見出し画像

マイノリティは、マジョリティだった。そして僕も、マイノリティの一人だった。

レーザーが飛び交う。
観客の手拍子が聞こえる。
DJが,手を天に向かって高く掲げ,一瞬の静寂の後,その静けさを待っていたかのように曲が再び流れはじめる。

僕はその一瞬一瞬を切り取ることを仕事にしている。
失敗は許されない。その一瞬は一度しか訪れないからだ。

カメラを構え,ピントを合わせる。撮れた画を確認しながら,場所を移動する。観客が見える。イベントにもよるが,本当に外見一つとっても本当に多様な人が集まるのが,ナイトクラブだ。タトゥーの入った人、髪の毛が紫な人,真面目そうなサラリーマン。ギリギリまで露出したお姉さん。

それぞれがそれぞれの目的を持って集まっているその様子が面白い。音楽に夢中になっていたお客さんだった当時とまた違って人間模様を観察できることも,この仕事の面白さだと思っている。

楽屋エリアに行けば,様々な人が遊びに来ている。芸能人がお忍びで来ていることもあれば,ゲストと知り合いの人,ファンだが楽屋に入ることを許された人…一人一人に撮影の許可を求めるわけにはいかないので,楽屋エリアでは基本的には写真を撮らないようにしている(本来この場所にいてはいない人の写真が出回ると後々厄介なことになることもあるのだ)。

撮った写真は一通りクラブ側に提出をして,チェックしてもらう手続きを挟むのも,そんな写り込みを防ぐためでもあるのだろう。

外見的にも,職業としても,非常に多様な人が集まる場だからこその面白さは,僕がそれ以前に社会的に所謂マイノリティで,関わることがないだろうと思っていた人たちが,実はそんなことがないのではないかという意識を芽生えさせてくれた

たとえば歌舞伎町を歩くときは行き交う人に対してどこか警戒心を持ってしまうが,クラブの中ではそんなことはない。歌舞伎町に努めるホストやホステスの方とおしゃべりをさせてもらったこともあるが,僕が歌舞伎町を歩くときに抱くホストやホステスのイメージとは違う,なんというか,俗にいう「普通の人間」なのだという感情を抱かせたことは面白い。

そしてクラブに来て,様々な人たちと関わるようになる以前に夜の世界に生きる人たちを,マイノリティとタグ付けし,どこか自分とは違う人種なのだと思っていた自分を恥じるようになったのだった。

ドラァグクイーン,コスプレイヤー,さらに言えばDJだって,自分とはどこか違う,異質な存在としてマイノリティに分類していたのではないか。「見下す」という表現で表すことができるのかは分からないけれど,どこか肌に合わない存在だと決めつけていたような気がしている

確かに,意識的に関わろうとしなければ,ホステスと話すことだって,ドラァグクイーンにナンパされることだって,風俗嬢の話す客との体験談を横で耳にすることだって,きっとないだろう。

特に大学のようなある種閉鎖的なコミュニティの中にいると,どうしても出会う人々は似たような専門的な背景を持つ人に限定されてしまいがちだ。

だから当時の僕は,あまりにもたくさんのこれまで関わったことのない人たちを目の前にして,「肌に合わない」感覚を抱いていたのだと思う。どんな話し方をするのか,どんなことを面白いと感じるのか,どんな話題で笑うのか。そんなことの一つ一つをとっても,これまで僕が接してきた人たちとは違ったからだ。

話が通じない。そんな感覚を抱いて,それを人に語ったこともある。

けれども話が通じない,というのはあまりにも主観的で自分勝手なモノの捉え方だった。それは勝手に自分のいる側をマジョリティと決めつけ,クラブにいる人たちをマイノリティだと分類していたことと類似しているだろう。

そしてそのことに気づけたことで(と書くととてもドラスティックな変化のように思われるかもしれないが,とても緩やかに)肌に合わないという感覚はなくなっていったのだった。

マイノリティだと思っていた人たちも,僕がマジョリティだと分類していた人たちと大きくは変わらないのだ。否,そもそもそんな分類ほど無意味なものはないのだった。

けれども,ひょっとして,外(普段クラブに行かない人。ひょっとすると大学の同期も含めて)から見ると僕も「マイノリティ」なのではないだろうか。クラブに行ってますよ,というと時々投げかけられる「パリピ」という言葉には,どこか「私とは違う騒ぐことが大好きな異質なあなた」という蔑みを感じるのだった。

けれども,繰り返しになるが,クラブに訪れる人たちの多様な生き様や人間模様を見たり聞いたりするたびに,そんな風に簡単に「パリピ」だなんて言葉で片付けられるほど単純な世界ではないのだなと実感し続ける。

社会調査ではしばしば風俗嬢や家出少女,ホームレスなどが「マイノリティ」を代表する存在として扱われ,その生き様を描く本が出版されたりもする。けれども(少し話を広げることが許されるなら)そんな外側からは「マイノリティ」に分類される世界で一人のマイノリティになったとき,僕はマイノリティ調査にどれほどの意味があるのだろうかと疑問に思うのだった

マイノリティと分類される存在をマイノリティとしてしか描くことができないそもそもの枠組みに限界があるのではないか。僕はクラブのカメラマンで,外側から見ればマイノリティかもしれないけれど,少なくとも僕の生きる世界ではマジョリティなのだ。

僕にとってクラブに遊びに来る人たち,クラブでお世話になる人たちは,観察対象でもあり,同時に良き友人や人生の先輩でもある。たら・ればは世の中にはないけれど,こうやって紡いできた,繋げてもらってきた人と人とのつながりがなかったら気づけなかったこと,学べなかったことは多い。

マイノリティと言われても,僕はこの世界に生きることに誇りを持っているし,この世界に生きる人たちを尊敬してもいる。

そんな風に思うなんて,当時は想像もしなかったけれど。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?