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僅かな可能性を認めることが自信につながりそう

私はポジティヴ思考が多いのか、ネガティヴ思考が多いのか、と聞かれると、少し微妙なところがある。
16personalitiesでは、私はINFP-T型と出るので、そういった診断ではネガティヴと出ることが多い。しかし、大学時代に大きな抑うつ状態を経験するまでは、自分はネガティヴではなく、むしろ楽観的に未来を見ていたような気がする。可能性が広い学生という立場がそうさせていたのかも知れないし、あるいは、今の体調の状態が自分をネガティヴに深く日っぱているのかも知れない。とはいえども、子供時代にネガティヴになったことがない、ということはまったくなく、人との距離感を掴みかねており、確かに常に誰かがそばにはいたが、その本心から話せる心を許した友達はいなかった。そうした事もあったり、完璧主義的な思考は子供の時からかなり強めだった。壁にぶつかってはふさぎ込むことも多かったので、やはり、根はネガティヴ思考が強いのかも知れない。

とはいえ、学生時代まではポジティブになっていた時間も多く合ったのは事実である。そうした時期のことを改めて思い返せば、自分にはまだ時間と可能性があり、今の行いによっては自分の理想を叶える可能性はあるし、あるいは、様々な理想を思い描くことができる状況に合ったからであろう。夢想家な私にとって、様々に夢想した未来が起こり得る状況というのは、生活が苦しかったとはいえ、最高に近い状態だったのだろう。

ネガティヴな経験、抑うつ的な状態が続いた上に、歳を重ねてしまった今となっては、若い頃のようにポジティブに人生を謳歌することは難しいと思う。しかし、少しでもその状態に近づいたり、根拠のない自信のためのちょっとしたエネルギーは積み重ねられるんじゃないかと思う。
私は夢想家であり、その思い描いた数々の理想は、現実的な足場の問題を無視していることが多い。そして、たびたび抑うつ状態に見舞われてきたが、それは、いうなれば無視してきた眼前の問題が無視できなくなる状況に見舞われたときである。現実には上手く行かない問題が降りかかり、「もう無理だ」となってしまうのである。しかし、その状況をよくよく思い返してみれば、現実的な問題が降りかかり、理想の実現が難しいことを「認める」ことができているからこそ、ネガティヴに見舞われるのではないだろうか。
このことに最近気づき、ネガティヴ思考が続く状態に陥っている今のような状況こそ、現実をしっかり見れているのである。自分以外にも、ネガティヴな思考に陥っている人は、現実の事象を見ているからこそネガティヴになっているのではないだろうか。そしてそれは、僅かでもある好転する可能性を現実にあることを認めるチャンスでもあるのではないだろうか。
もちろん、今まで描いていた理想のような、まっすぐに道を突き進むことは無理になってしまったかも知れない。しかし、立ち止まらせられて現実の足元を見させられているこの状況だからこそ、新たに見えてくる道もあるはずである。その中で、自分が進みたいと思える道を見つけ、その道を進める可能性がわずかでも見えていることも「認める」ことができるだろう。そして、その可能性を認め、その可能性を引くために再度ガチャをひこうと思える、その僅かなエネルギーは、根拠がなくとも確かな自信につながるのではなかろうか。
可能性が低い、ということも、確率論からすれば、何人も同じ状況に置かれたら、あるいは、何度もその状況をやり直した場合に、うまくいく人生は少ないということである。もちろん人生をかけた一世一代のギャンブルになってしまうかも知れないが、現実的に、ガチャというのはそう確率が収束するほどの回数を引くことは不可能なのである。そして、確率が収束するまでは、あたりがどれほど出るかというのは、かなりまばらなのである。みなさんも「ガチャを引いてみたい」と思っていただけるだろうか。

確率は収束するが、収束するほどの回数試せることはほぼ無いだろう

私は、熱心な宗教二世である。そうでない人も信じている方は多いと思うが、「お天道様はいつも見ている」のである。誰にも認められないいいことをしていたって、必ず神様はそれを認めてくださる。それがこの僅かな確率に直結するとは完全には言えないが、私達にはわからない形かもしれないが、私達が生きていくうえでの報酬を必ず与えてくださるはずである。
なので、自分にも言い聞かせて生きたいのは、日々の小さな積み重ねを行いながら、少しでも好転するかも知れないガチャを引く、前に向かって道を進んでみることは、ネガティヴな今だからこそできるチャンスである。

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