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外の世界へ踏み出すことの必要性を、科学的に説明しよう


「セカンドキャリアのために、ビジネスを学んでいるんですか?」と よく聞かれる。

このご時世に。



既存の枠組みを横断するような仕事が生まれ、その中間に立つ人が現れ、あるいは ◯◯(職業名)2.0のようにアップデートされた形を創り出そうとする行為は 大衆のものになった。

「他分野からの学び」は「必要」ということで定説になり、もはやカオス(混沌)と言って差し支えないくらいに、世間では日々 無限通りの掛け算が行われている。

スポーツ人にとってのビジネスが「セカンドキャリアのため」だとするならば、それは陳腐な足し算的発想だろう。資格を集めて得た安心感のようなものと大差ない。


我々の世界で叫ばれ続けている、セカンドキャリア問題は一旦 忘れる。

「外の世界を知ることの必要性」は、もう少しポジティブで 新しい価値観を与えてくれるようなものだ。

「サッカーに集中した方がいい説」も、かなりイイ線いってると思う。焦点を絞り、よりサッカー選手らしくあるべきかもしれないと悩むこともある。だから毎日 葛藤している。

それでも自分は一人で、人生は一度しかない。もう、現世はこのパターンで挑戦してみると決めたので、信じた正義が間違っていないことを 何とか肯定できたらいいなと思う。

来世では、朝から晩までバカみたいにボールを追っかけると決めている。



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目次

・外の世界へ踏み出すことの必要性(理論)
・外の世界へ踏み出すときの心構え(実践)

豪華、二本立て。スポーツ選手に限らずのお話。



外の世界へ 踏み出すことの必要性


物事を考える方法には、大きく分けて「帰納」と「演繹」というものがある。

(詳しくは軽めにググって下さい。ややこしかったらスルーしてOK)


(スワン:鳥の種類の名前)


帰納とは、例えば「スワンが白いこと」を観察して その事象を多く集め「すべてのスワンは白い」という法則を導き出すこと。

これは、事象という具体を 抽象化 すること


対して演繹とは「すべてのスワンは白い」という法則を前提にして、スワンを見つけるときに「白いはずだ」と 法則を個々の事象に当てはめること。

これは 、法則という抽象を 具体化 すること。


「科学におけるさまざま法則というのは、個々の事象を観察し、そこから何らかの仮説を立てて法則をモデル化し、それをさらに実験によって検証するという手順を踏みます。(中略)人類の知力=抽象化(+具体化)といってもよいほどに、具体と抽象の往復としての思考の価値はいくら強調しても強調しすぎることはない」1

事象の繰り返しから法則が作られ、法則はルールとか価値観として また個々の事象に活用され、あなたの世界も形成されている。

具体と抽象を行ったり来たりして考えるのは超重要、ということ。


しかし、問題がある。

「人間はよくも悪くも、一般法則化・ルール化してしまうと、そのパターンが変化しても、覚えた法則やルールを疑うことなくいつまでも使い続ける」2

人間はできるだけ何も考えず 楽をしたい。

法則を使うだけの 抽象→具体(演繹)は好きだ。
事象から想像を膨らませて考える 具体→抽象(帰納)は疲れる。

しかし我々は、具体と抽象の行ったり来たりを、それぞれ同じように得意だと勘違いしている。明らかに法則を使いたがっていることに気づかないでいる。

だから間違った場面でも法則を使う。ルールが形骸化する。いつでも変化できると思い込んでいるから対処もせず、価値観が固定化される。



旗降るような立場にある人こそ、特にそうなってしまう(例えば 経験が長い人・高く評価されている人・社長・上司 etc...)。


「明白と考えられている真理は、常に解釈され、肯定される必要があるばかりではなく、くりかえし再解釈され、再肯定される必要が生ずる。権威者は、ほとんど毎日のように、何が開示された真理であるべきかを宣言し、あるいは提示する必要に迫られて、やがてそれを専断的、冷笑的に行う」3

権威者は、真理(法則・ルール・価値観)を伝える側の人間だが、往々にしてそれを専断的(自分だけの考えで)、冷笑的(あざ笑うよう)に行うようになってしまう。


ピンとくる人も多いのではないだろうか。


(俺がルールだ、価値観だ 的な人いるよね)



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ここまでで、具体例を示そう。例えば「スポーツ=価値がある」という法則があるとする。

それは、スポーツ人たちが実際に「価値を提供した」事象から、法則が導き出されている(帰納)。

スポーツ界は その法則を前提にして、例えば「被災地に勇気を与えられるのではないか」と個別の事象に当てはめて考える(演繹)。


しかし、人は『覚えた法則やルールを疑うことなくいつまでも使い続ける』。

「今、自分が、この場でも、その法則を使うことができるのか? 」と、考えることができなくなってくる(しんどいし面倒くさいから)。


周りの誰に聞いても

???「大丈夫、この法則はいつでも使える。スポーツはとりあえずやっとけば、価値になるから」

と答える雰囲気になってくる。そういうお花畑の中で、漠然とスポーツし続けることになる。


(俺の生きてる世界、よく分からんけど 最高〜 )



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価値観が固定化され、法則を何にでも当てはめようとする思考停止状態になると、白いスワンばかり探すようになる。白以外の鳥がいても「スワンじゃないだろう」と決めつける。

そのような環境では、これ以上いくら白いスワンを見つけても「すべてのスワンは白い」という説が強化されないのは何となくお分かりだろう。

(さっき胴上げされた奴が言う「これだからスポーツ最高なんだよぉ」という話、なんか説得力ないよね?)




