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最恐とは"最恐とは何か?"という問いに再び戻ることである。

こんばんは…‼︎
デアです(o|o)/

2日前に、noteのつぶやき通り、

本当の最恐の敵とは…
"愛を極めた者"と、
"自分"であると考える。

なぜなら、
戦うことすら捨てざるおえない物を
持っているから。

という考え方を持ったまま
週刊少年ジャンプで大人気の
「鬼滅の刃」「僕のヒーローアカデミア」
の最強のラスボスの戦い方を見て、
その考え方が変わるか?というチャレンジを
しました(笑)

もちろん、今出ている物語の展開を
全てこの二日間で知り尽くしましたよ😓
(ネタバレ要素含まないように注意します)

結果…

考えは変わりませんでした。

なんか虚しい結果に終わったのですが、
この理由について考えて、記事にしてみました🤔

よろしくお願いします🙇🏻‍♂️

※ちなみに、「暗殺教室」や「ワンパンマン」
などの無敵すぎるキャラクターや、
週刊少年ジャンプの裏側について調べても
その考えは変わりませんでした(^_^;)
「デビルマン」や「エヴァンゲリオン」は
ちょっと揺らぎましたけど💦

1. これほど便利で"最恐"な言葉はないから

"愛"と"自分"を極めるという表現は、
沢山の可能性を持ちすぎている。

あなたにとって、
"愛"とは何でしょうか?
"自分"とは何でしょうか?

おそらく、
100人いれば100通りの解答が
返ってくるのではないでしょうか?

(それは言い過ぎか😅)

もうそれくらい、
"愛"と"自分"という言葉ってたくさんの意味を
内包した抽象化され切った言葉、概念だと
思うんですよね。

そして、この言葉を逆に否定してみます。

あなたにとって、
"自分"ではない物って何か?
"愛"ではない物って何か?

この質問を100人にしたら、
絶対に一人はネガティブな物
連想するんじゃないでしょうか?

"自分"はともかく、"愛"については。

要するに自分が言いたいのは、
"自分"と"愛"って淘汰してはいけない物だと
思うんですよね。

誰かが"愛"や"自分"という物を
破壊、淘汰しようとしても、
絶対に誰かが止めようとする。

"愛""自分"
淘汰されてはいけない
絶対に壊してはいけない物。

そういう意味で、
ネガティブな物を思い浮かべる人が
一人はいると、言い切りました。
(わかりづらい質問ですいません💦)

この言葉の持つ意味からして、
壊されてはいけない物だし、
様々な可能性を持っておりどう形を変えるか
わからないし、
壊されようとしても誰かが止めてくれる。

こんな便利な要素を"自分"と"愛"という
言葉は含んでいるからこそ、
どんなアニメや漫画を読んでも
これが"最恐"だろうと思ってしまうのです。

2. どんな最恐キャラもこれで倒されると考えて良いのか?

"自分"と"愛"を極めた者が最恐というのは
これからの"最恐"について考えるための出発点に過ぎない。

どんなラスボスも、
人が築き上げた"愛"と"自分"という言葉の
重みによって潰されてしまう。

本当にそう考えて良いのか? 

"愛"と"自分"は確かにこの世界にあることは
わかりますけど、
なんだか非現実的な要素も持ち合わせてる
曖昧な要素を持っている言葉ですよね。

今は、こんな"愛"と"自分"を極めた者に、
アニメや漫画のラスボスは倒されて
いくんだろうなという、
便利で誰かが間違っているとも言いづらい
極めて抽象化しきった言葉
を使って
最恐!と自分は語っているわけですが、
20XX年後の未来では"愛"と"自分"という言葉は
死語になってるかもしれません。

つまり、
別の表現で最恐を語れるようになっている
かもしれません。

未来は予測することはできますけど、
それが本当になるかは誰もわかりません。

そういう意味で、
最恐とは何か?という問いに、
"自分"と"愛"を極めた者が最恐であるという
考えを一旦、このnoteにまとめて、
また最恐について考えるための出発点として
この場を使うのが妥当でしょう。

だから、この考えに賛同された方は特に!

自分が考えた最恐キャラは
"愛"と"自分"を極めた者であるという表現を、
再び考え直させるような最恐キャラを
作るための"出発点"として使ってください!

まとめると、
真の最恐キャラとは、
最恐とは何か?を再び考え直させてくれる存在。

そういう意味で、

最恐とは"最恐とは何か?"という問いに再び戻ることである。

というタイトルの結論に辿り着きました✨

最後に: これも一つのサイエンスアート

なんだか、最恐とは何か?
という事を考えたら、
最恐とは何か?ということを再び問い直させる
ような物が最恐という
初まりの問いに戻ってしまいました(笑)

まあ、「哲学だな〜」という認識で読まれた
んじゃないかと思うのですが、
自分が扱っているサイエンスアートの態度
まさにこれです。

サイエンスアートは、
サイエンスという計算や数式により、
現実世界で解明され、"顕在化した要素"に、
アートという鑑賞者に新しい世界の見方や、
この世に潜む"潜在化された要素"を融合、衝突
させた"極めて曖昧な概念"です。

そんな要素があるからこそ、
不確定な未来に対して様々な可能性や、
危険性を鑑賞者に提示し、体験させることができ、より望ましい未来が実現可能化するように
動くきっかけを与えてくれるんです


最恐とは何か?について考えて、
再び問いに戻ったというのは、
サイエンスアートにおける大事な態度を
具体的な例として書いたと言っても過言では
ないでしょう😌

すいません💦
タイトルから話がかなり逸脱してしまいましたね( ̄▽ ̄;)

それでは、ここで記事を書き終わろうと
思います👌

色々とややこしく考えさせてしまった方は
ごめんなさい😖
そして、真の最恐とは何か?について
再び考えるための記事として使っていただけたら幸いです!

それでは、またお会いしましょう。
デアッ( o|o)/~

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