振り返る大人

我が家のマンションの通路はひどく狭く、長く、暗い。歩いていると後ろから誰か付いてきているのではとおっかない。幼い頃は夜にその通路を歩くことが非常に怖く、三歩進んでは後ろを振り返り、自分の足音に自分で耐えられなくなって、部屋番号まで走っていくということが何度もあった。

さすがに成人してから何年も過ぎ、階段の登りで地球の酸素濃度を数パーセント下げるほど息が切れるようになってからは、振り返ることはなくなった。

先日、仕事が終わり件の通路を歩いていると、少し前に小学生程の男の子が歩いていた。その子は少し歩くとこちらを振り返り、私との間隔を確かめると歩くスピードを上げ、また少し歩くとこちらを振り返る。だんだんと振り返るペースが速くなりやがて一目散に駆け出して見えなくなった。角を曲がる際にこちらを振り返った顔は安堵の表情だったのか、それとも恐怖の表情だったのだろうか。

男の子がいなくなって一人になると、しんとした空気が辺りを包んだ。なんだか私はやけに怖くなって、ふと後ろを振り返った。歩いてきた通路の先は井戸の中のようにぽっかりと暗く、誰もいなかった。その暗がりをみて、やっぱり怖いな、と思った。

私がこの通路で振り返らなくなったのはいつからだろうか。私は大人になったんじゃなかった。心に子供をしまえるようになっただけだった。心の中の子供はいつまでも無邪気で、怖がりで守られたいと思っていた。そんな子供を大人の肩書を背負った私が叱って過ごしてきただけだった。自分より年齢が低い若者の活躍がニュースで報じられたとき、最近の若者はすごいなあなどと言ってみる。子供は癇癪を起している。悔しい。俺だって。それを抑える。すごいなあ、すごいなあ。子供がむやみやたらに散らかした感情を大人のフリをした私が片づけるのだ。そんなことばかりしていたからか、気づけば自分の中からワクワクした感情がなくなってしまっていた。

私は大人になったのだろうか。みんなは大人になれているのだろうか。

ばあちゃんの三回忌で母さんが泣いていた。あの時泣いていた母さんは、子供だったのだろうか。母さんも、父さんも親であると同時に、ばあちゃんじいちゃんの子供でもあるのだ。彼女、彼には心に住んでる子供が出てこられるような空間があるのだろうか。老いた父母を見ると時々切なくなる。体がどんと重たくなったように感じる。結局のところ、まだまだ私は子供なのだった。しかしそれで救われることもあるだろう。だから父母にも、子供に帰れる場所があればと思う。

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