日本語沼の民だった頃の話
私は大学で国語学研究室にいた。
国語学、現在は日本語学と呼ばれることの多いこの学問は、文字通り日本語をあらゆる側面から研究するものだ。
研究室配属になってから3年間、日本語沼にどっぷり浸かる生活だった。
何を研究してるの?
研究対象は日本語に関することなら何でも扱い、かなり幅広い。
例えば
・国語史(ある時代にどんな言葉が話されていたか)
・文法論(日本語の文法はどんな体系か。この分野において義務教育で習う文法は一説に過ぎない)
・会話(話し言葉にフォーカスする。「あの〜」とか、「えっと〜」なんかも研究対象)
・方言(ある土地の方言を調べたり、方言の全国的な分布を調べたり)
・言語行動(例 ある場面で挨拶をするかしないか、するなら何と言うか)
などなど。
私は特に方言に興味があったので方言で卒論を書いた。
方言大好き
国語学研究室にいる人たちはみんな日本語が(学問対象として)大好き。言葉へのアンテナがとても高い。
私のいた大学は全国各地から学生が集まってくる所だったので方言も様々。雑談で知らない言葉が出てくると、
「え!今のどういう意味?」
「こういうとき使える?こういうときは?」
「共通語の〇〇とどう違う?」
とたちまち学問的探究心丸出しになる。で、方言の話をして日が暮れる。卒論の時期でも方言トークが止まらず、卒論書きにきたのにほとんど進まず話して帰ることもしばしばだった。
言葉の乱れ
「日本語の研究してるんです!」
と言うと、
「じゃあ正しい日本語とか厳しいの?」
なんて言われることが多い。
全くそんなことはない。
むしろ探求すればするほど安易に「言葉の乱れ」なんて言えなくなる。
そもそも言葉は変化するもの(だから私たちは古典を読むのに苦労するのだ)。今はおかしいとされる表現が数十年後には一般的なものになっている可能性は大いにある。
例えば、「全然おいしい」なんて言葉がおかしいと言われることがあるが、歴史的にはこの用法がアリだった時代もある(多分現代で再びアリになりつつある)。
あくまで、ある場面で適当な言葉、ある時代において適当な言葉があるだけじゃない?というのが国語学をかじった私のスタンスだ。
ちなみに国語学の研究者たちは聞き慣れない表現に出会ったとき、「そんなのおかしい!」と怒るより「なにそれ興味深い!」となる人が多い。知らんけど。
古典作品の読み方が斜め上
いわゆる古典作品も、我々の研究対象であり、大事な資料である。
国文学方面の人は内容とか、作品の背景とかに注目するのだろうが、我々はそこにはノータッチ。
「どんな言葉が、どのような意味で、どのような形で使われているのか」
これが重要である。
もちろん話の内容を理解しないと言葉の意味を探求できないから最低限日本語訳にはするのだけれど、その先は言葉一直線だ。
例えば、私が半期の授業をかけて調べたのは「大きい」という言葉。
現代語では「大きなかぶ」みたいに連体詞として使われるのだが、その授業のテキストだった『今昔物語集』では「大きなる〇〇」と形容動詞で使われていた。
じゃあいつ形容動詞から連体詞に変わったんだいというのを延々調べた。半年間「大きなる」ばかり探していた。
結論がはっきり出なかった記憶があるので、気になる人は頑張って調べてもらいたい。あわよくば結論を教えてほしい。
就職の話
楽しい楽しい国語学だが、文学部系の宿命か、お仕事に直結するのが難しい。研究者か国語の先生くらいだろうか。
私の同期も公務員や民間企業に就職した人がほとんどだった。
だからといって国語学が意味もないとは微塵も思っていない。
例えば、災害があって他県から支援者が来るときに、被災地の方言が理解できることは円滑なコミュニケーションの支えになる。そこに方言研究で得た成果が生かされていたりする。
すぐに役立つものばかりが有用じゃないんだと思うし、「おもしろい」という理由だけで探求したっていいのだと思う。
おわりに
私自身、未だに日本語への興味は尽きず、日本語や方言に関する本をよく読んでいる。
あと勝手に他人の話し言葉を分析していることもある。
新しい土地で暮らすとき、その土地の方言を知るのがとても楽しい。
ああこんな学問もあるんだな、と興味を持ったら、ぜひ沼に足を突っ込んでみてはいかがだろうか。
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