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誰かの靴を履いてみること

ブレイディみかこさんの書いた『僕はイエローでホワイトで、ちょっとブルー』を知ったのは今年の新年、朝日新聞に著者の対談の記事とともに広告が掲載されていたのを見たときだった。

結局興味を持ちながらも今日まで読まずにきている。

この「誰かの靴を履いてみること」(put oneself in a person's shoes)は、日本語にストレートに訳せば「人の立場で考えること」になるのだろう。著者は自身の息子が"empathy"とはなにか、という問いに対してこのように答えたことから発想を広げ、sympathyとempathyの違いへと視点を向けている。

empathyとsympathyのニュアンスはさておき、この「誰かの靴を履いてみること」は教育研究と教育実践というふたつの間で生きてきた僕にとっては、非常にしっくりくる言葉だった。

教育研究は現場に還元されてこそ意味がある、というのが僕の信念だ。医学分野の基礎研究にも似たような性格があるかもしれない。

自己満足で研究を進めることも悪くはないのかもしれないが、自己満足を現場に持ち込むことは避けるべきだろう。少なくとも現場を対象に研究するのならば、そこには教師や子どもたち、学校に関わる様々なアクターに対する絶対的なリスペクトが必要になる。僕はこのことを、稲垣先生の言葉として父から教わった。

「教育研究者は教師になることはできない」

だからこそ、そこには現場で日々子どもに向き合っている教師に対しての敬意が必要になる。そう思っていてもついつい礼を失した行動をとり、お叱りを受けたこともある。

そんな僕も、研究から現場へとフィールドを移した。研究自体をやめたわけではないから、移した、という言葉は正確ではないのかもしれない。けれどもこれまで研究として外側から見ていた世界を内側から体感するようになったという意味では間違いなく、フィールドを移ったのである。

「教師の靴を履いてみる」というような、ある意味"try"のニュアンスで教師という職業を選択したのかと言われればそんなことはない。教員養成を受けた当時から、あるいはひょっとするともっと昔から、学校という場は僕にとってはいつも、良くも悪くも特別だった。そんな気持ちを抱く場所で働くことができることを幸せに思う気持ちも強い。

だから、「履いてみる」と言うと教師にも、研究者にも、ひょっとすると僕自身にも不誠実なのかもしれない。

けれども僕はあえて、誰かに説明するとき、「教師の靴を履いてみる」というような趣旨の言葉を選択する。それは僕自身がまだまだ教師になることができていないという未熟さを表すものでもあると同時に、少なくとも昨年度まで研究の道にいた僕にとっては研究と実践との関連が(はじめに書いたように)常に大きなテーマであり続けたからだった。

僕が進めてきたことが、現場にとってどんな意義を持つのだろうか。

僕が行っていることで、現場の先生方はどのような恩恵を受けるのだろうか。

そんなことを考えながら研究してきたのは、僕の周りにたくさんの現場で働く教師たちがいるからだった。

小学校からの恩師、大学の友人。彼らにとって僕や僕がやっていることは何か意味を持つのだろうか。そんなことを感じながら現場から学んできた僕にとって、「教師の靴を履いてみる」ことは、僕がやってきたことの正しさを確かめる意味でも不可欠なことだった。

そしてそのことの大切さを今、改めて感じている。

外から見ていた世界と内側から見る世界は、かなり違う。実践者には実践者の、研究者には研究者の言語がある、なんてよく言うけれど、なるほどこういうことなのか、ということをより実感を持って理解している僕がいる。

国の決めたことにがんじがらめにされる教師たち。

オンライン授業をしたくてもそもそも設備が整っていない学校。

そんなことを挙げはじめればきりがないが、そんな「やりたくてもできないこと」がたくさんあるのが教師という職業なのだ、ということもその一つだ。

研究でそれを語ること、あるいはそれを読むことと、現場でそれを感じることはどこか違う。そこで教師が感じていること、葛藤を描くのが研究なのかもしれないが、それを「教師の靴を履いてみる」ことと呼べるのかどうか。そんなことを思うなら、文科省の進めていることなんて、況や。

「誰かの靴を履いてみること」の靴と僕自身の距離感はまだまだわからないことの一つとして残っている。けれども今の僕にとって、「誰かの靴を履いてみること」は「人の立場で考えること」を超えて、実際にその立場に立ってみることなのではないか。そんな気がしている。

当事者であることでしか見えない世界がある。当事者であることでしか感じられない気持ちがある。そんなことの積み重ねで、もう少しだけいろいろな人の気持ちや想いに寄り添えたら。

そしてそんな当事者になれない僕自身を自覚し、当事者たちにもっとリスペクトの気持ちを向けることができたら。そんな風に思っている。

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