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君たちはどう生きるかー風立ちぬのエンドロールの向こう側

宮崎駿の遺作は「風立ちぬ」にして欲しかったので「君たちはどう生きるか」は見るつもりなかったけど、どうせネタバレを食らうなら第三者よりはジブリから食らいたいので映画館に行ってきた。

以下、上記両作品のネタバレありの考察&感想です。

結論から先に言うと、作品としては風立ちぬがまとまっていてキレイだけど、それを引退前に否定しておきたいという宮崎駿の意思を感じたので、思ったより誠実な人だな、と思った映画でした。

風立ちぬの最後のシーン、あるじゃないですか。夢の中での師匠かつ私淑していた飛行機開発者のカプローニに主人公が野原で会うシーン。あそこには撃墜されたゼロ戦の残骸が散らばっていて、一種の地獄なんですが、主人公にもカプローニにとってもあそこは夢を形にした者たちだけがたどり着ける楽園なんですよね。なんなら夢に形に与える事が出来たのなら、自分が楽園にいる事すらもうどうでもいいのかもしれません。

いわんや、他人がいる場所が天国になろうが地獄になろうが。

風立ちぬが宮崎駿の人生を主観に映画化したものだとしたら、「君たちはどう生きるか」はその人生を客観的に見ればどう見えるのかを総括した映画と位置づけられます。

主人公の大叔父は時空ポータルを発見してこの世界から姿を消し、以後は世界の運営者として、争いのない美しい世界をつくり、その破滅を遅らせる事に没頭する。その試みは上手くいくも、やがて世界の歪みが大きくなり、それを正す力も衰え、後継者に委ねるようになる。主人公は後継者として期待されるも、美しく完璧な世界を作るよりも、戦火の中燃え落ちる世界で友人や家族と過ごす事を選び、後継者になる事を拒む。

これ、宮崎駿じゃね?

一番弟子の庵野秀明は偉大なクリエイターだけど、宮崎駿とは別ジャンルですし、宮崎吾朗は駿を超えてるとはなかなかいいづらいですし。

風立ちぬは「美しいものを作るためには他人も自分も薪にくべずにはいられない」というクリエイターの、あるいはあらゆる創造的活動を行う者の業を、一人称視点で描ききった名作です。詳細はこの記事でも書いています。

美しいものを作る、いや「形を与える」とすら言い切る執念はそれ自体人類の進歩に必要なものです。そして、自他の全てを犠牲にした事に何の未練も感じないでしょう。ただ、それでも「君たちはどう生きるか」に一種の寂しさがあるのは、その美しいものを作り出せる後継者を作れなかった事の悔いを感じているからかもしれません。

自分にしか作れないという自負は自分が無限に美を作り出せる時はいいし、誰にも到達できない高みに到達したことの証左であり、誇りでもあるでしょう。
しかし、同時に自分が手を動かさない限り、自分がほしいものは世界に生まれない事でもあります。

いつか引退が見えてきた時に、自分を超える者がいないというのは、自分の引退ともにその全ての仕事は袋小路となります。古典となり化石となり、博物館の中で珍重されこそすれ、新たな新作はもう生まれません。

だからこそ、化石化する流れに抗うように、名作古典になりつつある過去作品を慈しむように怒涛のようにジブリの歴代の作品からのオマージュで溢れています。

もののけ姫の代を経るごとに小さくなり愚かになる動物、熱帯の植物であふれかえるハウルの温室、ポニョを奪還しに来た海、ナウシカのキバヘビトンボ。これらは名作でも古典でもましてや古典でもなく、まだ生きているモチーフだぞという思いが滲み出すほどに存在感を放っていますよね。

もしかしたら引退した後で影響を受けた誰かが何かを作るかもしれません。ですが、過去何十年もの活動期間中に直接の弟子もそれ以外の追従者も宮崎駿を超えられなかった事を考えると、突如超新星のような後継者が自分を超えるというのは楽観が過ぎます。

しかし、そうはいっても、一度美に魅せられ、そしてそれを形にする能力を行使することには抗いがたい魅力があります。

だからこそ、風立ちぬのエンドロールをはさみ、美に形を与える人生を選ぶか、それとも不完全な世界で家族や友人というすでに世界に存在しているものに美や価値を見出すか。まさに、どう生きるか、と問いかける映画かもしれないですね。

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