見出し画像

比類言語システム『アナロギア』


『言語性』


ミュトス 伝承上の
ピュシス 純自然の
アルケー 始原的な
イデア 想起的な

これらは全てロゴスの類比である。


西洋哲学におけるロゴスを言い換えるなら、
現象化または具現化に進む為のあらゆる理である、
という事になっている。

しかし、単純にロゴスといえど、その意味合いは扱うジャンルによって完全に焦点がぼやける。
大雑把に説明した時、それは言語と訳され、真理と訳されるわけだが、特徴としてはそのどれもが理性的に捉えるコトをさしている。

例えば、宗教的意味合いとしてのロゴスは何をどう足掻こうと、祖を教える者にほかならない。
教えるものとしての媒体は必ず実存的存在者でなければならないが故に、それはキリストであり、釈迦であり、マホメットであった。
あくまでもロゴスとしての存在は実存の檻から抜け出すことは許されない、
故に俗に言う創造神たる者たちはそのどれもがミュトス的存在となる。

一方で、論理的ロゴスとは、数学的記述可能な式であり、
平面を記述するユークリッド幾何学から、
空間を記述する非ユークリッド幾何学に至るまで、
それらの体系を成すであろう、あらゆる数達はそれそのものがロゴスである。
が、いわゆる虚数はそのことから考えると、
明らかにロゴスではない印象がある。
かと言ってそれが空想上の数として存在していたとしても、そこを取り仕切る法は明らかにロゴス的説得力の元空想上に存在している。

これらの一見異なったロゴス内に含まれる共通点とは
やはり実存的で、理性的な解釈の下そのロゴスの意味を位置づけている。
例えば当たり前に、それも理性的に、神を信じる事ができたとしても、それはやはり、具象化として直接的に実存と繋がることはないため、それはミュトスである。

ロゴスとミュトスは交じるかどうかを私なりの手法で、私の言葉で、ミュトスとして扱われそうな、その世界のいくつかを理性的に扱ってみると以下のようになる。

①根源たる力の促しには
人の認識に及ぶ領域とそうでない領域が有る。
②現象化したあらゆるモノを実存とした時、
それはあらゆる存在の一部であり、その他が果たして非存在的なのか未存在的なのかは特定が難しい、
しかし実存は論理的記述としての自然原理の元、
この世界に存在し、全存在の中にある実存との狭間には、未だ未記述の理があるが故に、理論的進化と言うものが存在する。
④その理とは非励起的な現象学における理論として、
非論理的<未確認の論理<未発見の論理<未想起である論理、である可能性の中に存在し、化学、思想の発展により理はそもそも励起化すると言うことでもある。
⑤現象化した物事が一切なかった時間を考えた時、
勿論想起というものは起きない。
しかし普遍性ある理の存在を前提とした時、
果たして想起そのものが結果論として現象化した事に過ぎないのかという問題が生じるが
あらゆる理に基づいて全てが起こり得ると考えるならば、それそのものは結果論とは言い難く、それすらもそもそも普遍的に存在し続けていたと考えるほうがより、理性的だとも思える。

こちらからみてロゴス、あちらからみてロゴス、
単純に位相の問題
そしてミュトスがロゴスとして励起しないロゴスが実在するなら、そもそもミュトスは規定されない、ロゴスが被造物しか扱えないなら化学的にロゴスは一切存在が許されないという問題も、量子論から考えることができる。

このように…
ロゴスとミュトスをその性質から分解した時、このように、考え方次第、或いは言語性において
ロゴスとミュトスの境界を曖昧化することが出来てしまう。


ココは完全な余興、あまりにも不毛であるが故
飛ばしてもらって構わない。

コレをカタカナを使い完全に表現しようとするとややこしいことになってしまう。
それこそ単語に対するイデアがそもそも煩雑しているからややこしくもなるし、解釈も混乱していき、訳も異なる。

