人生が「個」で完結するという考え方は、ひょっとしたら、イリュージョンかもしれません。

人類(ホモ・サピエンス)の出現した当初を空想してみると、ヒトが複雑化した社会を営んでいくためには、生物的な再生産だけでは不十分であるので、文化的な再生産が必要になるだろうなとイメージが浮かびます。

子どもたちを次世代の共同体を担う「正規メンバー」に育て上げるのが「教育(社会化)」であると考えれば、やはり教育はヒトの基本的な営みでしょう。ヒトの赤ちゃんが脳の前頭前野を成長させるために要する時間は以前の「イヤイヤ期」のお話の時に書いた通りです。すぐ大人になる動物と違い、ヒトの教育には長い時間と手間暇がかかるのです。

教育と言っても「学歴」なんぞは二次的なもので、子どもたちの問いに共同体の大人が応答するという営み、共同体のメンバーが存続していくために、技術や知識を蓄積し、伝達していくという行為がのほうが重要と言えるのだと思います。そういう意味でも、教育や知識の伝達は次世代に対する先代からの贈与のようなものでしょう。

(アメリカが手本かもしれませんが)今日の日本の教育は「共同体の利益」のためでなく、教育を受ける個人が地位財(社会的地位や高い報酬など)自己利益を追求するという価値観が幅を利かせていますね。ある種の教育は「贈与品」から「商品」になったわけです。つまり、高いお金を出して買った「商品」から得られる利益は、購入者(消費者)のために使われる、という価値観です。まあ、そうなりますね。

「知識や技術を共同体の為に活かすことを国民に期待する」北欧などの大学は、学費が無料ですね。一方、アメリカのように高等教育に高い学費が求められるところでは、高度な教育を受けた人材が、学生ローンの返済の為にもウォール街などで報酬の高い仕事に就くという話を聞きます。まあ、そうなりますね。

教育を「商品」と考えれば、マーケットにおける「消費者」のニーズをつかまなくてはなりません。思想家の内田樹さんが次のように述べていました。

子どもが「俺の自己利益を最大化できるようにするためには、どういう教育がいいのか?」と訊いてくるのに対して「こういう教育を受ければ、あなたのニーズは最小の努力と最低の代価で満たされます」という商品提供をできるかどうかを教育機関が競っている。
鷲田清一、内田樹ほか『おせっかい教育論』140B pp. 28-29

共同体を維持発展させていくことを前提に置けば、本来は、個のニーズなど関係なく、伝えるべきことは、どんどん教えなくてはいけなくなる。子どもに「うざい」と言われながらも勝手に「贈与」をせざるを得ない。竹原ピストルさんのように「よーそこの若いの、俺の言うことを聴いてくれ。俺を含め誰の言うことも聴くなよ」ということも必要なことがあるのです。

さらに、教育が「商品」なのであれば「都会で高収入を稼ぐことのできる資格を高い学費を出して得た学生」が、その資格を最も効果的に活かしたいと考えれば、その機会が多いであろう都市に移動したいと考えることは当たり前かもしれません。逆に、教育を「商品」としてではなく、先人からの「贈与」と考える者たちの中には、次世代に伝える物のある地域に価値を感じるかもしれませんね。地方創生などを考える際にはこのような視点も必要かもしれません。

学力なんかも、例えば正規分布していると考えると。X軸が右のほうに位置する人が官僚になったりする可能性が高いのじゃないかな。「商品」としての教育を得た人が社会づくりをする人の中に増えてくると、「商品」にお金と時間をかけた人が好ましいと考える社会の「カタチ」になってしまうかもしれませんね。

歴史学者の磯田さんが何かの番組で述べていましたが、社会が正常の時はまあ良いとして、社会で非常な出来事が起きていて、何かを突破しなくてはいけない時には、X軸左側の面白い人が良いアイデアを出したり、とてつもない行動力を発揮したりする。消費者のニーズに沿った教育だけでは、対応できなくなることもあります。今まさに、非常の人材が求められていますね。