ここで提案したいアプローチは、反証可能性を持つということだ。


「検証されようとしている仮説が実験や観察によって反証される可能性があること」

"反証可能性" - 『ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典』 更新日時:2018年1月22日 (月) 10:35


「すべてのスワンが白い」という法則をより真理に近づけていくということは、黒いスワンという反証が見つけられないという主張を進めていくことだ。


別に難しくもなんともないので、少し説明する。

「反証可能性がある」とは、新しい事象の発見により 既存の法則が覆されるかもしれない環境にいるということだ。科学はこの反証可能性を必要としていて、疑似科学とはここが異なる。



占星術では、例えば占いの結果が外れた(事象)とき、多くの場合で「気付かない間に起こっていた」とか「星の動きが変わった」とか何とか言って、自分の占い(法則)が覆されないようになっている。

こういう逃げ道が残っている以上、占星術を反証する(否定する)ことはできない。反証可能性を満たしていないわけだ。そういう反証されない環境に身を置く占星術は、科学にはなり得ないという理屈だ。


(占いは間違ってへんねんけど、星の動き変わってしもたからなあ)



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「スポーツ=価値がある」という法則に また置き換えれば、スポーツ界は常に、それが覆されるような問いに向き合い続けなくてはならないということだ。

スポーツは価値を発揮できていないのではないか? そもそも スポーツが持っている価値って何なのか? そういう仮説に対して、誠実に検討していこうとする姿勢が求められる。


スポーツ界の逃げ道は「結果」というものの存在だ。それ自体の価値が問われたときも「まだ結果が出てないから」と言っておけば 反証されずに済む。日本一になっても、世界一になっても 勝ち続けることはできない、であれば 永遠に逃げ続けられる。


しかし、これは持論とかではなく、動かしようのない明確な事実なんだけど「価値があるものはあるし、ないものはない」

結果のせいにできず、本質的に中身の価値がないという否定を受け入れるのは苦しい。ただそれによって初めて スポーツの深い部分に思考を巡らせ、次に生かしていくことができる。

スポーツ=価値があるという法則はさらに強固に、そして汎用性の高いものになる。



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スポーツに限らず、どの世界でも 科学と同じような手続きを踏む必要がある。つまり、反証可能性を持たないといけない。否定されることが起こり得るように 自らの世界を設計しておかなければならない。


そのために、外の世界へ踏み出す必要がある。

外側の世界へ踏み出すというのは、自分とか自分の世界の否定を獲りにいく行為だ。


( 1 ) 内側で信じられているようなことは、外側へ向けてプレゼンしなければならない。公平に批判し検討されるようなところに、自らを投じるべきだ。


( 2 ) 自分たちを否定し得るような反証に圧倒される経験、例えば僕で言えば 価値を与えまくってる他のスポーツとか、たくさんの人を幸せにしているビジネスとか、そういうものに出会わなければならない。それを目の当たりにしてもなお、自分が自分の世界に留まり続ける理由を 漸進的に積み重ねしていく過程にのみ、正しさの証明がある(ここテストに出ます)。


外の世界へ踏み出すことによってしか生まれない、発見と進歩があるのです。




黒いスワンは実際に 、1697年にオーストラリアで見つかっている。


(これはカラス)



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悪魔の証明と同じような話で、(黒いスワンが)いないということを証明するのは究極的には不可能なことである。


「たとえ知ることがーーつまり、確実に知ることがーーできないとしても、われわれの知識は成長している。われわれの知識は成長しうるがゆえに、ここでは理性が絶望する理由などありえない。そして、われわれが確実に知ることなどありえないがゆえに、ここでは権威を主張したり、自己の知識に慢心したり、ひとりよがりになったりする権利は誰にもないわけである」4

それでも、そうした行為によって我々は成長できる。そして確実に知ることができないということを知ることは『権威を主張したり』『自己の知識に慢心したり』『ひとりよがりになったり』することを戒めてくれる。


そして 誰しもが、すべてを知ることはできない。だから、誰かと比べてほんの少し世間知らずであることで、卑屈にならなくてもいいのだ。

「学ぶことによって無知を知った状態は、多くの困難に際し助けとなるであろう。われわれすべてが、自分たちの知っているさまざまな小部分においては大きく異なっていながら、自分たちの限りない無知の点ではすべて平等であることを、心に銘記しておいたら良いと思う」5



