見出し画像

秘密のプール(小説)

※完全なフィクションです。



今年の夏はなにかが違う。そんな予感がした。

それは、高校受験をひかえた中学最後の夏だからかもしれない。

1.

ぼくの通う中学は山のてっぺんにあって、毎日ひいひい言いながら登校している。都会のおしゃれな私立中学とかに憧れたりはするけど、立地以外はまあ悪くないところだと思っている。

はじめての中3の夏。心なしか、まわりの空気も去年とは違う。

受験とか、よく分からない。「必勝!」って書いたハチマキを巻いて、深夜まで勉強する…みたいなイメージがあったけど、実際のところそんなのやったことない。

勉強って全然おもしろくない。でもクラスのみんなはそれなりに受験生を楽しんでる感じが伝わってきて、嫉妬とか焦りをおぼえたりもする。

ああ、受験が終わった頃にワープしたいな。

2.

とはいえ、まだ受験勉強に本腰を入れていなくても許される言い訳がぼくにはあった。

部活の引退がまだなのだ。

8月の大会を最後に、水泳部を引退する。大会といっても誰でも出られる記録会のようなもので、全国をかけて…みたいな熱い感じではない。

とにかくぼくはこれに向けて頑張っている。

ずっとフォームはきれいだけど遅い選手だといわれてきた。「筋肉が足りない」だとか「すぐバテんな」とか容赦なくいわれた。こっちだってやれることはやってる。スタミナがないのも、もともとだ。

ぼくはきれいに泳ぎたい。

最後の記録会は今までで1番きれいに泳ぐ。

そう決めたぼくには、7月に入った頃から通い詰めている場所がある。

3.

中学校の裏から少し降りて、道をはずれて藪の中をかなり歩くと、空気がひんやりとしてくる。正門とは反対側なので、こちら側に降りてくる人はまずいない。

ずんずん進んでいくと、ひんやりとした空気に水の流れる音が混じって聞こえてくる。

そしてようやくたどり着いた。

天然のプールだ。

岩の割れ目から透明な液体が吹き出して、下に小さな水たまりを作っている。深さは120センチ程度で、ぼくの胸あたりだ。広さは小さな部屋くらい。ダッシュの練習には物足りないけど、フォームの確認やターンの練習にはもってこいの場所だ。

いまのところ、誰にも見つかったことがない。いや、ここを知っている人はいるはずだけど、わざわざ藪の中を歩いてまで泳ぎにくるような人間がいないのだと思う。

とにかくここは秘密の練習場所なのだ。水が冷たいのでかなり暑くなってからしか使えない。

部活のない日と、登校前はここで泳いでいる。ここには誰もいない。ぼくだけの場所だ。

4.

次の日の朝も、ぼくは例の天然プールに泳ぎにいった。

木陰に腰をおろして服を脱ごうとした瞬間、手が止まった。

人影があったのだ。水に入りパシャパシャとしぶきを上げていた。

「わっ」

声を出したのはぼくではない。その人影の主だ。待てよ…こいつ、見覚えがある。

「水野…さん…?」

隣のクラスの水野あかりだ。よく見るとうちの水着を着ている。

「ほんとにビックリした!」

水野は地上にはい出てくると、横にあったバッグからタオルを取り出して体を拭いた。

「橋口郁人くんでしょ」

そして、ぼくの名前を口にした。しゃべったことがないので緊張する。ただでさえ女子って苦手なんだ。しかもこいつって…。

「わるいけどわたしがここに来ていること、内緒にしておいてね。わたしも覗かれたことはだまっておくから」

…こういうやつなんだ。

5.

しかたがないのでその日は結局泳がずに登校した。

授業中は水野あかりのことを考えてしまって全く集中できなかった。

水野は隣のクラスで、学級委員をやっている。さらにうちの生徒会長なんかも兼任している。

うわさによると勉強もスポーツもできるとかで、ずけずけ物をいう性格にも誰も文句をいえない。

とにかく、ぼくの苦手な女子の部分をすべて持っているようなやつなのだ。えらそうで、気が強い。

そんなやつが、なんであの秘密のプールに?今日あいつは何をしていたんだろう?

部活が終わると日が暮れ始めていた。この時期は暗くなるのが遅くて一日が長く感じる。

校門を出ようとすると、声をかけられた。

「あ、見つけた」

水野だった。ぼくは思わずのけぞった。

「そんな驚かなくてもいいでしょ。橋口くんに頼みたいことがあって」

「…いいけど、なに」

警戒心から思わず突き放したような口調になってしまう。

すると、水野は予想外の答えを口にした。

「わたしに泳ぎを教えてほしいの」

6.

うちの学校では、珍しく全校規模での水泳大会がひらかれる。1年生はクロール、2年生は平泳ぎ、そして3年生は背泳ぎで25メートルを泳がされる。もちろん泳げない人もいるし、途中で足をついてもかまわないのだけど、強制されることに対して不満の声も毎年あがっている。

これを乗り越えれば夏休みなので、泳ぎが苦手な人にとっては最後の山場みたいな感じだ。

僕はもちろん泳ぐのが好きなので25メートルなんかじゃ全然足りない。待ってる時間が長いのでただただ退屈だ。

水野によると、背泳ぎを教えてほしいとのことだった。

「わたし、水の上で仰向けになるのがこわくて。どうしても顔が沈んで鼻に水が入っちゃうの。だから水泳大会までに背泳ぎをどうしてもマスターしたくって」

それで今朝は例の小さな滝壺に来ていたのだ。ぼくもようやく事態がのみこめてきた。

「今日いい場所を見つけたと思って練習してたんだ。でも全然上手くならなくて。そしたら水泳部の橋口くんが現れたじゃない。もうこれはそういうことなんだ、って」

水野はまくし立てるように話した。

なんで自分の都合ばかりで考えるんだ。やっぱり女子って苦手だ。

7.

