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正解を選べないという祝福を、我々はすでに受けている

暗い海に氷山が漂っている。その上に一人座り、マッチを擦る。その光が届く範囲だけが、君が知ることの出来る世界だ。そしてマッチの燃える時間が、君の生きる時間だ。1本のマッチで、氷山のすべてを知ることはできない。

人類が生み出したコンテンツに限っても、我々が一生かけて消費できるのは氷山の一角にすぎないだろう。ハカセは前の記事で、だから人生において飽きる瞬間は来ないと、そう教えてくれた。ましてやコンテンツを作る側に回ればなおさら。

これは幾分明るいニュースだが、新たな宿題もまた照らしだされてしまった。

「限りないコンテンツに対して限られすぎている人生」の中で、私たちはどう「正解」を選んでいくべきなのでしょう。

https://note.com/0ur0b0r0s/n/n2993930c87fb?magazine_key=m974ee7671e56

楽しめるコンテンツは限られている

日本で作られたものに限っても、無数の本が発行されている。ものすごい速読術を身につけた人でも、県立図書館程度でも1館の本をすべて読破するのは一生かかってもできないだろう。

音楽はもっと悲惨だ。速読と違って音楽は倍速で聞けばもはや別物になる。映画やアニメもそうだ。現に、人気作品は次々公開されているが、そのすべてをキャッチアップできている人というのはそうそういない。学問にいたっては複数分野で学位を持つ人など相当な希少種だろう。

だからどこかで諦めなくてはいけない。それが意識的であれ、無意識であれ。どこかで軟着陸しなけりゃならない。いつまでも飛び続ける事は不可能なのだ。そうでないと、どの作品も見ようとして時間が足りず途中で見るのをやめてしまったり、あるいは書きかけの小説を放置することになる。

基本的に、そこそこの人数が情熱をかけて作られたものは、それをまるごと消費すれば何らかの味はするものだ。だが、それらとて、途中でやめてしまった人まで楽しめるとは限らない。Done is better than perfectというのはコンテンツの生産と消費どちらにも成り立つ。

あるいはもっと短期的に問題になることとして、コンテンツにのめり込み過ぎて自分の生活に支障をきたす事が挙げられる。遅くまで本を読んで翌日寝不足になったり、ネトゲ廃人になって不登校になったり、数学にハマって社会から逸脱したり、そのような依存もまた問題となる。

ブドウを酸っぱいと言える勇気

自分が知らない事を知りたい。いや、自分が知らない何かがあることに我慢がならない、と言ったほうがいいかもしれない。これは人間の根本的な欲求だ。この好奇心があるからこそ、人は物語をつむぎ、星を読み、文明を前に推し進めてきた。

だから、知らない物事を知らないまま放置するというのはとても居心地が悪く感じる。ネトフリやアマプラでは気になって入るがまだ未視聴の動画が次々とサジェストされる。それに流されてしまうと、時間を溶かしたり、中途半端に手を出すことになる。だからこそ、ある程度どこかで冷めた目で自分の快楽に「もう今日は十分楽しんだ」「今サジェストされたやつは今見ても面白くないだろう」と水をささなければならない。

さながらイソップ童話の狐だ。高くて届かないブドウを諦めた際に、どうせ酸っぱいブドウに違いない、と言い残したあの狐だ。我々は価値のあるものは手に入れなければ気が済まない。だから、手に入ってないものは価値がないと思うことで、認知的不協和(価値があるのに手に入ってない)を回避している。

認知的不協和の回避はもう一つある。現状の肯定だ。すでに自分のものにしたコンテンツに満足していないから別のものを漁りたいのなら、手元のコンテンツから豊かさを引き出せば良い。それは軟着陸だとか、勝負から降りる事だという声もある。だが、次から次への新たなコンテンツを探し続ける事が正解だとは思わない。

約束された失敗という祝福

冒頭の氷山の例に戻ろう。マッチが燃える間に光が届くところが、人生の間にふれることのできる情報だ。氷山は小説や映画といった受動的なコンテンツ、そして学問や知識という茫漠たる海が広がっている。

もしかしたら、この氷山や暗い海のどこかに自分のために天が用意したようにピタリと当てはまるコンテンツがあるかもしれない、それを味わえば他のコンテンツの探索をやめたくなるような。でもマッチ一本が燃える間に見つける事はほぼほぼ不可能だ。少なくとも、そんな分の悪い賭けをするべきではない。

とどのつまり、我々は幸・不幸、運の良さに関わらず、コンテンツの選択において必ず失敗する事が約束されているようなもんだよ。夢みたいなコンテンツを引き当てる事だけを正解と定義するなら、の話だけど。

嬉しいね。これでもう、失敗を恐れビクビクしながら正解を探す必要はないんだ。何を選んでも不正解だよ。だからこそ、自由に選択ができる。

そう、「限りないコンテンツに対して限られすぎている人生」の中において、「何を」選ぶかというのは全く問題じゃないんだ。

むしろ「どう」選ぶか、選んだ後でそれを「どのように」楽しんでいくか。純粋に知識欲を満たすもよし、新たな思索をスタートさせるベースキャンプとしてもよし、同の士を見つける道具にしてもよし。

だから「正解」というのものは、直感に反して「選択」の前には存在しない。「選択」により一つの道が選ばれ、行動が蓄積されるにつれ、正解を選んだことになったり、不正解を選んだことになったりする。

スヌーピーも言っている。

“You play with the cards you’re dealt… Whatever that means.”
(配られたカードで勝負するしかないのさ、それがどんな意味であれ)

実際のところ、手札の枚数は努力で多少増やせる。しかしスペードのキングを何枚も持っていても(似たりよったりの多くのコンテンツを消費しても)、それだけではツーペアすら作れない。役が作れなければ、ありあまるキングでもたった5枚のストレートフラッシュに勝てない。

少数精鋭主義というのは聞こえはいいが、たいていの場合は単一の精鋭を雑多に組み合わせてもパッとしない。人生というゲームの真髄はカードの引き強さよりも組み合わせの妙にある。

自分の中の教養や知識、あるいは技能や専門性といったものもそれと同じ。多芸多才は尊敬に値する。人生における無数の選択において「良い選択肢」というのもまた、選ぶ時点で決まるのではなく、それを育成し、あるいは上手に組み合わせて、正解に思える役にピタリとハマったときにはじめて「ああ、良い選択肢を選んだな」と確定する。

喜ぼう。我々は決して、森羅万象の中で最適解を選ぶことはできない。約束された失敗に祝福されている。だからこそ、選んだ「失敗」の選択肢を正解に変えていく権利と力を許されているんだ。

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