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外の世界へ行くときの心構え

長くなってしまったので、サクッとまとめよう。三つだけ。


① 帰る場所 を把握しておく

一歩 外に出れば、想像したこともなかった視点、新しい出会いがもたらしてくれる刺激、自らの世界に対して湧いてくる不満 そういうものが生じることだろう。

外側の世界へ行くときに恐怖を感じるのは、帰る場所が分からなくなるからだ。

「色々影響は受けるだろうけど、またここに帰って来て頑張ろう」と、そう思える場所があるから 人は少し先へと踏み込める。

自分の世界、自分の居場所(ポジショニング)のことは、よく理解しておこう。イメージは、実家だ。



② 旅の所持品は少なく

スタンフォードで行われている「あなたは誰ですか?」と生徒に問うアクテビティが、個人的にとても気に入っている。

最初に流される模擬ビデオが面白い。

「あなたは誰ですか?」と問われたデイヴが「僕は大手ペット製品会社の課長代理で・・・」とか「少々テニスをするのが好きで・・・」とか「のんびりしたいいやつで、時には冷静さを失うけど・・・」とか答えようとする。

しかし、そのたび「君の仕事は聞いていないんだよ」とか「君の趣味の話はしていない」とか「君がしているのは性格の説明だ、私が知りたいのは デイヴ、君が誰なのかなんだ」と延々と詰められ、最後にデイヴがブチ切れる。


「私たちは自分の所属、特に学校や会社といった外的な識別要素に頼りがちだ。あるいは活動や趣味など、自分がしていることを引き合いに出すかもしれない。性格について話すことで自分が誰かを伝えようとするかもしれない。このいずれもが私たちが何者かを説明するのに役立つことは間違いないが、本当に自分が何者であるかを伝えきるには十分でないこともあるだろう」6


何が言いたいのかというと、学校も会社も役職も年齢も性格も実績も将来性もすべて、自分が何者かを表現するには 荷が重すぎる。

過去の経験とか、今いる世界でこれをしているからこうとか、だから未来はこうなっていくはずだとか、そういうものを外に打ち出してく必要はない。先入観も捨てて、色眼鏡も外そう。

残念ながら自分は何者でもないし、そして 幸いなことに自分は何者でもない。外の世界で 学生やるにはもってこいだ。


そして 物理的にも、荷物は少ない方がいい。いずれにせよ、フットワークの軽さ is 神だ。



③ お土産を買う

この場合のお土産とは、外の世界からの学びだろう。何か学べそうなときは お土産を買うときのように「帰ったらこいつに会おう」と想像するのがいい。

外側で得た学びや刺激は、必ず内側で共有してほしい。感じたことを伝え、議論するべきだ。これが多分 一番楽しく、有意義だ。

そして、できるだけお土産はたくさん買い、できるだけ多くの人に渡す奴がモテる。



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外の世界へ踏み出そう。それは自分とか、自分の世界を反証に晒すことだ。つまり否定される可能性を受け入れるということだ。それに恐怖を感じるのであれば、まだ内省する余地があるだろう。

心の奥底では実は不安で、だからこそクローズドにした世界で出来レースの品評会をして、あるいは身内で傷を舐め合っているのは終わりにしよう。

際限なく広がる外向きの学びによって、少しずつだが確実に、人は進歩していく。今いる場所・やっていることの正当性が強化されたり、イノベーティブな化学反応が起きたりする。

時にはこれまでの自分が否定されて、まったく新しいことに挑戦したくなるような衝動に揺れることもある。だとしても それは、100% 素晴らしい前進だ。カール・ポパーの言葉を借りるのであれば『われわれは生きているなら、もう一度やり直してよいのである』。


真新しい 外の世界の芝は青く見えるはずだ。それでも「自分は、この自分の世界でまだ生きていこう」と、そう改めて決意できるのであれば、あなたは以前のあなたよりも その世界で生きていくに相応しい。









・出典

*1,*2, 細谷功(2016)『「無理の構造」ーーこの世の理不尽さを可視化する』dZERO(インプレス), p28, p29. 


*3, *4, *5, カール・R , ポパー(1980年)『推測と反駁ー科学的知識の発展』(藤本隆志・石垣壽郎・森 博訳)法政大学出版局, p13, p xii(序文), p51.


*6, *7, スティーブン・マーフィー重松(2016年)『スタンフォード大学 マインドフルネス教室』講談社, p97.



・参考にした本

米盛裕司(2007年)『アブダクションー仮説と発見の論理』勁草書房.


イーライ・パリサー(2016年)『フィルターバブルーーインターネットが隠していること』(井口耕二訳), ハヤカワ文庫NF.


最後まで読んで頂き、ありがとうございました。