ぼくに拒否権はなかった。あの場所で今まで通り毎朝練習したいなら、彼女とうまく共存する必要があったからだ。それに、ぼくは水野が少しこわかった。

そういうわけで、それから毎日練習することになった。毎朝、例の小さな滝壺で待ち合わせをする。

「冷たいからいきなり入ると危ないよ」

焦って水に入ろうとする水野をたしなめた。

「足はつく深さだから、慌てずにやろう。動かなかったら人間の体は浮かぶようにできてるから」

まずは仰向けに浮かぶことへの恐怖をなくしてあげるのが大事だと思った。

滝があるせいで若干水面がうねっている。そう考えると人工のプールよりは難易度が高い。

だけど、水野の飲み込みは早かった。

2日ほどで仰向けで浮けるようになり、3日でキックで進めるようになった。

手で水をかくのがまだ難しいらしく、やろうとすると顔に水がかかり立ち上がってしまう。

「あー!難しい!」

水野はイライラしながらも根気よく続けた。

この一週間で水野に対する見方が少しずつ変わってきた。

8.

水野は真面目で、そして負けず嫌いだ。なんでも要領よくやっているように見えて、裏で努力している。

ぼくたちは練習の合間にお互いの話をするようになっていた。

「水野は高校どこ行くの?」

「谷高だよ」

谷森高校。県内でもトップクラスの公立校だ。すでに受かっているようないい方だけど、水野はこうやって自分を追い込んでいるんだ。それに、ぼくも水野ならきっと受かると思う。

「橋口は?」

「おれは…」

思わず口ごもった。行きたい高校なんてなかった。将来やりたいことがないなら勉強した方がいいのはわかってるけど、どうしても一生懸命になれない。

「じゃあさ、もし将来なんでもなれますよって言われたらなんの仕事する?」

水野はぼくに気をつかってか質問をかえてきた。

「…ユーチューバーかなあ」

半分冗談でそう答えた。

すると水野は

「えっいいじゃん!じゃあさ、わたしのチャンネルとコラボしようよ」

といってきた。

英語の勉強の様子をあげるチャンネルを持っているのだ、と。

「顔は出してないけど、まあまあ人気あるんだよ」

照れくさそうにそういった。

…ああ、コラボしたいかも。その顔を見て、そんなことを思った。

9.

水泳大会当日がやってきた。ぼくは水野のことばかりを気にしていた。

水野は結局背泳ぎをマスターできなかった。だけど、やれることはやった。

ぼくの番はすでに終わっている。背泳ぎは専門じゃないけど、いつも通りきれいに泳ぐことを意識した。

どこだ、水野。出席番号からするとそろそろのはずだ。

ホイッスルが鳴った。

真ん中のレーンに見覚えのあるぎこちない泳ぎがあった。

水野は蛇行しながらゆっくり水をかいて進んでいく。それはつい最近まで大の字浮きもできなかった子の泳ぎとは思えなかった。

速くはない。でも速くなんかなくたっていい。美しいフォームとは基本への忠実さじゃない。現に、目の前のぎこちない泳ぎはとっても美しい。

すると、隣で水野の泳ぎを見ていた男子が笑った。

「生徒会長の水野さんって泳ぎめっちゃヘタじゃん。なんでもできる人だと思ってた」

お前に何がわかるんだ。なぜだかイライラした。

「水野ッ」

思わず声が出ていた。周囲の視線を少し感じる。だけどそんなものはどうでもいい。

彼女はビリッけつだったけど、背泳ぎで25メートルを泳ぎきった。

10.

水泳大会はおわったけど、次の日の朝もぼくたちは例の滝壺で会った。

「例えばさ、泳ぐのが好きだとして、それを活かせるのがオリンピック選手だけってことはないじゃない」

水野はどこかうれしそうにいった。

「インストラクターになるとか、スポーツ工学を勉強するとか、それこそ今ならネットでも水泳教えられるじゃん。橋口のコーチって凄いわかりやすいし、向いてると思うな」

水野はぼくよりどこか大人だ。

水野は僕の引退試合も応援にいく、といった。…本音をいうと、緊張するからできれば来ないでほしい。

「おれも谷校めざそうと思う」

「えっ」

ぼくの予想外の言葉に水野は驚いたようだった。もちろん、学力的には受験できるかもわからない。それでもぼくは明確な目標ができたことがうれしかった。

「こんどはバタフライを教えてよ」

そういって水野は笑った。

今年の夏はなにかが違う。そんな予感がした。

(おわり)



(2021年1月追記)水野の視点からの物語を書いてみました。こちらも読んでいただけると嬉しいです。

スキしていただけるだけで嬉しいです。