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雑談:討論の距離感

この話の続きでもあるんですが。

ネットで起きる議論には色々なものがありますが、白熱しがちな話はやはり時事に関わるような話で。今(2023年11月)だと国内だとクマ等の獣害であり、国際社会ではウクライナ戦争、パレスチナ戦争がそれになりますかね。なかなか決着がつかないので話題は尽きません。

とは言うものの。皆さん自分の言いたいことを言うだけで、それを他者の意見とすり合わせてより建設的なものにしていこう、実社会に反映させていこう、影響を与えていこう、という方向にはなかなか行かない。そういう話をされる方のほとんどは、いわゆる運動家、揶揄的な呼び方をすればプロ市民という奴ですか。プロ市民も最近は死語ですかね(苦笑)。あまり聞かないですね。話題のテーマを自身の専門とされる方だけが熱心に継続的に話をされていらっしゃいます。逆に言えば、それを自身のテーマ/仕事やなんなら人生の目的としていない人は、どれだけ真剣/熱心にそれを語っていたとしても、自認がどうであれ、野次馬に過ぎないんじゃないかと思います。

もちろん、野次馬は野次馬でもいいんですが。日本には言論の自由があり誰でも自由に自分の意見/意志を述べ伝える権利があるわけですから。とは言うものの、野次馬の意見は所詮「それだけのもの」じゃないですか。にも関わらず少なくない人が「我が事/我が一大事」とばかりに口角泡飛ばす勢いで話をされていますし、自分の意見に反対する者がいようものなら親の仇に会ったような調子で論争になってしまう。なんでなんでしょうね…

思うにこれは距離感を間違えているからなんじゃないかと考えるんですよ。ネットの議論だと「相手と自分の距離感」という話になりがちですがそうではなくて…

話題と自分との距離感を間違えているという話なのではないか。

たとえば、「クマが生活圏/自分の家等の近所に出没して怖い/困っている」という話で考えてみましょうか。実際にクマが出没する地域の人(ウチもそうですけど)、出没してもおかしくない地域に居住する人間にとっては、「クマは怖い/とは言えクマも我々と変わらぬ生き物だ」という考え方の違いはあれど、クマ/獣害をリアルな問題として認識することは出来るわけですよ。当たり前ですけど「身近な話」ですから。逆に言えば、身近にクマが出るという事態を経験しないであろう人達は、どちらの立場についても「遠い話題」に過ぎないわけです。だからどうしても「観念論」に近くなる。

距離感というのはそういう話です。自分がいま語っている話/話題が自分にとって身近な話か否かがわからなくなっているから、話題に対して熱心に語るわりに冷めるのも早いのではないか。冷めるのが早いのは当然の流れなのでいいんですが、問題は「では何故熱く語ってしまうのか」ですよね。

バーチャルな形ではあるものの身近な人がそれを語るから「自分もまたその話題について語らなければならない/この話題から外れることは、身近な人との社会的な関係を毀損するから何かしら語ろうとする」というのが実際のところではないか。リアルな関係性での「身近な人」は家族や学校の友人知人、会社の同僚や取引先になりますかね。そういう人達が話題にしていることであれば「いや、私はその話題について知りません」とはなかかな言えませんよね。「詳しくは知らないので…」と断りながらも何かしら話をしようと考えますし、興味があれば熱く語ることもあるでしょう。ここまでは当然の流れ。問題はその「身近な人」が実は物理的にはぜんぜん身近な人ではなかった場合で…
薄々感づいている人もいると思いますが、私達は「TV等で毎日見ている人/ネットで接する人」もまた身近な人と認識してしまうんじゃないかと考えるんですよ。だから「話題に乗り遅れまいとしてぜんぜん自分に関係ない話でも語ろうとする」のではないか。でも実際にはそんなことは誰も求めていないから一過性のもので落ち着いてしまう。こういうメカニズムが働いているんじゃないでしょうか。

だから日常的に注意することは、自分の意思の現在地をよく認識して、様々な話題を頭の地図上に置いて「この話題は自分いる位置の近所だ。この話は地図の端でほぼ関係ないな。この話は少し距離があるから歩けばすぐだ。これはかなり遠いな…」と日々確認して、常に現在位置との間の距離感を一定に保っていくことが肝要じゃないかと考えるんですよ。どうでしょうねえ…


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