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わたしの認識革命(1)

私がこれまで何をしてきたのかということ。

一言で言うなら、
「認識を変化させて、映し出される現実を変化させてきた。」


例えば「この世は最悪だ」という心持ちで眺めた街はどんな風に映るだろう?

雑踏は雑然としたゴミ箱のように見えるかもしれない。


楽しそうに笑いながら通り過ぎる人は、

現実の辛さから目を背けた、束の間の軽薄な狂乱に見えてしまったりする。


反対に「この世は美しい」という気分で

全く同じ街を見たらどうだろう?

雑踏は、色とりどりの個性を持った人との出会いの期待に彩られ、
笑顔の通行人の楽しげな笑い声につられ、思わず笑顔になってしまうかもしれない。


これは、その人の問題じゃないか。


気分というフィルターを通して、

外の世界につけた意味合いが変わっただけだ。
実際、世界は何も変わっちゃいない。

気分が変わっただけでは、世界側を変化させることなんてできない。


そう思うかもしれない。

いやいや、ここが重要なんだよ。


そもそも、世界は自分と無関係にはない。


「世界があって→自分がある」
そうではない。

私が、世界を観測するから、世界は存在する。

目を閉じたら、世界は消える。
目を開けたら、世界が現れる。


目の前の風景を
「ただ在る」だけ。
と思って5秒くらい見てみるとおもしろい。


何の意味もつけちゃダメ。


これは、壁だ。
これは、本、文字が書いてあるもの。

そういった、無意識の意味づけもだめ。


ただ在る。
以上。


なかなか難しいでしょ?

空っぽの世界がそこに現れない?

愛おしさも、愛着も、難しさも、何も色付けされない世界。


これが何になるの。って?

つまり世界とはそういうこと。

世界をつくっているのは、自分だ。


私が観るからある。
私が、意味をつけ、思いを投影し、世界に彩りを与える。


外の世界は、実はあなたの内面だ。
「こういう話、よく聞くよね。」って人はごめんなさい。

でも、すべてはそこからだから、あえて書くよ。


人に対するあなたのイメージが、目の前の人に映し出される。

人は汚いと思っている人の前には、汚い人が映し出される。
人はあたたかいと思っている人の前には、温かい人が映し出される。

それだけのこと。


人に対する評価は、人それぞれ。
絶対的に悪い人も
絶対的に良い人も
存在しない。


観る人が評価を与える。

そして評価通りのその人が目の前に映し出される。

今、生きている世界はあなたの中のイメージが、
映し出されてるだけだ。

(もちろん世界側からの「思わせる要素」もあるけどね)



え?どういうこと?
初めて聞いた人は戸惑うかな?


でも、私の中ではそういうものだって思ってるから正直に言うよ。


世界はあなたがつくってる。
あなたが映し出して、演出している。
想像が形になったものが現実世界だ。


だから、

私がこれまで何をしてきたのかということ。


一言で言うなら、
「認識を変化させて、映し出される現実を変化させてきた。」

そろそろ結果が出た頃。


これを本格的に始めたのは、ちょうど去年の3月頃。
それまで、30年間。
色んな経験をして、そこで得た材料のおかげで

イメージの世界はクレヨンでぐちゃぐちゃ上書きしたみたいに、
色んなイメージで雑然としてた。



わたしってこういう人。
人間ってこういうもの。
仕事ってこういうもの。
お金ってこういうもの。



白黒はっきりしたい性格だから、
まずは、まっさらなキャンバスを用意する所から始めようと思った。

塗り重ねても混乱するし。

家掃除する時は、まず押し入れの中全部ひっくり返して、

捨てるもの全部捨てるタイプ。



だいぶ、まっさらになってきたのはつい最近のこと。

まっさらになったら、今度はどういう絵を描こうか。っていう、
テーマに進むんだけど、
その前に、これまでを整理しようと思って文章を打っている。

広大な仮想空間の中でこんにちは。サポートもらった分また実験して新しい景色を作ります。