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人は自尊心を失った時、人を見下すことで自分を保とうとする


父親とのいい思い出を思い出して実家に帰りたくなったので、今日帰った。そして今日は泊まって明日帰ろうと思う。

父親の話は下の記事に。


父親は現在、無職だ。運悪く体を壊して退職して、体が治った今も復帰ができないでいる。それは体力が落ちたのもそうだろうし、1番は自信を失ってしまったのが大きいんだろうと僕は勝手に考えている。

さっき、リビングで母親と父親と話した。たわいもない会話だ。父親が「iPhoneのバッテリーの減りが早いので交換したい」と言ったことをきっかけに、iPhoneストレージの残り容量の話になった。

父親は写真を撮らず、スマホゲームもしないので128GBのiPhoneの20GBほどしか使用していなかった。一方僕は、写真が容量を埋め尽くしていたので、すでに約110GBも使っていた。

「お前、そんなに何を使うことがあるねん」

と父親が言った。今思うとこの時点で少し嫌なニュアンスを含んでいた。

父親は僕が写真を撮っていることは知っている。僕が撮っているストリートスナップや、野鳥や、最近撮った紫陽花などをスマホの画面をスワイプしながら父親に見せた。

すると父親がブッと吹き出した。「お前、こんなん」と何か言っていたが何が言いたかったのかはわからない。ひとつ言えるのは、この時のニヤケ笑いは確実に他人を馬鹿にしたものだったということだ。

僕は父親の性格を知っていた。昔からそういう人なのだ。だから驚きはなかった。ただただ腹が立ったのと、純粋に僕の紫陽花の写真に何に吹き出すようなことがあったのか気になったので、できるだけ感情的にならないよう注意して尋ねてみた。

「いま、何かおかしかった?もし言葉にできるならよかったら教えて欲しい」

いや、とニヤニヤしながら父親は黙り込んだ。まだ笑ってる。ほんとに何が面白い?interestingの意味で面白い瞬間を撮ることはあっても、吹き出すような写真は少なくともないように思う。

「普通に、お父さんがどんな写真撮ってるか聞いてきたから見せただけやねんけど。人が趣味で楽しんで撮ってるものを笑うのは失礼やと思わん?どう思う?」

父親はまだニヤニヤしながら「それは、すんません」と言った。父親が謝ったところを見たのは初めてかもしれない。というか、僕が父親の「小馬鹿笑い」に反抗したのがそもそも初めてだったのか。

僕は、ピカソの芸術性をすべて理解できない。尊敬する写真家の森山大道さんの写真でさえ、全てをわかることは不可能だ。それでも時折、自分の心臓をグッと掴んで離さなくなる写真があるから、僕は彼の写真のファンを堂々と名乗っている。四六時中写真のことばかり考えている僕ですら、他人の写真を理解することは難しい。だから写真に興味がない父親に僕の写真を理解してもらおうとは思っていない。僕は僕のために、そして僕の写真を好きだと言ってくれる人たちのために撮っている。

理解しなくていい。理解しなくていいから、せめて黙って見とけやボケと思う。

父親はきっと、自信を失ってしまったのだ。働くこともできなくなり、家では母親と妹に煙たがられている。だから自信が全くなくなってしまって、理解できないものや一生懸命な人を見下すことで自尊心を保っているのだと思う。だから、父親はある意味では被害者なのかもしれない。

でも僕は、嫌なことは嫌と言おうと思う。親であっても。これは僕の大事な部分に土足で踏み込む出来事だった。だから、嫌と言う。僕は自分の自信を冷笑で潰させないために戦いたい。

自分の写真を好きでいたいと思う。そして本当は、僕は唯一の父親を好きでいたんだよな。

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