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「当たり前」という言葉を捨てた先に

コロナが流行するよりも前。
マスクといえば、白色が基本だった。いわゆる不織布のマスクというやつだ。

確かに当時も街中で黒やグレーのマスクをしている人を見かけることはあったし、販売もされていた。けれども、圧倒的多数の人は白色のマスクを身につけていたように記憶している。実際、僕が当時勤めていた先で同僚が黒いマスクをしてきたところ、他の同僚が陰で彼のことを「怪盗黒マスク」と読んでいたことも、よく覚えている。

白でないマスクは、外れ値のようなものだった。

コロナでマスクの不足が叫ばれて以降、色々なマスクを目にする機会が増えた。もちろん医学的にどこまで効果があるのか、と疑わしいマスクも沢山あるのだろう。けれども、色や柄のバリエーションで考えたとき、これほどまでに多くの人が様々な種類のマスクを身につける光景を目にするとは、想像したことがなかった。

学校現場でも、教員が白以外のマスクを着用してきた生徒に指導を行ったことに対する批判があった。

そうやって、「当たり前」だった白マスクというマスクに対する観念は少しずつ変わってきているように感じている。

僕たちが普段何の気なしに発する「当たり前」、「当然」、「普通」、「常識」といった言葉は、本当に「当たり前」、「当然」、「普通」、「常識」なのだろうか。それは誰にとって「当たり前」で、誰が「当たり前」と決めたのだろうか。

大昔の人々は、地球の周りを太陽が廻っていると信じて疑わなかった。それを「当然」だと思って暮らしていたのだろう。

神が人間を作ったと疑わない人たちにとっては、神の存在は「当然」のことだろうし、アダムとイブの神話も「普通」のことに聞こえるだろう。

地球は球体ではなく、海の向こうには滝がある、その下には口をあけた怪物が待っている、と信じていた人たちにとっては、それは自然界の「常識」だったのだろう。実際今でも、地球が球体でないと信じている人たちは一定いる。

僕たちはそうやって誰かが決めた「当然」、「常識」を更新して生きてきた。コロナのような大きなきっかけで塗り替えられる「常識」もあれば、もっと緩やかに変化してきたものもあるだろう。

「当然」や「常識」が永続的であるなんて、誰が言えるのだろうか。大人はよく、子どもに「そんなの当たり前だし、できないとだめ」と彼らの「当たり前」を押し付ける。けれどもそこに、大人と子どもに(という大雑把なくくりの間でさえも)存在するかもしれない、見えている世界の違いに対する配慮はないのだろうか

空を紫に描くと、「青にしなさい」と言われるかも知れない。「空は青じゃん!見れば分かるでしょ」と言う人もいるかもしれない。そこに、空を紫に描いた人の見えている世界に対する想いはないのだろうか。

こうやって書くと、じゃあ「常識」なんてないのか、皆がそれぞれに思うとおりに生きれば良いのか、と指摘を受ける。そこに秩序はあるのか、と。

そうではない。

ここで言いたいのは、僕たちがあまりにも自分の世界に拘るあまり、「常識」を思考停止のままに誰かに押し付けていないだろうか、ということだ。そしてそのことで傷つく人はいないのだろうか、ということなのだ。

たとえば、ゲイやレズビアンという概念が浸透していなかったとき、あるいは同性婚が全く認められていなかったとき、「良い彼は見つかった?」と言われて傷ついた人はいなかっただろうか。
ハイヒールで出勤することを強要されつづけてきた当時、それによって脚を痛めた人はいなかったのだろうか。

選択のできない世界で、誰かの「当たり前」や「常識」を押し付けられて苦しんできた人はいなかったのだろうか。今も誰かの「常識」に縛られて、傷ついている人はいないのだろうか。

軽々しく「常識」だとか「当たり前」なんて言葉をつかう人たちよりも、その「常識」が誰か(ひょっとするとマジョリティ)が決めた、偏っている可能性をはらむものだという自覚をもち、そこから抜け落ちる人たちを救おうと視線を向けることが出来る方が、よっぽど優しい世界を創ることに寄与しないだろうか。それはひょっとすると、僕たち自身かもしれないのだ。

僕は研究の道に足を置きながら、そんな世界を創ることができたらいいなと思っている。

そのためには、他者、ひょっとすると自分とは異なる「当たり前」を持つ人たちと闘わ(闘技し)なければならないのだ。それが多数派で、ヘゲモニーを有しているのなら尚更、それを打ち壊していくことに意味がある。

僕の行っている研究、ムフの『闘技的民主主義』の概念にもとづく議論のあり方に関する考察は、まさしくその部分に立脚した思いをモチベーションにしている。

コロナの真っ只中、構わず「出社せよ」と命じたり、電子署名で済むものを「はんこにせよ」と命じる人には、こう言いたい。

「その常識、古いかもしれませんよ」

僕らの振りかざす「常識」は、いつも誰かの手によって、更新されていくものなのだ。


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