死と個人

さて、話は少し変わります。ヒトは必ず死にます。しかし、いつ死ぬかについては、統計的な平均年齢と比較するくらいは出来ても、やはり予測不能という言わざるを得ません。イエール大学のシェーリー・ケーガン先生は死と幸福度について図形の面積で説明していました。つまり、Y軸が「境遇の良さ」でX軸が時間となります。2つのグラフを提示し、その一つは人生の初期が無一文から始まり、最期にものすごい「境遇の良さ」で終わります。もうひとつは、人生の初期が何一つ不自由のない境遇から始まりますが、最期は無一文で終わる。境遇の良さに関する図形の面積はどちらも同じです。

ケーガン先生も、私たちの多くは「無一文」から始まり「良い境遇」で終わるタイプを好むと言います。「局所的な良さ」も幸福感を感じるためには重要ですが、この境遇の良さについての「形」も非常に重要で、私たちは「良いものから悪い者へ」という物語を好まない、自分が主人公の小説のクライマックスは、最期のしかるべきところに置かれることが望まれる、というのがケーガン先生の考えでです。

そうだとすると、「死の予測不可能性のなかでは、人生が理想的な形を取れずに終わってしまう可能性を心配する必要が生まれ」ます。人生が有限であれば、当然ながら、将来得られる人生の量には限りがあり、希少資源ということになります。そして、事前に人生のメニューや味見をさせてもらいながら、経験する機会を奪われるとすればそれは大層酷いことだということにななります。それが死というものがより嫌われる理由になっていると、ケーガン先生は説明します。

人間の死は嫌ですね。でも、ヒトを「個」として完結すると考えてしまうことは、何か別なフレームワークにはめ込まれてしまう気持ちにもなります。平均的な人生のメニューを見せられて、そのメニューにある項目の達成や経験に✔を入れていくとします。チェックが埋まっていないと悲しさや寂しさを感じ、劣等感や優越感に一喜一憂する人もいるかもしれません。

幸福の研究

私は幸福度の研究を少しだけしています。そのため結構、誤解されるのですが、実は「人間はどうすれば幸せになるか」「幸せになろう」「幸福度な暮らしの秘訣」などを研究していると思われるようです。ケーガン先生が述べていた「局所的な良さ」のようなものかもしれません。依頼があればそのような講演も受けることがありますが、実は、幸福研究をしている一番の理由はそこではありません。

ヒトが動物であるとすれば、種の存続にとって望ましい行動にどのようにヒトを導くかという点に私は関心を持っています。そして、次世代のことを思い子どもたちを導いたり、仲間を助けたり、共同体のためになる技術を考えたり、生活のリズムを大事に暮らしたりすることで、オキシトシンやドーパミンやセロトニンなどのホルモンが出ることで、そうした行動が大切なんだと思わせているのだなと言うことを考えています。

近年では、AIを使って「意識」「記憶」の不老不死を目指すような研究もおこなわれていますが、ヒトが「美しい」と感じるものも、有限な命と次世代に繋ぐ生殖行動(に関連する事柄)と結びついている場合が多いので、不老不死が実現すれば、そもそも不老不死の者が「美しい」と感じる基準も変わってしまう可能性が高いですね。

ヒトは複雑に言葉を使い、記号の世界を拡大させ、生物的なハードウェアの世界と並んで、言葉のソフトウェアの世界を広げました。そして、私の気がかりは、ヒトが生身の世界よりも言葉の世界に「過大な信頼」を置き始めているという所です。つまり、動物として、生存戦略に促されることよりも、後から作り上げた社会システムのリズムに人間の方を合わせて暮らすことを「スマートな暮らし」と認識しだしています。

鉄の檻のシステムのなかで評価されること(収入、地位、権限、名声)によって満足度が高まることはあるかもしれません。しかし、ヒトの身体はホモ・サピエンスの初期の頃に比べて特段進化しているわけではないですね。スマートだと信じる生活を志向することで、これまでヒトが感じてきた結果幸福感に今以上に欠乏を感じるようになるのかもしれません。次世代のために生きるヒトのメカニズムが生きていますからね、個で完結するという考え方は、ひょっとしたら、記号の世界が作り上げたイリュージョンかもしれませんよ。



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