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争族の引き金となる遺言の落とし穴

自分の好きなこと、やりたいこと、正しいと思うことをやればいい。
他人が敷いたレールを走るのは、実に楽しくないからな。

これは私の二十歳の誕生日に、祝い金と一緒に父が贈ってくれた言葉です。

父が逝って今年で14年目です。父の引き際は、私が現在もシニアのみなさんに訴え続けている「最後のさいごまで自分の人生の主役であり続ける生き方(逝き方)」に通ずるものがあるからです。

77歳で認知症を発症し84歳で旅立つまで…。7年に及ぶファイナルステージでは、周辺行動(周囲に迷惑をかけるような問題行動のこと)を伴う認知症で母を疲弊させた父ではありましたが、その往生際は現在の仕事に大いに役立っています。

少しずつ少しずつ、でも確実に衰弱していく過程で、いちばんの思い出は、父と私と孫(私の息子)の男3人で南九州へ旅したこと。父の様子がおかしくなってから1年余りが経過した2005年8月の話です。あの時、無理して強行したことを本当に良かったと思っています。

正確にいうと、私の胸に深く刻まれているのは、旅行そのものというよりは、最終日の晩の父とのやりとりのことです。宿泊先で夕食を済ませたにもかかわらず、夜食にテリヤキバーガーを食べたいと言い出した孫(私の息子)がお目当てをほおばる傍らで、父が唐突にこう切り出したのです。

オレもどうなるかわからないからさ。ホラこれ、後始末のことが書いてあるから宏に渡しておくぞ。いつか母さんにも宏から話してやって。いろいろ首尾よくやってな。

差し出された茶封筒の中には、商工会議所のメモ用紙が10数枚。その場で通読した私は、涙を堪えるのに必死でした。そこには、こんなことが書かれていました。

父の後始末について。思うままに。
葬儀は不要。そんなおカネをかけるくらいなら孫になんか買ってやって。
墓は先祖とは別にしたいから購入済み。まあ本当は墓など不要なんだがな。
仮に入院したとしても余計な治療は無用。天の摂理に任せるがいい。そうさせてほしい。そんなおカネを払うなら、母さんにエビとカニ(母の大好物)でも食べさせて。

契約書類は書斎の金庫。暗証番号は1220(母との結婚記念日だ!)。預金通帳とキャッシュカード3セット。暗証番号はぜんぶ1105(これは私の誕生日だ!)。株は一昨年、すべて売って現金化済み。家の権利書、実印、銀行員、家系図もすべて金庫のなか。家と土地の名義は、母さんにするか、一気に宏にしてしまうか。

友人の税理士の倅も税理士になってる。必要な時は知恵を借りて。無駄な税金を払わない方法をよおく考えて。相続税が非課税になる金額まで使っちまうか、早めに宏と母さんの口座に移してしまうこと。

これ、絶対にそうすること。くれぐれも無駄な税金を払わなくていいようにな。国税には良い思い出がない。税金を無駄に払うくらいなら、子どもたちと旅行でも行くといい。未知の土地は魂の触媒だ。

後々母さんを送ったら、あとは宏のしたいように生きていくがいい。自分の人生だから、自分のこころに正直に、自分らしく生きていくのがいいぞ。自分の人生を生きることだ。

ま、父もいろいろあったけど、結果オーライ。宏のいちばん大事な時期に、忙しくて話も聴いてやれず済まなかった。申し訳ない。

につけても(ママ)、運動会に学芸会、受験、学園祭、結婚式、家族旅行。宏には楽しませてもらった。幸せをたくさんもらった。こんな父の子に生まれてきてくれてありがとう。感謝感謝......。


切なくて、切なくて、どうにも切なくて、私はぶっきらぼうに言い放ちました。

「何よこれ。いつの間に書いたの?泣いちゃうでしょ」

そう言った私に、父はポケットをごそごそやったかと思うと、別の茶封筒を取り出しました。

「カセットテープ。これにさ、メモったのと同じ内容を吹き込んでおいたから。うまく録れてるかわからんけどさ。ま、一応な。渡しとくから」

忘れることのできない時間と空間でした。父の望むようにしてあげたい。そうできるように努めよう。あれは、そんな想いが湧き立ち、覚悟が定まった瞬間でした。

私は今でも思うのです。ボケてさんざん母を苦しめた父でしたが、あの日あの時あの瞬間の父は、ボケてなどいなかった。まちがいなく、しっかりしていた頃の父であったと…。そう確信しています。もしかしたら、見えざる力が、奇跡の時間を運んでくれたのかもしれません。科学でも解明しようのないことが、まだまだこの世の中にはたくさんあるものです。これだから人生は面白いのです。

