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ゴールは存在しない:人生戦略を静的構造ではなく動的構造で考える

私達はあまりにも「物語」に慣れすぎている。何もこれは抹香臭い現代批判じゃない。サブスクやSNSでスナック感覚に消費する動画や漫画が出回るずっと前から、そう、我々が狩りをして焚き火を囲み、洞窟の壁に絵を書いていた原始の時代から、物語は我々とともにあった。英雄譚、喜劇、悲劇、教訓を与える物語やその集団のアイデンティティを与える神話は我々の古き良き友人たちだ。

複雑な世界を複雑なまま理解するのは、単純な脳を持つ人間には難しい。
そこでこの世界を単純に理解するために物語はとても有用だ。世の中の理不尽や人生の苦悩を説明するために神話や宗教、伝説が生まれたし、教訓を伝えために寓話が生まれた。やがて科学の光が広がるにつれ、疫病は悪霊の瘴気ではなく、落雷は神の怒りでないことが明らかになり、行動経済学や心理学、ゲーム理論が道徳や利他性の後ろ盾になっても、我々は物語を手放さない。むしろ、無意識のうちに現実を物語のスコープを通して見てしまいがちだ。しかし、物語化という単純化はいくつかのささやかで、そして根深い誤謬を植え付ける。


1つ目は万物に二項対立があるかのような錯覚だ。
システムが抱える問題点によって全員の善意が結果的に悲劇つながる事を理解するのにはある程度の頭が必要だ。しかし、悪いやつが一人いて、そいつとその取り巻きが罪なき善良な我々に不利益を与えた、という話のがシンプルで共感を集めやすい。善悪の二項対立だ。航空機の事故のときだって、専門家たちがヒューマンエラーが起きるシステムの問題を考える横で、マスメディアは嬉しそうに犯人探しをしていたのは印象に新しい。でもそれは今日のトピックではない。もう一つの、そして忘れがちな物語の特徴こそ、今日の主題だ。物語のもう一つの特徴、それは結末があるということだ。

そう、物語にはすべて終わりがある。結末がある。終わりを迎え語り手はその口をつぐみ、聞き手たちは余韻に浸る。楽しい話、悲しい話、様々な物語があるが全て結末がある。時が流れノンフィクション文学というものが登場して、一つの事件や時代を描いたとしても注目する人や時代によって喜劇にも悲劇にも描かれうる。

作者が意図していたかどうかは不明だが、それが象徴的な漫画がある。まずはこれを見て欲しい。無料で12ツイートで読める。

https://twitter.com/_tomatagawa/status/1616012830150635520

主人公は女性の先輩に恋をするが告白直前に先輩が別の男性と付き合った事を知らされる。その後先輩は彼氏に浮気され、主人公ともセフレの関係になった。卒業後、就職して数年ぶりにあった先輩に、結局付き合ってくれなかったですね、と言うと「好きって言ってくれなかったくせに」と返され、先輩は数年後に別の人と入籍する。というストーリーだ。

このノートを書くために読み返したけど、おしまいみたいな恋、いいですね。こういうのに憧れる一方で、多分自分は主人公というよりは先輩側に感情移入してしまう事に気づいた。それはおそらく、一つの達観の類のものだろう。どのタイミングでも、どの登場人物も、単なる「一時的優位性」というボールを持っているにすぎない。だから時の経過や圧倒的な力でそんなものは簡単に押し流されうるという達観だ。

この主人公は物語のスコープ、すなわちバッドエンドやグッドエンドといった結末があるものとして動いており、それゆえあの時こうすれば「この結末」を変えられたのでは?と逡巡する。主人公は先輩のイケメン彼氏が持っていた「一時的優位性」と認識できず先輩と彼氏がくっついている静的(性的ではない)な状態だと思っていた。だからこそ、先輩彼氏の浮気が露見して先輩が傷心の時でも、あるいは先輩とセフレになったときでさえ先輩彼氏が優位性を失ったことに気づいていなかった。

しかし、先輩は結末はないと思って過ごしているから、どのタイミングでも告白ができたし、何なら「好きと言ってくれなかったくせに」と言ったその日ですら告白チャンスだったのかもしれない。林修なら「今でしょ!」と叫んでただろう。(受け入れられるかどうかはまた別の話)でも最後まで主人公は告白しなかった。この二人はすれ違い、結局別の人と結婚して、一種のほろ苦いバッドエンドとして幕を落とす。





…かーらーのー?
と合いの手を入れてもこれは(実話をもとにしてる?)物語なのでここで終わりだけど、現実だとしたらまだ終わっちゃいないよね?
結婚してそれでその二人がずっとくっついたまま?
えらい平和な世界に住んでおられるようで羨ましい。
先輩が結婚相手と上手くいかず離婚した後再会することだってあるし、その気になればダリのように人妻を口説き落として以下略

