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読書感想:〈社会正義〉は実は正しいのかもしれない...

批判を受けて日本語版出版元である早川書房がnote記事を削除したことで、逆にベストセラー入りを果たした話題の本(笑)「「社会正義」はいつも正しい」を読み終えましたので、感想などを。

最初に未読の方、あるいは購入したものの、なかなか内容を理解するのが困難と感じる方のために副読本を紹介しておきます。想定読者は「フーコーって誰?脱構築って何?」と思った方です。名前だけ/用語だけは聞いたことがある、という方達も読んでおくといいかもしれません。

さて「「社会正義」はいつも正しい」ですが、乱暴に要約してしまうと「リベラリズムやフェミニズム、社会運動等の(一般的に)リベラルな思想/活動と思われているものが近年狂った状態にあるのは、それがポストモダン思想に毒されて変質してしまったからなんだよ!/な、なんだってぇー?!」というもので。本書の内容の八割方はその論証に当てられています。おそらく対象読者は人文学系の学問、社会学や哲学等を修めた人/学生と思われますので、注釈はあるものの現代思想についての基本的理解がないと、かなり理解が辛いと思います。脱構築もそうですしフーコーの「生権力」とか本文では説明抜きで出てきますしね(笑)。躓いた人達は、素直に千葉雅也先生の本を読んで予習/復習をしましょう。

よろしいでしょうか?
さて、著者であるプラックローズ&リンゼイはポストモダンによって毒されたリベラリズムやフェミニズムを批判するとともに、その再生の手段として「本来あるべきリベラリズムへの回帰」を主張しているんですが、どうにもここが個人的には「残念」な点で。

日本でも80年代にニューアカデミズムブームがやってきたときに、多くの人がその思想に飛びつきました。他人事みたいに書いていますが私もその一人で(笑)。あるいはご記憶の方もいらっしゃるかもしれませんが、浅田彰さん、中沢新一さん、柄谷行人さん等は「思想」を噛じった人間にとってはヒーローだったもんです。ただ、その時点でも「ポストモダンは既存の思想を否定/壊すだけで再生が無い」とは言われていたもので。実際そのためでしょうか、ニューアカデミズム/ポストモダニズムはその後定着をみせることなく衰退し、その根幹はプラックローズ・リンゼイが主張するようにリベラリズムや広い意味でのアクティビズムに取り込まれるというか流れ込んでいくというか、思想よりもむしろ運動のためのものとなっていったわけです。

ポストモダニズム、デリダの脱構築やフーコーの生権力を思想の根幹に据えることで、近年の社会運動は多様な人間同士が交渉し妥協して解決策を模索するという迂遠な道を選ぶ代わりに、既存の社会の中に見える(と彼らが主張する)権力性を暴き出しそれを批判することで虐げられている(とされる)者達を復権する、という方向に舵を切った、と著者達は主張し批判します。それはある種の宗教性を帯び、その活動/思想に従事する者達は「正しさという権威性のもと、悪を裁く裁判官となっていった(大意)」というわけです。そこには非常に説得力があり、実際その主張は妥当なものだと考えるのですが…

ではどうすればこの状況を改善できるのか、という問いに対して著者達は「リベラリズムの復権」を訴えるわけです。リベラリズムは問題を即座に解決したりはしないし、ヘイトのような違法スレスレの言葉も許容することがある。しかし、そうした遅々とした歩みを通して人は「何が正しいのか」を見極めて、いずれは進歩発展する、と。

正直、引っ掛かりを覚えるのはそこなんですよね。

著者達が主張するリベラリズムと〈社会正義〉との違いは何か。歩みのスピードの違いだけではないのか、と。
おそらくはリンゼイの主張だろうと推察するのですが、この本では「リベラリズムの考え方の正しさは検証を持って確定される。独善的な〈正義〉に基づく〈社会正義〉とはそこが違う」とされているのですが、リベラリズムがうまくいっていない現状こそが「リベラリズムには何かしらの問題点がある」ということではないのか、と。著者達は「それはリベラリズムが簒奪されたからだ/正常に働いていないからだ」と主張するんですが、正直なところ「それってあなたの感想ですよね?/なにかエビデンスあるんですか?」と。

終章にある「結論と声明」のなかで、著者達はいくつかの反対は述べるものの、多くの項目で〈社会正義〉に対して譲歩した姿勢を見せています。それは本文中にも見られる傾向で。必ずしも〈社会正義〉を否定するものとはしていない。否定しているのは独善的な部分のみと言えるんじゃないかと。それはすなわち〈社会正義〉とリベラリズムが本質的には同じ思想で、ただ現れ方が異なるだけだからではないか。

本質的に同じ思想というのは人間讃歌と言うか人間理性に対する過度な信頼というか、早い話「人間を過度に信じすぎている」という点で。著者達は紆余曲折あっても人間は進歩するし良くなっていく、と主張するわけです。そしてポストモダンはそれを否定している。だから〈社会正義〉にも未来はない、と。でもそれって〈正しい〉のでしょうかね。〈社会正義〉を推し進める人達も同じ主張をしているわけですよ。違いは「誰がそれを決めるのか/担い手は誰か」という点だけで。人間とその〈進歩〉を信じている、という点では両者は鏡合わせの存在。それでは結局「何が違うのか」

リベラリズムに対する位置付けにエドマンド・バークに連なる保守主義の思想があります。フランス革命の現実を見ることで人間理性に対する深い疑念を持ったバークはそれを保守主義として発展させたわけですが、プラックローズ・リンゼイにはそこまでの「深み」が無い。形ばかりの疑義を呈するものの、基本的には楽観的な見方を本書でも提示します。でもそれでいいんでしょうかねえ。伝統や広い意味での〈文化〉や習慣等は「個々の人間(集団)の行いや判断が必ずしも「正しい」とは限らない」という戒めと経験則から生み出されているものです。検証を持って「正しさ」に代える、というのも時間軸を長く持てば局所的な話に過ぎないわけですよ。果たしてそれは「検証」に値するのか。そもそも「検証」が正しい、と何故言えるのか。ニュートン力学だって当時は「正しい」とされていましたが最終的にはアインシュタインの特殊/一般相対性理論によって覆るわけで。それを知ってなお何故に「検証」が正しいと考えられるのか…

ほんとうの「正しさ」というものは、「我々人類には〈正しさ〉なぞ永遠にわからぬもので、常に手探りで道を進むしかない。解った!と思える自体が生じたとすればそれは「群盲象を撫でる」に過ぎないのではないか」と弁えることなんじゃないか、と個人的にはそう考えます。所詮は数百グラムの脳細胞から発せられる〈正しさ〉ですからね。物理世界の広大さ/複雑さ/難解さを前にして、「分かる」など思い上がるのがどうかしている。逆に言えばそれでもなお「これが〈正しさ〉だ!」と力強く宣言する〈社会正義〉は、案外人として正しい姿勢なのかもしれません。皮肉な話ですが…

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