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最後の言葉

ごめんなさい、って言いなさい。

昔、幼稚園の先生にそう言われたことがある。

謝れる大人になりなさい。

そう、親に言われたことがある。

なんで謝らなくてはならないんだろう、悪いのは自分ではないのに。不貞腐れた僕は、そう思いながら、言いたくもない「ごめんなさい」を吐き出した。そんな幼少期があった。

どこかで、謝ることは弱さを認めることなのだと、そう信じている自分がいた。謝ることは、自分の非を認めるだけではなく、相手につけ入る隙を与えることになるのだと、そう考えている自分がいた。

けれども歳を重ねて、毎日学校に行けば必ず顔を合わせていたようなそんな人間関係もとうになくなり、ビジネスで表面的な付き合いばかりが増えていくそんな日々を繰り返す中で、そんな価値観も少しずつ変わってきたような気がしている。


僕には小学校の頃からの親友が2人いる。親が転勤族だった僕は彼らとは3年間しか一緒にいなかったが、僕が東京に戻ってきてからは毎年忘年会をしよう、と声をかけてくれる。持つべきものは友というのは本当にそうだなと、彼らをみて思う。そんな彼らとの会はきっとこれからも続くのだろうという予感はあるけれど、それが仮に65歳まで続いても、彼らに会うのはあと30回くらいだ。学校に通っていた頃なら一か月と少しだった30という数字は、そんな風に重みを持って迫ってくる。

でもきっと若い頃はそんなことを考えないし、大学生や新卒の頃の同窓会で小中高の友人と再会すれば会えることが嬉しくて、後何回会えるのかな、なんてことは考えないような気がしている。それはそれで、僕には眩しく映るのだった。


あのときあんなことを言わなければ良かった、そんな後悔は数えきれないほどある。けれどもきっと、その陰に隠れているたくさんの「あのとき言っておけばよかった」後悔もある。そのひとつは「ごめんなさい」なのだった。

そう。謝らなくても人生は続いていく。明日も明後日も。きっと続いていく。

壊れて修復できていない人間関係も、あの時の言葉で誰かを傷つけたことも、変わらず明日も人生は続いていく。

けれどもそれは変わり映えのしない人生で、修復不可能な人間関係を抱えたままで、誰かを傷つけたままの人生なのだった。

「謝られたからって許せることじゃない」と君はそう、言うかもしれない。「謝ってもあの時したことは取り戻せないよ」と君はそう、言うかもしれない。

不可逆的な時間軸を進んでいる僕らにとって、許してもらうこと、取り戻すことは、きっと謝ることの最大の目的ではないような気がする。その「ごめんなさい」は誠意であり、願いであり、もしかすると取り戻せない行為や言葉への自認や、自分の愚かさへの戒めなのだと、そう思う。だからその「ごめんなさい」は相手に向けたものでもあると同時に、自分に突き刺さる鋭いナイフのようなものなのだ。


けれども、もうこの先会うことがないかもしれない誰かに、あと何度会えるかわからない誰かに、誠意や願いを向けることは意味のないことだろうか。

誰かに向ける最後の言葉は、その誰かを傷つけるものではなく、自分を傷つけるものでありたい。僕はそう思っている。

そうして口に出した、文字にした「ごめんなさい」が相手に届くのか、届いたのかは分からなかったとしても。

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