ボケてしまいながらも、自分のエンディングに対する希望をきちんと書き残し、自分自身の文字と声で伝えることで計画を実現させた父でした。エンディングノートの走りですよね。そんな父に敬意を表して、私が学んだ逝き方に対する価値観を綴っておきます。

自分の意図をわが子にきちんと伝えて、おカネも託しておけばこそ、子の側にも親のエンディングを支えようという自覚が芽生えてくるものです。そうしておけば、いつか親の判断能力が損なわれてしまったとしても、もっとも信頼のおけるわが子の手を借りることで、自分が望み描いたとおりの人生をまっとうできる可能性が高い。何も準備をしておかなかった場合はもちろん、おカネの話を抜きにして頼み事だけを綴った場合と比べて、その確率はだんぜん高くなるはずです。

ですが、大切なのはここからです。父の準備が奏功したのは、予告と予算が揃っていたからというのが要因ではありません。最大の成功要因は、父の直系卑属が私だけだったことです。要は、私には兄弟姉妹がいなかった。ラッキーなことに、私はひとりっ子だったのです。

当時はさほど気にしませんでしたが、父の死から14年。たくさんの相談ケースを積み重ねるにつけ、こどもが複数いる親の財産承継が本当にリスキーだとつくづく思い知らされました。いわゆる争族です。

顧問弁護士によれば、毎年600万人が亡くなるうちで、法廷にまで持ち込まれる争族は15,000件でしかありません。たったの0.25%です。でもその裏で、なんの問題もなく、すべての相続人が納得して終わる遺産分割協議は2割もないというのですから驚きです。

つまり、法定闘争とまではいかずとも、兄弟姉妹間の感情レベルでのシコリとか、第三者による仲裁とかを含めれば、争族リスクは80%といっても過言ではない。そういうことになります。私としても、完全に同意します。

興味深いのは、争族のきっかけです。ズバリ、遺言です。「えっ!争族にならないように遺言を書くんじゃないの?」という声が聞こえてきます。でもちがうのです。親が死んだ後に遺言が出てくるから争族が勃発するのです。これが、累計800件の財産承継を含む終活に携わってきた私の実感です。

どういうことかというと…。

例えば、あなたに3人のお子さん(相続権者)A.B.Cがいたとします。そして、あなたは全財産を民法の規定通りに3等分するよう遺言を遺したとします。するとどうなるか。

医療だとか介護だとか身の回りの世話だとか、あなたにいちばん関わったお子さんはこう思います。

「おやじ(おふくろ)のことをいちばん面倒をみたのは自分なのに、どうしてBやCと同じだけしか貰えないんだ?」
また、Bはこう感じるかもしれません。

「Aは三浪してやっと大学に入って、社会人になったらサラ金の返済を親に助けてもらって…。親にいちばんおカネを使わせたんだぞ。こんなAが、どうして自分やCと同額貰えるんだよ」

つぎに、あなたが、諸々の事情を鑑みて、Cにだけ多めに遺産を残すよう遺言にしたためたとしましょう。するとCはこう思います。

「うちは夫婦そろって、何かあるたびにおやじとおふくろの相談相手になってあげたからな。それに、孫を作ったのもうちだけだから、孫のことも考えて自分には多めに残してくれたんだろうな」

しかし、AとBはこう考えます。

「どうして末っ子のCだけにいい思いをさせるんだよ。納得がいかないよ。待てよ。あいつはいつもおやじとおふくろに媚びふっていたからな。もしかしたら、あいつがそういう遺言を書くようにそそのかしたんじゃないか…」

