る間にふさぐ……などといった、神話か野外劇にしか登場しない荒唐無稽なことは、現実の魔法にはできない。
 ルフィが「不可能とは言い切れないでしょ」と詰め寄っても、ネウトスは「まあね。ただし、何百年もかかるだろう」と言って譲らない。
 だが、モントニスの“破滅”は現実に起こっているのだ……。
 ——と、ルフィが思い返していたのは、ほんの数秒間だった。
「愚かな。依頼者にあるのだ。全ての責任はな。私は技術を提供した。それだけだ」
 そんなモントニスの声に、ハッと我に返る。
 “死人”は、からかうような調子で話し続けた。
「あとは見ていただけ。なにが違うというのか? “針金ネズミ”。スース村のときの貴様と」
「なんだと……?」
 古傷をえぐられたワイリーの目が、すうっと細くなった。
 ハッと息をのむルフィ。
 まずい話題だった。あの事件のことは、裏社会にも知れ渡っているらしい。たとえ事件の真実が隠されていようと、悪い噂だけは伝わるものだ。
 恐ろしい陰謀のもとに傭兵たちが小さな村を襲い、村の男を皆殺しにした上で女子供を奴隷商に叩き売った——。
 断じて“針金ネズミ”のせいではない。彼は居合わせただけなのだ。
 なのにワイリーは償いもしていた。その後も、ずっと責任を感じている。
 あの事件がもとでルフィの父が失職し、失意のうちに戦死したから……。
「お前もただ見ていたのだろう?」
「ちがう!」
「村は破滅した、私の芸術とは正反対のやり方でな」
「ちがう! お前の腐れ死体とはちがう!」
「もう一つ知っているぞ。ほかにも子供が犠牲になったそうだな。お前のせいで。マスリックのライモードでの話だ」
「黙れ!」
 顔色を変えて、ワイリーが怒鳴った。
 またしても古傷……いや、これはごく最近、ルフィと知り合ってからの傷だ。彼を挑発してどうするつもり?
 ルフィは、背後からじりじりとモントニスに近づいた。
 ワイリーを見すえたまま、“死人”はにやにやと笑みを浮かべている。
「私と同じだろう。直接手を下さない。貴様もな」
「黙れ! 黙らないと後悔することに……」
 やや広げた両腕から、ぽたぽたと水滴を垂らしながら、ワイリーがゆらりと半歩ほど間を詰めた。
「……いや、やっぱやめだ。お前には後悔する暇もやらん。すぐに黙らせる」
  “針金ネズミ”は自ら武器を持たない。泥棒時代からの信条で、彼はいつも丸腰だし、護民官助手用の鎧も着けていない。
 その場にあるもので戦え——それが彼が師匠に習ったやり方だ。それでも、ワイリーなら魔術師の一人や二人、片づけるのはお手のものだろう。その点で気後れする理由はないのだ。なにしろモントニスは、女でも子供でもないのだから……。
「だめよ、ワイリー・マイス! 殺しちゃだめ!」
 叫んだルフィは、相棒を止めようとせまい空き地を回りこもうとした。
(注意!)
 サビネズミの一声が、ルフィの鼓膜を震わせる。
 それが自分への警告だと気づいたときには、背中を向けているモントニスの黒いマントから銀色の切っ先が飛び出していた。
 ロマヌアの外科医が使う手術刀に似た、小さな刃物——。
 後ろ向きのまま、ルフィの喉元めがけて正確にくり出された鋭い切っ先が鎧の隙間に滑りこみ、白い肌に突き刺さって頸動脈を切り裂く——。
 と思った次の瞬間。
「ぎっ!」
 モントニスのほうが、うめき声を上げていた。金属音を立てて、手術刀が石畳に落ちる。
 間一髪、刃先が首筋に触れる寸前——。
 クルクスの十字で、相手の刃を指ごとはさんだルフィは、身体を半回転させると同時に得物をひねり上げていた。
 クルクス・マヌアールスの極意は、相手の力を利用して攻撃を受け流し、その力を利用することにある——ルフィはその達人だった。刃を突き出した力でもって、モントニスは自分の右腕を背中へとねじり上げたのだ。
 とはいえ、本当にぎりぎりだった。緊張のあまり、刃が狙っていた喉元が、傷ついてもいないのにひりひりする。
「あ、危なかった……」
 ルフィがホッと息を吐くのと同時に、ワイリーが叫んだ。
「護民官! 大丈夫か!? 怪我は? 刃物が刺さったのか? 切られたのか? 傷は!? 喉か?」
「平気よ! いいから黙って!」
「こっちは心配してんだろが!」
 だ~から! そういう「ムズムズする気遣い」が、職務の妨げになるのよ!
「それより、早くこいつを……」
 そう言いかけたとき、モントニスが動いた。
 普通ならぴくりとも動けない状態なのに、慣れた動作で身体を逆回転させ、腕をほどきにかかっている。明らかに訓練された動きだ。
 な、なんてやつなの!? がっちり固めてたのにっ!
 驚くルフィ。
 だが……。
 順調に腕を解きにかかっていたモントニスは、なぜか勝手に足をもつれさせて、無様に転倒した。
 ルフィはとっさにのしかかって体重をかけ、腕を固めたまま、うつ伏せに相手を地面に押さえつける。今度は手加減はしない。動いたら腕を折る覚悟だ。
 逃げられたと思ったのに、どうして急に転んだの……?
「とっくに縛ってあった。足のほうはな」
 “針金ネズミ”が、モントニスの言い回しをまねて言った。
「くっ……」
 泥水に顔をつけたモントニスが苦しげに息を吐く。彼の足首には、いつの間にか幾重にも針金が巻き付いていたのだ。
 無論、二十四匹の当番ネズミの仕業だった。ワイリーは挑発に乗ったふりをして、彼らに針金を巻きつかせていたのだ。
 薄明かりの中、ワイリーがニッと笑みを浮かべる。
「この“死人”野郎が思ったより手癖が悪くて、少々焦ったがね……」
「焦ったのはこっちよ! まったくもう、心配して損した! お芝居なら、お芝居だってわかるようにやってくれなきゃ——」
「護民官、それ本気で言ってんのか?」
 呆れたようなワイリーの言葉に、「あっ」と頬を赤らめるルフィ。
 芝居とわかったら意味がない……。
「ば、馬鹿ね、冗談に決まってるでしょ!」
「まあいいさ。そういう、すっとぼけた相棒だからこそ絶妙の連携が生まれるわけで……」
「つ、つまんないこと言ってないで、早く拘束して」
「へいへい」
 ワイリーが、手早く捕り物用のロープで後ろ手に縛り上げて、モントニスを引っ立てる。
 足首から腕までぐるぐる巻きにされた彼を、ルフィは広場の片隅へと押しやった。

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