現実ではゴールテープなんてものは存在せず、グッドエンドもバッドエンドもありやしない。もし誰かとの競争という文脈で見るのなら、たまたまある瞬間に「一時的優位性」というボールを持ってるだけだ。そのボールを持っていても、持っていなくても、試合は終わらず、世界はこれからも続いていく。現状に満足するならそれを死守する不断の努力が必要になるし、気に食わないならその結末は何度でもいくらでもひっくり返せる。そして皆がその力を持ち、あるいはいつか持つ事が可能であり、力の行使も無制限に許されている。

だからこそそんな流動的な世界での立ち振舞いにおいて、結末、すなわち勝利条件の達成可否で考えると常に後手後手に回る事になり、とても不利な戦いを強いられる。

たとえば、かつて自分は中学生になった時にこう考えた。自分は頭の回転やひらめきも普通で、勉学における唯一の強みは同級生よりほんの少し知識が多いことだ。そういう知識の貯金はすぐに差を埋められる。テストができるのは単に勝ち組なのではなく、一時的優位性に過ぎない。たぶん地元の国立大に行くのが関の山だろう。

でもそうはならなかった。中学入学時は平凡な成績だったが、大学受験時には県下トップクラスとなって第一志望に合格できた。なぜこの一時的優位性が瞬殺されなかったのか、答えを見つけるのにだいぶ時間がかかったけど、この錯誤は彼我の差を静的なものとして評価しているということだった。

つまり他人はちょっと時間をかけさえすれば簡単に自分に追いつけるから、遅かれ早かれ追いつかれるし、そこに本質的な才能の違いがないなら追いつかれるという「結末」は同じものだと思っていた。これは大きな錯誤である。結末はない。常に彼我の差は変動し、一時的優位性というボールは目まぐるしく動くが、その中でも時間軸は特に無視できるものではなく、時間を味方につけた者をボールは好む。勝利条件なんてものがあるとすればそれは目まぐるしく変化するし、往々にして勝利条件は既存の優位性を強化する方向に動く。

たとえば自分と同級生の知識量の差が5くらいしかなかったとしよう。彼我の知識量5を埋めるためにクラスメイトが努力する時間で自分は最低でも5、往々にして7か8くらいの知識を獲得できる。なぜなら知識というものは手持ちが多くなればなるほど理解力も吸収スピードも上がる。さらに知識がある程度増えてくると、ひらめきや発想も底上げされ、複数の能力が強化される。つまり一定時間経過後の差はむしろ開いていく。しかし逆に、途中で何らかの恣意的に定めた勝利条件を達成したと考え、それ以後漫然と何もしなければ、一時的優位性は簡単に失われてしまう。

もっと極端な例はカードゲームだ。MtGというゲームがある。簡単に言うと、土地は1ターンに1枚出せる。土地は1ターンに1回だけ1マナ出せる。そしてそのマナを使ってクリーチャーを召喚する。1マナで出せるクリーチャーは2マナで出せるクリーチャーよりコストが安いというだけではなく、1ターン早く出せる。そして凡庸なクリーチャーでもほぼ同じ性能でコストが1つだけ小さい類似カードが出た場合、それが大活躍したり大活躍しすぎて禁止カード指定されたりする事もある。ターン制バトルにおいて、ターンアドバンテージが馬鹿にならない強さを持つ。

この事は無駄な抵抗の代名詞として使われる「時間稼ぎ」が全く無駄ではない事も示している。実際の世界史でも軍事行動でも、たとえば自分の本拠地を防衛しながら別働隊が敵本拠地を3日かけて叩きに行く時、ズルズル撤退を続け時間を稼ぎながらでも3日の時間稼ぎができれば先に敵拠点を制圧できる。時間稼ぎが無駄になるのはより上位の目標を用意していない時だけであり、稼いだ時間を有効活用できる限りは強力な武器になる。
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まだ自分はこの考えを持つようになって日が浅いから、ついつい口癖のように「アウトカムは変わらない」とか言いがちだし、時間稼ぎを軽視するのはやはり無意識のうちに自分が静的な系にいると思い込んでる証拠だろう。まだまだ修行が足りないな。

さて、以上をまとめると、勝ち負けというものはなく、そこには一時的優位性の所持者とそうじゃない者がいるだけなんだ。動的に物事を理解している人は静的な達成条件や勝ち負けではなく、時間軸を通していかに一時的優位性を再生産し続けられるかわかっているし、ここぞという時に時間稼ぎをすることで時間を味方につける事ができる。

そうやって一部の人が一時的優位性を長い間もち続けてると、どの分野であれ周りの人はそれを見て錯覚してしまう。ハッピーエンドとか、競争の勝者だとか、絶対者、秀才肌、君臨する天才などあたかも静的な構造であるように錯覚する。静的な構造と思ってしまえば、もうそれを覆せるとは誰も思わなくなる。もったいないね。

現実は物語ではない。勝者も敗者もいないし、はじまりも結末もない。善人と悪人はいるかもしれないが、それらは役割ではない。ずっと善悪が固定されているわけでもないし、勧善懲悪でもない。過去から今に至る完結した物語ではないし、誰もゴールしていない。気に食わないストーリーをひっくり返す時間は十分に残されており、満ち足りていてもまだ安心するには早すぎる。

ゴールテープは存在しない。これまでも、そしてこれからも。

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