こんなふうに、あなたが書いた遺言の内容がどうであっても、必ず誰かが不満を覚えます。

こういう言葉があります。

優れたものは常に優越を求め、劣ったものは常に平等を欲する。

名言ですね。つまり、遺言は常に、相続者たちの心にわだかまりを喚起するのです。A.B.Cのいずれがもっとも親の面倒をみたとか、いずれを親が可愛がっていたとか、いずれが親に散財させたとか…。そんなことはそれを裏付ける記録が残っていない限り、不毛な議論です。

だいたい人間というのは、誰しもが自分の都合よくものを考える生き物です。おまけに、死人に口なしです。だから、遺言は争いの火種なのです。死後、子どもたちが揉めることを望まないのであれば、一にも二にも遺言を書かないことです。

では、どうすれば、あなたの意図する通りに財産を分配できるでしょうか。

簡単なことです。あなたが元気なうちにA.B.Cの査定をして、自分の言葉できちんと個別に伝えるのです。一堂に集めて全貌を話す必要などまったくありません。人事評価と同じです。兄弟姉妹がそれぞれいくら受け取ることになるかなど、口にしてはなりません。

こういう理由で、いくらをキミに残すからね。他の2人より多くなっているけれど、それはキミがサポートしてくれたことの対価だから。

これだけの話です。

遺言を書いて、相当な時間が経過してあなたがこの世を去るまで、財産分けについてのあなたの意向を後生大事に隠しておく必要などまったくありません。むしろ、今のうちからしっかりと想いを伝えるべきです。

面倒をかけた、あるいは、これからサポートを頼む子どもには、「ごめんね」と「ありがとう」をきちんと伝えた上で、その分も上乗せした取り分を伝えてあげるのです。できれば、元気なうちから渡し始めるのです。それでこそ、お子さん側にも、あなたの老後を支えようという覚悟が定まるのです。

極端な話。理屈はどうにでもつけられます。いちばん思い入れのある子どもに多く渡すことも簡単です。その子が、他の子よりも親の老後に係る面倒な作業をすべてサポートすることにしてしまえばいいのです。これが、いちばん想い入れのある子を、他の子の妬みから守ってあげる方法です。最悪、何かのきっかけでバレたとしても、その時には「ま、面倒は全部あいつがやってくれるんだから、しゃあネェ~か」と思わせればいいのです。

ということで、銀行や法律家の口車に乗って、多額の手数料や報酬を支払って公正証書遺言を作って、「これで終活は万全だ」などと高をくくっている親御さんたちは、いま一度、元気なうちに子どもたち一人一人と向き合って、老後の支援と財産分与の話をセットにして直に伝えるようにしましょう。

例え遺言が公証化されていようと、誰かひとりが『遺言能力の無効請求』や『(生前贈与の)持ち戻し請求』を切り出したら最後、争族は必至です。兄弟姉妹のうちの誰かが弁護士を代理人に立てたとしたら、必然的に他のこどもも弁護士をつけるしかありません。だって、そうしなきゃ負けちゃいますからね。


ということで、親子が絶縁状態とか、愛人や隠し子がいるとか、子どもたちの関係に紛争性が高いとか、何かの事情でどうしてもそれが叶わない場合のみ、遺言等の法律や制度、あるいは契約に携わればいい…。そういうことです。

それなのに、どうしてお子さんたちと向き合わないのでしょうか? どうして、親としての威厳と判断能力があるうちに、自分の言葉で伝えようとしないのでしょうか? どうして、こそこそと遺言にして死ぬまで隠しておくのでしょうか? それでは、親として怠慢です。さいごの大仕事を放棄しているとしか思えません。だって、みすみす子どもたちの関係をこじらせようとしているわけですからね。

自分ががんばって培ってきたおカネです。その分け前のことで、どうして死人に口なしとなってから、こどもたちに四の五の言われなきゃならないのでしょうか?誰にいくら渡そうが、親の勝手ではありませんか?

だからこそ、目が黒いうちにこそ、こどもたちを査定して、エンディングまでの支援とバーターで、生きているうちからおカネを渡してあげるべきです。もちろん、ムダな贈与税など納めることなく、です。やり様はいくらでもありますからね。

にしても、私は本当にひとりっ子でよかった!いまも両親には感謝しっぱなしです。

長くなってしまいました…。今回はこの辺で終わりにします。

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