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原爆の日に考える

あの悲劇から78回目の夏が来た。
米国の原爆使用により、多数の日本人が亡くなったあの夏から78年である。
敗戦後、我々日本人は何ら総括する事なく生きて来たが為に、鎮魂の祈りを捧げ、哀悼の誠を捧げる為の日であるはずなのに、バカな活動家風情が騒ぎに騒ぎ、丸で夏の風物詩の様にマスコミも報じ、時の為政者に対し罵詈雑言を浴びせて、己の憤懣の吐口にするだけ。

広島、長崎に対する原爆は、これは米国による人体実験であり民間人大虐殺であって『戦争』等と言う様な話しではない。
それは、例えば昭和20年2月19日〜3月26日まで守備隊が本土を守ろうと奮闘した『硫黄島』までが戦争なのであって、後の東京大空襲を始めとする都市空爆、沖縄戦、そして広島・長崎の原爆投下は『戦争』などではなく単なる『虐殺』である。

戦争の名を借りた虐殺を経験しながら、日本人は戦後の総括もしないが故に『戦争と虐殺の区別』が全くわかっていないのである。
いや、今般のウクライナを見ても世界中の誰もが理解しているとは思えない。

戦争は外交手段の一つであり、国際法を鑑みても当事国の軍隊と軍隊が戦うことである。
ギリギリと話し合ったが、遂に国益がぶつかり合い戦争という外交手段に訴えると言う事だ。
例えば、米国ハワイの真珠湾にある戦争記念館に米国自身が我が国との対戦について、そう明記してある事を見ても明らかである。

外交手段である戦争を回避するのは外交交渉であると考える事が出来る。

では、世に言う『抑止力』としての武装はなんなのか?

これは『虐殺』に対する抑止力だ。
我々は、例えば『元寇の役』まで遡っても虐殺を民族として経験している。
民族を虐殺されない為にこそ、武装し固く守り、虐殺を抑止しようとするのだ。

硫黄島以降の事柄は『虐殺』であり『戦争』などではない。もう既に継戦能力を失い、制空権も制海権も失った我が国は誰の目にも敗戦は明らかだ。
だからこそ硫黄島守備隊は『少しでも民族虐殺を遅らせよう』と戦ったのは誰もが知る事実だ。

我々は悲しいかな、広島長崎の同胞の犠牲によって『核による民族虐殺』が如何に悲惨で苦しいものかを体験し、そして世界に知らしめた。
広島長崎以降、世界の大国が核をこぞって保有したが、一度も核による虐殺はない。
世界にいる、どんな独裁者でも『核』を保有するが使用はしていない。
何故、これほどの悲劇を生む『核』なる兵器をそれでも保有するのか?

答えは簡単だ、それは自国民を虐殺の危険に晒さぬ為だ。民族虐殺の抑止力としてだ。

日清・日露と第二次欧州大戦と経験した我が国だが、その戦争で民族大虐殺なるものにあってはいない。戦争とは軍隊がどこかで勝手にやっているものだと思っていた。

ところが世界は、その後の戦争で『虐殺』までも戦争だとしてしまったのだ。

我が国には『軍隊』がない。なので厳密に『戦争』なるものが出来ない。自衛隊は軍隊ではないからだ。
我が国には『核』がない。つまり『核』による虐殺を抑止する力を持っていない。

自衛隊に出来るのは、日本人虐殺に対抗するだけしか出来ない。つまり戦争が出来なければ、いきなり『虐殺』と言う事態に陥るのだ。
戦争と言う外交手段の先に虐殺があるのだから、我々の有事とは虐殺なのである。

先の対米戦で原爆投下を戦争と言う米国は甚だ間違いを犯した。
戦争は外交手段であるのだから、継戦能力を失った我が国に外交交渉で停戦を迫るべき所を、全く我が国が譲歩出来ないポツダム宣言を突きつけた。
我が国が飲めぬことは百も承知だ。人体実験の為の時間稼ぎだったのだろう。

短絡的、近視眼的に戦後の米国による覇権を考えての事であるのは明らかだ。

米国は東京裁判と言う安易な方法で早々と戦後総括をやろうとしたが、大失敗した。
僅か数年で間違いに気付き、あのダグラス・マッカーサーは『東京裁判などやるべきではなかった』と漏らし、1951年には公式に日本の戦争に対する罪なるものを自ら否定した。
それは、東京裁判判事で日本無罪論を展開したアンリ・ベルナール判事と同じものだ。
ベルナール判事は、あの日本無罪論者のラダ・ノビート・パル判事の無罪理由すら「法立証主義にとらわれ過ぎだ』と批判したフランス人だ。

戦勝国の判事が日本無罪を主張したのだ。

その判事と同じ主張をマッカーサーは米議会と言う公式な場で主張したのだ。
そして広島長崎の原爆使用を『虐殺』だと明言したのだ。

つまりは、これは戦争などと言うものではない。

世界中の国が自国民の虐殺を防ぐ為にあらゆる手段を講じている。
あの北朝鮮もである。

我が国は虐殺から逃れる手段を殆ど保持していない。
それは北朝鮮による自国民拉致を見れば明らかだ。
簡単に日本国民を北朝鮮なる三流国家に易々と拉致され、そればかりか一体何人拉致されたか解らず挙句には、たった5人しか取り返していない。
そしてその拉致を防ぐ為に必要な手段を新たに講じてもいない。
拉致も、これは民族虐殺と同じ事だ。

日本人はいつまで事実に目を閉じて、見ない振りをして綺麗事を並べて『虐殺』を受け入れるつもりなのだろうか?

いつまで夏の風物詩の様にバカ騒ぎに興じるつもりなのだろうか?

いつまで我がの憤懣の吐口にして日々を過ごすつもりなのだろうか?


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