①アルケーから流れ出るピュシス的ロゴスには
イデアと非イデアとがある。
【この時点ではおそらく、イデアには3つ目の未イデアが生じるが、この時点でミュトスは生まれず、存在するのはロゴスのみである】
②ロゴスをロゴス的ロゴスとした時、
ロゴス的ロゴスへ促すピュシスを全ミュトス的ロゴスとすることが出来る
③ロゴス的ロゴスは確かに、ピュシス的ロゴスの元存在したが
ロゴス的ロゴスを成り立たせるロゴスにはアルケー的ピュシスのミュトスがあり、それは非イデア的ロゴスでもある。
④非イデア的ロゴスとは
非論理的<未確認の論理<未発見の論理<未想起である論理、である可能性を含む。
(人の想起段階の存在が人のロゴスを曖昧にしている)
⑤故に、ロゴス的ロゴスは、ピュシス性ミュトスのロゴスにより支えられている。(③のリフレインになる)
ミュトス的ミュトスではないからだ。
→※上記の編集辞めた、書こうとしてたコト自体がどうでも良くなった


正直言ってこの手の単語を私が使わない理由はこの辺にある。
慣れない以前に言語として不自由さがあり、面倒臭い思考のせいで余計な事自体思考してしまうが所以だ。
なのでここでこれはあまりに不毛として辞めようと思う。私がこの辺の言葉を使うことはもう無いだろう。言語性として現段階での定義では扱う条件として乏しすぎる。おそらく、翻訳の段階で、翻訳者が読み取れなかった部分が煩雑している可能性がある、故に言葉の領海が曖昧になり、使用者が本質的な意味を同定できずに模倣地帯になっている可能性すら考えられる。



『流動的認知の空間』



言葉が存在する時、言葉は常にその対象を如何に同定するかの様相を見せる。
上記にて起きた言葉の達成と未達成
言葉は達成されざる状態内では完全にその真価を失う、また、言葉が定義する通りに世界に対する認知を扱った時、世界に対する認識というのは、言語化可能な矮小さに縮小する事で、認識の世界そのものが狭くなると言っても過言ではない。
つまり言語そのものに認識を同定させられるという現生が起きる。

逆に過剰とも呼べる認識の世界を存在する言語のみで記述しようとした時、途端に有限性が現れ、文章が複雑化していく、言語は不足し、表記上の再現性は困難になる。

簡略化可能な言語世界と、
本来的無限性の世界とその狭間の未在の言葉

言葉は、あらゆるものの中に入り込み同定を続け、連続的世界を担保していく。

言葉としての本質は対象と対象を繋ぐ接続部位とも言え、その連続があらゆる物事における流動性を形成させる。

それが言葉の持つ役割とも言えるが、そのような性質にあるものは思えばこの世界のあらゆるところにあった。
何と何が繋がりを持ち、まさにその間に何があるのか、その同定こそが言語そのものの性質である。

考えてもみれば
核を構成するクオークの均衡、電子の準位、分子レベルでの結合、体組織内の循環、や呼吸のメカニズム、光の反射と見える世界、歴史的変化の経緯、世界の成り立ち、闘争と安寧、感情の変化、原因と結果、会話、私とあなた、沈黙、空間、数式とイコール、思い当たるあらゆる想起に至るまで、これら全てが言語として、それぞれの関係性の間にあり、あらゆる想起した物事自体も何かで繋げられ続けている。

何一つとして個物的に存在することは無く、デジタル的離散における励起などこの現象界には起きることはない。起きるはずもない。

一見なんの脈略のない物事においても、それすらもカオスの周期の一部に同定され、励起する。
離散的に見える確率でさえ、あらゆる周期を塗って認識不能な秩序のもと現象界を支える。

問題は…
権威と定義の強制力と
言語の意味が認識におけるそもそもの世界を作っていると言う事実
しかしこれはAはBであるという証言でしかない
意味が世界を生成するというただの現象が起きる
言語由来の世界が認識内世界そのものを創造し、世界は極小化していく。

