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終の住処が一人なら

最寄駅から家までの道に、板チョコのような扉のスナックがある。
一軒家の1階を使ったお店で、外には室外機やゴミ箱らしきものが置いてあり、日中はほかの住宅に溶け込んでいる。

陽が沈んでから通りかかると「一応今日も店開けましたよ」と言わんばかりに無造作に、背の低い黒い看板が置かれていたり、置かれていなかったりする。

板チョコ扉を開ける勇気が出ずに一年ほど経ったある日、週末の引きこもり生活に終止符を打とうと家を飛び出した私は、板チョコ扉のノブをぐっと回してみた。

L字型の6席のカウンターを隔てて、中年の男女とニューエラのキャップを被ったママが座っていた。
60代ほどに見えるママは椅子から立ち上がって「ああ、こんにちは」と一見の私に挨拶をした。
「いらっしゃい」ではなく。
なんか道端で知り合いに会ったみたいなテンションだなと、少しおかしかった。

常連らしき二人は地元の顔見知りのようだ。
このあたりの再開発や、それに伴う工事の騒音について一通り文句を言い合うと「もう疲れたから帰ろうかな」「私も〜」と会計を別々にすませて出ていった。
退店する際、二人は自然な所作でひと言も交わしていない私に軽く会釈をしてくれた。

ニューエラのママはこの街に住んで長いようで、あそこのパン屋のサンドイッチが美味しいとか、あの辺にコロッケ屋があったのに去年閉店してしまったとか、貴重なご近所情報を教えてくれた。

その途中、仕立ての良さそうなジャケットを着た一人の女性が入ってきた。

艶のある黒髪のショートカットがよく似合っていた。
ママとのやりとりで、その人も大常連の一人だとすぐに分かる。

「今日はずいぶん遅いのね」
「いやあ、もう決算が大変で……」

ハイボールをグイッと飲み干した女性は「なっちゃん」と呼ばれていた。

ママは、この前2年ぶりに店に来たという共通の知り合いの話をして、話題は駅前に建設されるタワーマンションの話題に移行した。

私はぬるっとご近所話に混ざり、あいづちを打っていた。

話の流れで、なっちゃんがお店の斜向かいのマンションに夫と息子二人と住んでいることを知る。
息子さんは大学生と高校生で、次男がなっちゃんと一緒に店に来るときはオレンジジュースを飲んでいるという。

「生意気よね、高校生でこんなお店に来るなて」とどこか嬉しそうだった。


これもまた話の流れで、私は夫が二ヶ月ほど出張に行っており、今は一人でマンションに住んでいると告げた。


「えーっそんなに旦那さんと離れ離れで大丈夫?」
と、他の人たちのように無用の心配をされるだろうと身構えたがなっちゃんは違った。

「あらっ背中に羽が見えるわ!どっかに飛んで行けそう、自由を楽しんでね」
彼女は私の背中を指さして、そこに半透明の羽が生えているかのように目を細めた。

なっちゃん、めちゃ愉快な人じゃん。
私は確信した。


なっちゃんの夫は子どもの小学校時代にPTA会長をしていて、今でもPTA仲間たちと交流があるという。
今度の週末、夫が勝手に企画したPTA飲み会が家で開かれることに彼女はぷりぷり憤慨していた。

「家の掃除とか面倒なのよ。ほんっと勘弁してほしいわあ」
なっちゃんはその会に参加するつもりは毛頭なく、週末はジャズダンスの練習に行くようだ。
一人目の子が生まれてから二人目の子が中学生になるまで、十数年のブランクを経てようやく復帰したらしい。

そんな彼女の最近の楽しみは、一人暮らしの家探し。
なっちゃんは、次男が大学に入る今春から近くにマンションを借りて一人で住む予定を立てていた。
ふらっと内見に行ったところの日当たりが期待以上によくてね、と楽しそうに話す彼女に私は「旦那さんと離れ離れで大丈夫ですか?」と無粋な質問をしそうになるのをグッとこらえた。

南向きのその家は、今の家から徒歩5分のところにある1DKだという。
「楽しそうにしちゃって」とニヤニヤするママ。

「もう20年以上も一緒に済んだし、そろそろお互い自由にしたいわよ〜」と、なっちゃんは内見の写真をスクロールしながらルンルンしていた。
語尾に音符が見えた。


子育てを卒業したら、スープの冷めない距離で別居婚。
夫婦の形にそんな別解があったのか。
別居婚の話を深掘って聞いていいものかと思いあぐねてドキドキしていると、なっちゃんは「明日早いから」と2杯目のハイボールを飲み干し、サッとお勘定をした。

来たときより血色のいい頬をゆるませて、彼女は私に手を振った。
「おやすみなさ〜い。またここで!」
ほくほくした気持ちで私は帰路に着いた。
この土地に住んで一年半、思いがけず地域コミュニティに足を踏み入れてしまった興奮がしばらく熱を帯びていた。


店でしか会わないご近所仲間。
馴染みのスナックのママと客。
20年以上一緒に住んだ夫婦。
いろいろな形の連帯でがあって、それは撚り糸のように色とりどりで、太さも長さも強度も違う。

時間の経過で結びつきはゆるんだり、気づくと新たな結び目ができていたり、途切れた糸の先が復活したりする。

無事に老後を迎えることができたら。

紆余曲折を経て、終の住処が一人暮らしになるとしたら。
孤独だとしても、孤立はしない未来が待っていそうだ、と少し安心できた。



3/18発売「私たちのままならない幸せ」より抜粋


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