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資本主義に最後に排除されるのは人間そのもの

「加速主義」という考え方があるのを最近学んだ。

Wikipediaによれば「加速主義」とは、

加速主義 とは、政治・社会理論において、根本的な社会的変革を生み出すために現行の資本主義システムを拡大すべきであるという考えである。

wikipedia

文字通り資本主義を「加速」させていくことに活路を見出すというか、現在地からの脱却を目指すというニュアンスとして僕は理解している。

これは単なる形而上学的な思考などではなく、すでにあらゆる面で速度がつき始めている動きではないだろうか。


企業の採用面接で排除されようとしている発達障害や精神疾患を持つ人。
クラウドファンディングで資金を集めなければならない国立科学博物館。
「稼げる大学」という理念などなど。

例を探せば枚挙にいとまがない。


しかし、本当にそれで良いのだろうかと思うのだ。

現在地球上の多数の国が採用している「資本主義」という制度。
これに加速度がつく/落ちることは、確かに変革にはなるだろう。だが変化はなぜ起こす必要があるのか? を考えることを忘れてはいないか。

変化は「もっとよくなりたい」「ここをよくしたい」という動機から発生を目指すものではないだろうか。

資本主義を加速させるという概念の先に、どんな幸せが待ち受けているのだろう? 僕には疑問しかない。


唐突に思えるかもしれないが、ちょっと運の話をしたい。

僕は「運悪く」虐待家庭に生まれてしまったが、人生のありとあらゆる面で運に見放されているわけではなかったと思っている。

読書という逃避先を見つけることができたし、
解離してなんとか生き延びてこられた。
表面的服従を装いながら、心までは売り渡さないこと、不可能に思える反逆も成就しうることを物語から学んだ。
虐待的環境から脱出する糸口を得た。

これらはそのひとを取り巻く環境や、当人の興味関心等に左右される事情であり、言うなれば「運」だと思う。

僕は中学生の半年間ほど、自殺を真剣に検討した時期があるが、結局実行はせずに現在まで生き延びている。生存の理由もまた「運」だった。
逆にパラレルワールドがあるとしたら、「運」に見放された僕は15歳で生涯を閉じていたかもしれない。


だが本当はこれらは、単純な「運」という言葉で語れて良いものごとではないと考えている。

ここに本当に必要なのは「運」ではなく「福祉」だ。

生き残れるか残れないかが運だけでは決まらないようにするために、福祉という概念が生まれたのだと思う。なんらかの理由で物質的・精神的に困窮する段階は誰にでも訪れる可能性がある。そこをより大勢が、できれば全員がクリアできるようにこそ、「福祉」という制度は構想され存在しているのではないか。


しかし資本主義というか、コストパフォーマンスから見れば、福祉という分野は「効率が悪い」とも言えるかもしれない。

福祉で人を助けることを「投資」だと考えるとしよう。

今は困っているその人は、福祉の助けを得て現在の状況を切り抜けることさえできれば、世界に貢献して多大なる富を生み出す人であるかもしれない。
もしそうなれば、「福祉」としてその人を助けるために費やした手間と費用は何倍にもなって返ってくる可能性がある。投資は成功というわけだ。

だが金銭的投資と同じように、必ずそうなるとは限らない。

傷ついた人の心は簡単には回復しない。
「福祉」という制度で助けた人は常に「回復できない可能性」を持っている。
心身に障害が残ったら、歳を取ったら、年金や生活保護という形で福祉の助けを得続ける形になるだろう。
「投資」という概念で見れば、これは失敗でろう。助けた相手がリターンをもたらしていないことになるからだ。


これが資本主義の恐ろしいところだと僕は思っていて、経済が主体だからなんでも投資に還元して捉えることができてしまう。

気をつけなければ「価値のないものは邪魔なだけだ」という理念さえ生まれてしまうかもしれない。人心の荒廃が進んでいる最近では、すでに始まっているとすら言えそうだ。

無駄か、無駄でないか。と言えば、福祉はきっと無駄になる可能性の高い分野であり、だからこそ目の敵にされやすい。
本当は長時間労働や短すぎる睡眠や偏った価値観や平然と裏金を作る政府の方が無駄ではないかと思うのだけれど……。


資本主義が加速していくことによって起きる変化とは、「無駄か、無駄でないか」をより短い時間のうちに判断して「無駄でない」を取り続けていくという経済活動なのではないかと思う。

その始まりこそが「稼げる〇〇」であり「予算を減らされる芸術分野」であり「糾弾される福祉」ではないだろうか。

好意的に考えようとしても、ちょっと流石に生きづらすぎる社会だと思う。

人工知能が創造主(人間)を超越するという概念があるが、資本主義にもこれと同じ現象が起きる可能性があると思う。

人間が加速させた資本主義経済はどんどんその回転速度を速めていき、適応できない人をどんどん振り落としていって……最後には、人間という存在そのもの全てを振り落としても進み続けてしまう。


元来、人間は効率的にはできていないと思う。

原始時代の人間は狩猟に丸一日を割いていたわけではないというし、「食料を得て生き延びること」が当時における「無駄でないこと」と仮定すれば、腹が膨らまない神話の構想や壁画の製作は「無駄」かもしれない。

それでも人間はそれをやるし、他にも歌い、話し、よく笑う。人間はたくさんの無駄を内包して生きている。

無駄を排除するというのは人間性を否定するということであり、だからこそ効率を求めすぎる社会は生きづらくなるのではないだろうか。

利潤の追求が至上命題となる資本主義は、「福祉」や「芸術」とは元々相容れないのだと思う。リターンを要求する福祉などプレッシャーだし、「稼げる芸術」とはパトロン制度への逆行にも似た制度の構築ではないか?


日本、いや日本だけではなく地球のあらゆる国で起こっている生きづらさの根底にある理由は、人間の生み出してきた社会と歴史が「人間らしさ」といういちばん失ってはいけないものを削り取ろうとしているからではないかと思う。



文責:直也

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