もし、言葉の意味に浸食されることなく、
言葉を逆に解くことが出来るなら、認知の最大値を変化させることが出来る。
人はその思考性により、わかろうとする領域にも限界があり、記述されているものにも限界がある。
人の認知の特徴は物質的対象を比較させながら物事を展開させて理解していく傾向にあり
その認識する世界が物質的であればあるほど、わかり易く、世界に対する認知は個物的な形として局所化し、単純化する。
これは非難ではなく、性質の話
確かに比類という認識で、深淵を探るということは可能であるとは思う。
しかし足らないのは意味である。
形状の持つ意味と目的と。

認識する世界の物的濃度が薄まれば薄まるほど
認識は概念化し、性質的になっていく、流動性を捉えていく、モノを捉えず、状態を捉えるようになっていく、世界は形質の世界から、空間に変化する。
その時、そもそも言語性が変化しているという事実を感覚的に理解している種も少なくは無いはずだ。

これは数学的位相の概念に近い。

どれとどれが同じなのか、という話だ、

ある人から見たら違うものでも、
ある人から見たら同じであるように見える。

位相は膨張と収縮、
形状とは凹凸に過ぎず、
凹凸は意味である、
そもそもあらゆるコトは1つの中に取り込まれていたその変化の本質が位相としておきる。
捉えている概念の次元が異なれば
結論に変化が起きる、または解るである。
無論、優劣はまた別の小さな次元でのコトになる。
一切の関係がない。
それを優劣と認知するのは、そういう、個物的な概念に閉じ込められたときに起きる。

ある一定の人から言わせてみればそれは関係のない話であり、もっというなら、そんな事、どうでもいいという話になってくる。

知とは目的により加速する
優劣を求めるなら得られる知は
その目的により、限定化される。
人ならば思い当たるフシもあると思うが
人間は特徴上、理解可能なものを信じ、信じたいものを信じて鼻っから選んでいるわけだか、まぁ、そういうものだとも思う。

しかし、目的に自由度を与えた時、
知の加速はどこへ向かうのか、
『個人的な感覚の概念からは間違えなく抜けていく』と私は思う。
世界をただ理解したくなり、ただ認識したくなり、
ただ求めたくなる、
そして、
目的自体に無限性を与えたくなるという性質が存在すると、私は考えるが、これはもしかしたら個人の性質により異なる表出があるのかもしれない。
普遍的な生命の安寧というのだろうか、
上手く言語化が出来ない、
死んだあとも続くであろうワタシがいた世界に目的が集約され続けていく、それは人間という形でなくても良く、生命という単語そのものにプロットしていく。
これが良いか悪いかは別としてそうなってしまった。
個人的にはあまり勧めない人生を完全に棒に振る。
しかし、そうでもしなければ命という概念自体がたかだか80年前後という恐ろしい短かさとなり、
私はその事実に打ちのめされたのも事実。

自己の位相というか、
ワタシと言うものの永遠性を考えた時、
余りにもありし世界が窮屈で、限定的で命が許されできないと言う感覚が湧く。
常に私の中にある何かが、何かを同定し続けていった人生であったことは間違い無く、
この世界から抜ける為、定義の一切を拒絶していたことは確かだった。

言語の定義の一切を他に委ねない、絶対的に感じる自己のクオリアのみで自己が言語を定め、定義し続けていく、目的の為に。

これがワタシ内に芽生えた世界として大きく
これまで述べられてきた世界と乖離を生んだ。

私は何の力に促されこのような人生を歩んだのか
その幼な疑問も浮かぶ中で、ある朝、脳裏に浮かんだ言葉がそもそもアナロギアだった。

どこで知ったのか、誰から聞いたのかもわからないような言葉、その言葉の印象、連続と、自然と、歯車と、いつも通り身勝手なクオリアの想起から生まれた

【比類言語システム『アナロギア』】


そもそもアナロジーとメタファーは、個人的にはフラクタルな関係性にあると考えている、
アナロジーとは似ているという印象を扱い
メタという認知は概念を抽象化させ、残った性質を扱う世界、
言うなればメタという概念から励起した特徴が連続的に(アナログ的に)表出しその特徴を捉え、人は類推し、似ているという判断を下す。
アナログとデジタルの関係性もそもそもこれと似ている。
離散的というものとその水面下にあるカオスの関係
これも似ている。
ロギアという言葉が自然と訳されるようになったのも自然科学のメタモルフォーゼとしての概念からだろう。
ロギアとは自然を指すわけではなく、明らかに参照と表出を扱い、擬態なるメタモルフォーゼも、メタ的には、類推後に生まれる。

