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変態的人間愛

 中学・高校と活動量の多い体育会系部活動に所属していた。一年のうちまとまった休みなんて取らなくて、高校では正月もお盆も何もかも関係なく明け暮れていた。楽しいことも苦しいことも様々あったし、高校なんか総合評価するとマイナスになりそうだが、結局大学でも続けているくらいには物好きである。

 中学校の部活を選んだのには、少なからず姉の影響があった。姉はいつも恰好の模倣対象だった。姉の足跡をなぞることは私にとって社会に適応するためのチューニングみたいなもので、物心つく前から殆ど本能的にその術を身につけていた。そうすれば両親をはじめとする世間から合格点がもらえると知っていた。まあ、当時はそんな捻くれたことをごちゃごちゃ自覚する脳もなくて、ただ楽しそうに友人と部活に明け暮れる姉への羨望と憧憬みたいな単純なものだったと思う。
 そうして私は図書室の引きこもりから一転して、靴下焼けが光るまで炎天下に肌を晒すようになった。同期は5人。時間を割けば割いただけ、苦楽を共にすればするほどに、絆は深まった。3年生になるとキャプテンを務めるくらいには、部活という活動も、仲間も好きだった。中学校の同期とは今でも仲が良い。

 高校ではやったことのない競技に挑戦した。中学生の頃よりも格段に忙しくなったし、上下関係も厳しかった。元々運動音痴な私は、思うように芽が出ずに伸び悩んだこともあり、持てる全てを捧げたが、報われない思いもした。
 何度も辞めようと考えた。同期とも、先輩とも中学生の頃ほど馴染めなかったしトラブルも起こした。競技でも悔しい思いをする。考えて、考え続けて、その度にそれでも辞めたくないと思った。それがなぜなのか、その時の自分にはよくわからなかった。

 大学では同じ競技を続けている。相変わらず、鳴かず飛ばずの成績だがそれでも辞めたくない。そのうち競技が好きなだけでここにいるのではないと気がついた。競技だけならば趣味でもやれる。今の人間関係が特段心地いい訳でもない。

ではなぜ、私はここにいるのか。

 私は部活という特異な集団とそれに属する様々な人間が好きなのだった。どんなに痛い思いをしても、またはさせても、それぞれの正義を戦わせながら一つの目標に向かって繋がろうとする人の集団に一種の美的快感を覚えているのだった。そしてここではその目標への志があるならば、それだけでそこにいることが許される。

 帰属意識というのは人にに安心感を与える。学校では広く浅く、誰にでも認められ、会社であれば利益を発生させることで認められる。部活動という狭いコミュニティは、同じ志があるというそれだけで、それ以上値段のつく価値を要求されない。人と話すのもままならず、およそ平均的な人間の機能を欠如した宇宙人のような私でも居場所があるということに、魅力を感じてしまうのだった。

 私は他人や自分の心の動きについてよく考える。光を受けるクリスタルがその角度によって煌めきを変えるように、一つの事象を頭の中でくるくると裏返したり傾けたりしながらものを考える。自分の知らない感情や思考回路に気づけると面白い。尤も、そういう視点をもたらしたのも部活動で多くの人間を見てきたからじゃないかと思う。部活動で出会う様々な人間とその交流は、時々性格的な相性を凌駕することもある。そういった化学反応的な交流を間近で観られることはあまりないだろう。

 挫折とか悔しさとか、自分の痛みすらも傍観的に分析できるようになってしまえば、結局この人間観察のようなことを辞められない。今も部活に顔を出している。人間は面白い。
 最近では頭の中で心理学をやっているような気がしてきていて、その分野には知識はないのだけれど、私程度の人間が気づくことには何でももう名前がついているだろうと思う。時間ができたら、きちんと知識として吸収したいなあ。


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