この流れから読み取るに全体の印象は明らかに、
フラクタルであることや、カオスからの現象の励起や、参照と表出のような関係性の印象を受ける。

アナロギアとは、
というか調べて思ったのは、
使われている言葉なのだが、
位相と同定がやはり多く出てくる、

あ、いや、もう飛ばそう、
答えがわかった

アナロギアとは結局、
神の証明法である。

間いろいろ飛ばしてすまないが、
アナロギア全体に関する記述を漠然と捉えてたら
認識を求めている次元の特定が多分これはできるように思う。
そもそも人間は想起の総てをその自然原理から受けている、
人の脳が知覚を有するのは真理からの参照にほかならないが、その目的は既に私の中に同定されていると仮定したとして、
おそらくそのアナロギアというシステムは、本来的な真理の証明に関わるものだ。

無から有が発生する過程において
その発生した概念をそもそも神とし、
その神の力として現象化するあらゆる被造物がある。
これは神という単語を使い表現しただけで
実際比べるとこれは現実的に起きていることの言い換えでもある。
その無から励起した神という現象が、被造物を生むシステムや、構造自体をアナロギアと表現していたようではあるが
個人的にはロジーとして理論を体系化したいところもある。
ではアナロギアから体系化出来る理論を考えた時システムを逆流させれば何が起こるかというのはそれは神の逆探知であり、神の特定である。

これまで概念として様々たる神が信仰されては来たが『無から有』という段階において、
『有として生まれたなにか』を神としたコトがこれまでの概念だった。
正しくは、有という概念は、総称であり、
『有として創られた何か』を触媒として現れている。
そもそも創造主という概念が何を作ったかと言う問題もあるが、これまで述べられてきた創造主が、漠然と有をとした記録は見たことがない、
特定の何かを必ず指している。
総称としての有の神とは見た記憶がない、ましてや無の神もである。
そして『から』の部分に相当するのがアナロギアとも言える。
問題は無である。

おそらく個人の表現で行くと、
この無の神が、『最後の神』に近い、
『遅れたる神』はまさに遅れてくるわけだが、同等の者のように感じる。

比類言語システム
物事の動きとしては無という主体が同定した概念の表出
人は物事を理解するために言語を使い同定する、
使ったものは言語だったが、人間は言語というものを1つの概念としてしか捉えていなかった、
上手く言語化出来ないだろうが、それはフシというしかなく、

その節をたどり現れない無の流動的線形を捉え無の神を逆に同定していくという、
人間本来におそらく備わっている感覚の器官
それが比類言語システム、
勿論創出させるシステムをアナロギアとして扱っても良いのだろうが、
それはあちら側のシステムであり、好きにすれば良いしかしそれが存在する以上、単純に我々もそれを逆説的には扱えるという理屈の話。

我々にとってのアナロギアとはつまり、

比較同定システムとしてそれを使えばいいという話になってくる、
最後の神の証明を行うことだと理解した。
が故にただ単純に証明ができるシステムそのものがアナログだということになる。
おそらく、現状人類は時系列的にその最後の神の特定に入っていくはずだ、これまでのあらゆるは間違いなく崩壊する。
全体がそのように動いているように感じる。

そこから先は何千年か後にまた、遅れたる神として現れてくるだろう。
またその時に我々はまた別の形で出会うのだろう、

そして、
『無の意』もまた、そのようにして遅れるのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?